第34話: 消えない名前
杭を打つ音で、目が覚めた。
規則正しい響きだった。何かを、地面に深く刻みつける音。
柵の外に、見慣れない人影がいくつも増えていた。
寝床から出て、柵際まで歩いた。
朝霧の向こうに、天幕が新しく二つ増えていた。縄が、庭の縁を四角く区切るように、打たれたばかりの杭から杭へと渡されている。数日前まで、天幕はひとつだけだった。
人影も、増えていた。旅装ではなく、鎧をまとった男たちが、天幕の間を行き来している。金属の擦れる音が、朝の空気に混じっていた。
いつもなら、朝一番に聞こえるのは水路の音と鳥の声だけだった。今朝は、その下に、革と金属が擦れる音が重なっていた。庭が、少しだけ狭くなったように感じられた。空の色も、いつもより青白く見えた。嵐の前に、少しだけ似ていた。
「――何をしているんですか」
声をかけると、近くにいたダグラスが、こちらを見た。帳面を抱えたまま、いつもより顔色が悪かった。目の下に、薄く隈ができていた。
「境界の測量だ。……昨夜、命令が来た」
「許可は、まだ出していません」
「今回は、許可を待たない」
ダグラスの声が、初めて言い訳のように聞こえた。帳面を持つ手が、少しだけ震えているのが見えた。
断りの返事を伝えた夜から、松明が三度焚かれるほどの日が経っていた。
あの夜以来、使者は姿を見せなかった。かわりに、荷馬車の音と、鎧の擦れる音だけが、日ごとに増えていった。ダグラスもミラも、口数が少なくなっていった。今朝、目を覚ますと、庭の縁に杭が並んでいた。
「あなたたちは、止められなかったんですか」
「俺たちの仕事は調査だ。……今回来ているのは、別の部隊だ」
ダグラスが、視線を逸らした。
「別の、部隊」
「王立資源調査局の名じゃない。執行のための兵だ」
執行、という言葉が、水路の音よりも冷たく響いた。
木立の陰から、アルヴィンが歩いてきた。
いつもの切り株からではなく、真っ直ぐこちらへ向かってきたのは、初めてだった。
「リナ」
「……はい」
「今回は、退いた方がいい」
珍しく、早口だった。
「今度の相手は、話の通じる連中じゃない。命令に逆らった記録が残れば、お前の扱いは変わる」
「変わる、というのは」
「市民として、扱われなくなるということだ」
アルヴィンの声に、初めて焦りに似た響きがあった。七年前、除名を告げた側の声には、なかった響きだった。
ミラが、天幕の陰から駆けてきた。
手にした紙を、握りしめている。
「言うつもりはなかったんですけど……」
息を切らしながら、紙を開いた。
「あの、二百年前の記録。名前が消された人のこと。……昨夜、王都に問い合わせが行ったみたいで」
「それで」
「命令を拒み続けた者は、記録から名前を消す。そういう前例があるって、書いてありました」
紙の端を、指がなぞった。
「あなたが今、そうなりかけてる、ってことです」
名前を消される。
その言葉が、思っていたより深く刺さった。
七年前、「役立たず」という言葉だけを残されて、名前を呼ばれずに追い出された夜のことが、脳裏をよぎった。今度は、名前ごと消されるのだという。同じことが、形を変えて繰り返されようとしていた。
指先が、冷たくなっていくのがわかった。名前を消される恐れと、庭を壊される恐れが、頭の上に重い雲が二枚、重なっていくように、同時に押し寄せてきた。
――あれは、三年目の秋のこと。
水路の縁にうずくまっていた小さな水の光に、初めて名前をつけた夜があった。シア、と呼んだ瞬間、光が水面から半分だけ顔を出した。あの日から、責任というものが、自分の中に居座るようになった。名前をつけることは、そこにいていいと言うことだと思ってきた。手放すつもりは、一度もなかった。
水路の音が、あの夜と同じ調子で流れているのが、今、耳に戻ってくる。
それでも、と思う。
もう一度、庭を見た。水路が、いつも通りの音を立てて流れていた。木立の奥で、光の粒がひとつ、瞬いた。
昼近くになって、あの声が戻ってきた。
見覚えのある男が、天幕の前に立っていた。書状ではなく、今回は封のない紙束を手にしていた。旅装の男たちの後ろに、鎧の兵が五人、無言で並んでいた。
五人とも、目を合わせようとしなかった。命じられたことだけを、正確にこなしに来た顔だった。腰の得物には触れていなかったが、そこにあるというだけで、空気の質が変わって見えた。
「先の回答は、記録した通りだ」
抑揚のない声だった。
「本日をもって、最終通告とする」
「最終、通告」
繰り返すと、男は小さく頷いた。
「五日のうちに応じなければ、実力をもって接収に着手する。対象は庭の全域」
「実力、というのは」
「兵を用いる、ということだ」
男の声に、変化はなかった。
「植生の伐採・水路の付け替え・居住区画の撤去。必要であれば、すべて行う」
水路、という言葉に、体が強張った。シアの棲み処だった。
「精霊は、どうなるんですか」
「記録上、精霊という存在は認められていない」
その一言が、これまでのどの言葉よりも、冷たく響いた。兵の一人が、水路の方角へちらりと視線を向けたのが見えた。値踏みするような目だった。庭が、道具の並ぶ棚のように見られている。そう気づいた瞬間、腹の底が、静かに冷えていった。
喉の奥が、狭くなった。
両方から、退けと言われている気がした。
それでも、足は動かなかった。
一度でも名前をつけたら、最後まで責任を持つ。それが、七年間、自分の中に置いてきた約束だった。相手が国家であっても、変わらないはずの約束だった。
拳を、一度だけ握った。
「断ります」
声は、思っていたよりまっすぐ出た。
「五日経っても、変わりません」
「記録した」
男が、紙に何かを書きつけた。
「名前を消すという話も聞きました」
続けて、そう言った。
「それでも」
一拍、置いた。
「わたしの名前は、消させません」
「庭の名前も、同じです」
自分の声が、はっきりとそう言い切るのを聞いた。震えていたのは、声ではなく、指先だけだった。
ダグラスは、俯いたまま唇を固く結んでいた。帳面には、何も、書かなかった。
ミラが、紙を胸に抱えたまま、唇を噛んでいた。アルヴィンは、こちらを見たまま、何も言わなかった。ただ、奥歯を、固く噛みしめているのが分かった。
沈黙が、杭の合間に重たく降りた。
男は、表情を変えずに、紙を畳んだ。
「五日後、この場所に戻る」
それだけ言うと、踵を返した。
男の背を追うように、杭を打つ音が、再び響き始めた。
規則正しい音だった。庭の縁に沿って、一本、また一本と、地面に打ち込まれていく。水路の奥で、赤い光がひときわ強く瞬いたのが見えた。カルの、怒りの色だった。
足が、水路の方へ向いていた。
水面に近づくと、シアが顔を出した。
「怖い顔してる」
「……そうですか」
「消される話、聞こえた」
精霊には、隠しごとができなかった。今更のように思い出した。
「怖くないんですか」
問いに、シアは首を横に振らなかった。かわりに、小さな声で言った。
「怖い。でも、リナがいなくなるほうが、もっと怖い」
その一言に、喉の奥の力が、少しだけ抜けた。
柵の際に、新しく打たれたばかりの杭が一本、まだ土の匂いを残したまま立っていた。
手のひらでそっと触れてみると、木肌はひやりと硬く、掌に杭の重みがそのまま伝わってきた。
五日で何本に増えるのかは、杭を打つ音の数を数えれば分かるはずだった。
水路を振り返ると、水面はいつも通り静かだった。シアの気配だけが、いつもよりわずかに近くにある気がした。
できることを、ひとつずつ数えていくしかない。まずは今夜のうちに、五日で何を残せるか、それを決めておこう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第34話をお届けしました。EP32でリナが初めて口にした「庭は、渡せません」という拒否を、今回はもう一段重い代償の中で言わせたいと思って書いた話です。国家の圧力を、紙の上の言葉から、実際に地面へ打ち込まれる杭という「形あるもの」に変えることで、脅威を目に見える距離まで近づけたつもりです。
今回いちばん書きたかったのは、「名前を消す」という脅しでした。EP33で触れた二百年前の消された名前が、ここで初めてリナ自身への具体的な脅威として返ってきます。名づける側だった彼女が、消される側に立たされてもなお、「わたしの名前は、消させません」「庭の名前も、同じです」と言い切る場面は、彼女の信念そのものを言葉にした一撃のつもりです。
アルヴィンが早口で警告する場面、ダグラスが何も書けなくなる場面は、二人ともまだ答えを出せていない立場として書きました。次のアークで、彼らがどちらの側に立つのか、少しずつ形になっていくはずです。シアとの短いやり取りは、この話でいちばん救いになった場面です。「リナがいなくなるほうが、もっと怖い」という一言は、書いていて自分でも胸が詰まりました。
次話では、いよいよ庭そのものが動き出します。精霊たちが、来訪者たちに対してどう応えるのか——膠着の始まりです。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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