第36話: 番人です
柵の脇に、折れた鍬が三本、並べて置かれていた。
朝一番に、それが目に入った。刃の部分から真っ二つに割れている。柄も、乱暴に折られたのではなく、まるで内側から引き裂かれたような裂け方をしていた。
五日目の朝は、そうして始まった。
外套を羽織ると、朝の冷たさが肌を刺した。初雪の朝に似た、澄んだ冷たさだった。水路の音も、鳥の声も、届かなかった。庭全体が息を潜めているのだと、その静けさで先に理解した。
柵の外に目をやる。天幕の連なりは、昨日と変わらない数だった。だが、人影の動きが違った。誰も彼も、足音を殺すように歩いていた。
馬の一頭が、柵から離れた場所で暴れていた。手綱を持つ兵が、なだめる声を上げている。理由はわからない。だが、動物の方が、人よりも先に何かを感じ取っているようだった。
柵際まで進むと、ダグラスが立っていた。帳面を抱えていない。両手をだらりと下げたまま、庭の奥を見つめていた。
「――今日ですね」
「ああ」
短い答えだった。証拠を求める、いつもの口調ではなかった。
「鍬は、見たか」
「見ました」
「三本とも、あれだ。井戸代わりの桶も、底が抜けた」
「道具のせいじゃないと、誰も言わない。だが、庭のせいだとも誰も言わない」
ダグラスの声に、疲労以上の何かが滲んでいた。諦めではなく、判断を避けているような響きだった。
「兵は」
「命令があれば、動く。それが仕事だ」
目を伏せて、彼は続けた。
「――俺の仕事は、記録することだけだったはずなんだが」
その先は、言わなかった。帳面を持たない手が、意味もなく開いては閉じていた。
天幕の間から、若い兵の声が漏れ聞こえてきた。
「昨夜、見張りに立ってたら木の影が動いたんです。人みたいな形でした」
「気のせいだろう」
「三人とも、同じものを見たんです」
誰も、それ以上は取り合わなかった。だが、誰も笑い飛ばしもしなかった。庭が拒み始めているのだと、言葉にしなくても、皆どこかで気づいているようだった。
昼が近づいても、日差しは弱いままだった。雲はない。それでも、光に厚みがなかった。庭全体が、薄い膜の向こうにあるように見えた。
水路を覗くと、昨日よりわずかに水嵩が戻っていた。カルが、まだ怒りを解いていない証だった。
ミラが、天幕の陰から歩いてきた。紙を抱えていなかった。手ぶらで来たのは、初めてだった。
「まだ、慣れません」
小さく笑って、そう言った。前とは違う笑い方だった。
「――足、痛くないですか」
「もう平気です。あの、リナさん」
言いよどんでから、ミラは頭を下げた。
「この間は、ありがとうございました」
「――いいえ」
短く答えると、ミラは意外そうな顔をした。
「今日、退去の話が出るかもしれません。……そうなったら、また来れるかどうか」
言葉の途中で、ミラは自分の言ったことに気づいたように口をつぐんだ。それ以上は続けず、天幕の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、名前で呼び合うということの重さを、あらためて思った。役に立つかどうかとは関係のない場所に、いつのまにか踏み込んでいた。
夕刻が近づく頃、木立の陰からアルヴィンが歩いてきた。
いつもの切り株にも、輪の外側にも留まらなかった。真っ直ぐ、柵の前まで来た。
「リナ」
「……はい」
「五日目だ」
「知っています」
しばらく、どちらも動かなかった。風のない沈黙が、二人の間に降りていた。杭の影だけが、少しずつ長く伸びていった。
「聞きたいことがある」
アルヴィンの声は、いつもより低かった。
「――七年前、お前を外した時のことだ」
その一言で、右手首の古傷が疼いた。忘れていたわけではない。ただ、思い出す速度が、いつもより速かった。
――あれは、追放が決まった夜のこと。
焚き火の傍らで、誰かが「戦力にならない」と言った。誰の声だったか、もう思い出せない。ただ、印を消す鉄環が肌に押し当てられた熱さだけは、今も右手首に残っている。名前を呼ばれずに、荷物だけを持たされて、道の外へ押し出された。
あの夜、誰も、行き先を尋ねなかった。荷物の中身さえ、確かめられなかった。ただ、歩けと言われた方向へ、歩いただけだった。
――右手首の古傷が、今も同じ場所で疼いている。
疼きが手のひらに戻ってくる感覚と共に、目の前の沈黙に意識が戻った。
「あの時、お前が何を思っていたかは一度も聞かなかった」
アルヴィンは、視線を逸らさずに続けた。
「今更、遅いとわかっている。それでも、聞きたい」
一拍、置いた。
「お前は、これから――何になりたいんだ」
問いは、思っていたより、まっすぐ届いた。
答えるべき言葉は、ひとつではなかった。都に戻る、という選択肢はとうに消えている。庭を守る、というだけでは足りない気がした。役に立てるかどうかで全てを測る癖は、まだ胸の奥に残っている。だが、その癖の向こうに、七年かけて積み上がった何かが、確かにあった。
シアとソルが、いつからか自分をそう呼んでいたことを思い出した。誰かに与えられた役目ではなく、積み重ねの果てに勝手にできてしまった名前だった。あの日は、嫌じゃないと答えるだけで精一杯だった。今は、それを自分の口から言えるかどうかが、試されている気がした。
怖くないと言えば、嘘になる。もう一度「不要だ」と言われる恐れは、今もどこかに残っている。それでも、この庭で積み上げてきたものを、他人の言葉で測らせるつもりはなかった。
喉の奥に力を込めて、口を開いた。
「……番人です」
声は、震えなかった。
「ここの」
アルヴィンが、息を止めたのがわかった。
何かを言いかけて、止めた。しばらく、瞬きすらしなかった。
沈黙だった。答えだった。七年の、返事だった。
「――そうか」
それだけ言うと、アルヴィンは目を伏せた。何か言いたそうに口を開きかけて、また閉じた。長い間を置いて、ようやく言葉を継いだ。
「役立たずと言った男が、番人と名乗る女に何を言えばいいのかわからない」
自嘲のような響きだった。
「謝れば済むとも思っていない」
「――思ってません」
「それでも」
アルヴィンは、一歩、こちらへ踏み出した。
「戻れとは、もう言わない。ただ――」
言葉が、そこで止まった。夕刻の風が、初めてかすかに吹いた。
「お前が消される時は、抗う側に回る。それだけは約束する」
その言葉に、何と返せばいいのか、わからなかった。信じていいのかどうかも、まだわからなかった。信じることと、期待することは違う。七年前、期待した分だけ裏切られた記憶が、まだどこかに残っている。
それでも、右手首の疼きが、わずかに和らいだ気がした。約束という言葉を、この男の口から聞く日が来るとは、思っていなかった。守られるかどうかは、まだわからない。それでも、聞かなかったことにはできなかった。
陽が傾き始めた頃、天幕の方から角笛が短く鳴った。集合の合図だった。
アルヴィンは、それを聞くと、こちらに背を向けた。振り返らずに、天幕の方へ歩いていった。その背中が、来た時よりも少しだけ小さく見えた。
七年前、除名を告げたあの背中と、今歩き去っていく背中は、同じ人間のものとは思えないほど違って見えた。何が変わったのか、言葉にはできない。ただ、もう憎むだけの相手ではなくなっていることだけは、はっきりわかった。
柵の外で、鎧の兵たちが列を作り始めていた。松明は、まだ灯されていない。だが、隊列の先頭に立つ男の手には、あの日と同じ、封のない紙束があった。
その時、遠くで馬が甲高く嘶いた。何頭かが一斉に、境界の方を向いた。誰も、その意味を口にしなかったが、隊列の空気が、目に見えて張り詰めた。
兵の何人かが、木立の方をちらちらと窺っていた。昨夜見たという影のことを、まだ気にしているのかもしれなかった。列は、揃っていながらどこか落ち着きがなかった。
五日目の刻限は、まだ来ていない。
水路の方から、かすかな音が届いた。
止まっていたはずの水が、一筋、また流れ始めていた。朝、あれほど深かった沈黙が、今は薄紙一枚分だけ、剥がれている気がした。
まだ全部が戻ったわけではない。それでも、この音だけは、確かに応えだった。
角笛が、もう一度鳴るまでは――まだ、何も終わっていない。
その音を、いつまでも聞いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第36話をお届けしました。EP20で精霊たちがこっそり使っていた「番人」という呼び名を、今回はリナ自身の言葉としてアルヴィンに突きつける話にしたいと、プロットの段階からずっと決めていました。「役立たずと言った男が、番人と名乗る女に何を言えばいいのかわからない」というアルヴィンの台詞は、彼の七年越しの後悔を、謝罪ではない形で書きたくて選んだ一言です。
右手首の古傷は、これまでも何度か彼女を過去に引き戻してきましたが、今回だけは疼きがほんの少し和らいで終わるのを、リナに許してあげたいと思いました。「番人です。ここの」――この短い一言のためだけに、今回の話を書いたと言っても過言ではありません。
五日目の刻限は、まだ来ていません。次話で、その答えが出ます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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