第35話: 膠着
水路の音が、消えていた。
目を覚ました瞬間、それに気づいた。
最終通告から、三日目の朝だった。
起き上がって、真っ先に耳を澄ませた。いつもなら、朝一番に届くのは水路の音だった。七年間、一度も途切れたことのない音だった。今朝はその音の代わりに、鳥の声だけが、やけに大きく聞こえた。
柵際まで歩いた。露に濡れた草が、足首に冷たかった。水路を覗き込むと、底の小石がむき出しになっていた。水は、細い筋になって、かろうじて流れているだけだった。
最終通告の夜から、庭は少しずつ変わり始めていた。
一日目は、静かだった。杭が増え、縄が張られ、天幕がもう一つ増えただけだった。二日目、境界に近い水路の水かさが、目に見えて減った。調査官たちが測量の杭を打ち直そうとして、前日打った印がいくつか消えていることに気づいた。土そのものが、少しずつ動いているようだった。
夜になると、天幕の周りに焚かれる火が、理由もなく小さく萎んだ。風のない夜にも、炎の先端だけが、誰かに撫でつけられたように傾いだ。兵の一人が、灯りを絶やさぬようにと薪をくべ足すたび、なぜか同じだけ火が弱った。
誰も、それを庭の仕業だとは言わなかった。ただ、口数が減っていった。
柵の外から、ダグラスの声がした。
「――リナ」
振り向くと、彼は目の下に濃い隈を作っていた。帳面を抱えたまま歩いてくる足取りが、いつもより重たかった。
「水路が、涸れてる」
「見ての通りです」
「境界の内側の分もか」
「わかりません。わたしの側は、まだ流れています」
ダグラスが、口をつぐんだ。境界の外側だけ涸れ、内側だけ流れている――それが偶然でないことは、彼にも伝わったはずだった。何かを言いかけて、やめた。帳面を抱え直したまま、しばらく水路の底を見つめていた。
「兵の水汲み場が、使えなくなった」
「それは」
「困る、と言いたいところだが」
言葉を切り、彼は空を仰いだ。
「言う資格が、俺にあるのかもわからない」
昼近く、天幕の方から、怒鳴り声が聞こえてきた。
境界の杭を打ち直しに出た兵が二人、森の中で方向を見失い、半刻以上も同じ場所を歩き続けていたという。戻ってきた男たちの顔は、蒼白だった。「道が、違う場所に繋がってた」と、震える声で誰かに訴えていた。
いつもの獣道が、いつもの場所になかった。
夕方、ミラが柵際まで来た。
「境界の印、もう一回付け直すことになりました」
声に、いつもの張りがなかった。
「暗くなる前に済ませろって。……昼のうちに終わるはずだったのに、間に合わなくて」
「一人で、行くんですか」
「仕事ですから」
紙を抱え直し、ミラは小さく笑った。いつもの好奇心の色は、そこになかった。
その笑い方が、気にかかった。薄雲が陽を遮る、その直前のような翳りだった。
止めるべきかどうか、迷った。境界の外は庭の管轄ではない。そう思おうとしたが、道が変わっていることを、もう知っていた。知っていて黙るのは、嘘に近いことのようにも思えた。
「気をつけてください。道が、いつもと違うので」
「……ありがとうございます」
ミラは一礼して、天幕の方角へ歩いていった。その背中を、水路の音のない静けさの中で、しばらく見送った。
夜半、ダグラスの声で、目が覚めた。
「リナ――」
声が、震えていた。
「ミラが、戻ってこない」
柵の外に出ると、松明を持った男たちが、慌ただしく行き来していた。
「境界の印を付け終えたところまでは、報告があった。その後、消息が」
「捜索は」
「三班、出した。二班が、同じ場所に戻ってきた」
ダグラスの声が、そこで途切れた。
「頼む。道を知っているのは、お前だけだ」
迷った。
境界の向こうは、庭の外だ。そこで迷う人間を、庭の理由で助ける義理はない――そう考えかけた自分に、驚いた。七年前、道に迷ったのは自分の方だった。誰にも探しに来てもらえなかった夜のことを、忘れてはいなかった。
名前も知らない兵とは、違う。ミラは、名前で呼び合った相手だった。
拳を、一度だけ握った。
「案内します」
ダグラスの目に、安堵と戸惑いが同時に浮かんだ。
「精霊たちが怒っているのは、知っています。それでも」
一拍、置いた。
「誰かを死なせるのは、庭の望むことじゃありません」
柵を越え、森へ入った。松明は持たず、目と耳だけを頼りに歩いた。七年、この土地の呼吸を覚えてきた足が、迷わず奥へ進んでいく。
水路の細い筋を辿っていくと、シアが顔を出した。
「行くの」
「はい」
「危ないよ、今」
「知ってます」
シアの声に、迷いがあった。
「みんなで決めたの。水も、道も、光も」
「みんなで」
「ソルも。……カルが、一番怒ってる」
その名前に、少しだけ息を止めた。
水路が途切れる先、木立の奥に、赤い光がちらついていた。
近づくにつれ、その光は輪郭を持ち始めた。人の形に近い、小さな影。燃える炭のような赤い目が、こちらを見ていた。
「――お前か」
低い声だった。初めて、はっきりと言葉になって届いた声だった。
「カル」
「名前、呼ぶな」
ぶっきらぼうな声が、跳ね返ってきた。
「お前まで、あっち側に立つ気か」
「立ってません」
「なら、なんでここに来た」
「人が一人、迷ってます。助けに来ました」
カルの光が、一段強く瞬いた。
「知ったことか。あいつらは、お前を連れて行こうとしてる連中だ」
「それでも」
「それでも、なんだ」
声が、初めて大きくなった。
「お前がいなくなったら、誰が名前を呼ぶ。誰が、庭の音を聞く」
赤い光が、揺れた。怒りの奥に、別の色が滲んで見えた気がした。悔しさに似た、けれど、それだけでは片付かない何かだった。
「おれは、お前が連れて行かれるのが嫌なだけだ」
カルの声が、初めて小さくなった。
「だから、道を消した。光も消した。あいつらが、ここまで来られないように」
怒りだった。恐れだった。カルの、初めて見せた本当の顔だった。
掌に、じんわりと汗がにじんだ。
カルの怒りが、ただの気性の荒さではないと、初めて分かった。守りたいものが、怒りという形でしか出てこない――それは、自分にも覚えのある不器用さだった。
それでも、頷くわけにはいかなかった。
「気持ちは、わかりました」
静かに、続けた。
「でも、道に迷った人を、庭の理由で見殺しにはできません」
カルが、黙った。
「名前があってもなくても、わたしが守ると決めたものです。黙って見捨てることは、しません」
しばらく、赤い光だけが揺れていた。
やがて、カルは小さく舌打ちのような音を立てた。
「――案内するだけだ。あいつらを、許したわけじゃない」
「はい」
「礼は、言うな」
言われる前に、頷いた。カルの光が、ふい、と森の奥へ動き出した。追うように、足を進めた。
光の跡を辿った先、大きな木の根元に、ミラがうずくまっていた。
膝を抱え、震えていた。持っていた松明はとうに消えていて、頬に涙の跡が乾いていた。
「――リナ、さん」
「大丈夫ですか」
「怖くて……道が、何度も同じところに戻ってきて」
声が、震えていた。
肩に触れると、ミラは初めて、声を上げて泣いた。
抱きしめることも、慰める言葉も、うまく出てこなかった。ただ震える背中に手を置いたまま、赤い光がゆっくり遠ざかっていくのを見ていた。薪がひとくべ燃え尽きるほどの間、二人はそのまま動かなかった。
夜明け前、ミラを天幕まで送り届けた。
ダグラスが、駆け寄ってきた。何か言おうとして、言葉にならず、ただ深く頭を下げた。輪の外から、アルヴィンがそれを見ていた。何も言わなかったが、いつもと違う目をしていた。
柵の内側に戻ると、東の空が白み始めていた。四日目の、最初の光だった。
水路を覗くと、細い水の筋が、わずかに太くなっていた。カルが許した分だけ、シアが流したのかもしれなかった。すべてが戻ったわけではない。境界の外は、まだ涸れたままだった。
助けたことが、正しかったのかどうかは、わからなかった。ミラを見捨てなかったことで、庭が譲ったように見えるなら、それは望んだ形とは違う。それでも、震える背中に手を置いた感触だけは、消したくないと思った。
明日には、五日目が来る。
五日目に何を告げられ、何を差し出すことになるのか――まだ、何一つ分かっていなかった。
細くなった水路の音を聞きながら、まだ何も終わっていないことだけを、静かに理解していた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第35話をお届けしました。プロットの時点から「精霊たちが動かなくなる庭」をどう描くか、ずっと考えていた話です。今回はリナの意志ではなく、精霊たち自身の意志として庭が動く――それがリナにとっても未知の出来事であるところを、いちばん大事にしました。
カルは、これまで赤い光としてしか登場してこなかった精霊です。今回初めて言葉を交わす場面を書きながら、彼の怒りの中身がずっと「リナを連れて行かれたくない」という一点だったことに、書いている自分も途中で気づかされました。「おれは、お前が連れて行かれるのが嫌なだけだ」という一言は、彼にとってはじめての、素の言葉のつもりです。
ミラを助けるかどうかの選択は、リナにとって「敵を助けるのか」という単純な話にはしたくありませんでした。「名前があってもなくても、わたしが守ると決めたものです」という台詞は、これまで生き物にだけ向けてきた彼女の信念が、初めて人間にまで広がった瞬間として書いています。
次話では、いよいよ五日目――最終通告の期限が来ます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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