第33話: 加護の証
「あなたの目、知ってます? 光の粒が、宿ってるって」
ミラの声に、いつもの茶々を入れる響きがなかった。
朝霧の中、柵の外に立つ彼女の手には、丸めた紙の束があった。
昨夜の使者の声は、まだ耳の奥に居座っていた。
対象者、という響き。名を呼ばれなかった一瞬。あれから朝が来るまで、水路のそばで座ったまま、ほとんど眠らなかった。
夜通し、虫の声だけが規則正しく続いていた。眠気は来なかったが、涙も来なかった。胸の中だけ、曇り空のように重かった。松明の匂いだけが、いつまでも鼻の奥に残っていた。
柵の縄を跨いで戻ったのは、空が白み始めた頃だった。露に濡れた草が、足首に冷たかった。
「今朝早く、ダグラスさんの天幕に届いたんです」
ミラが、紙の束を持ち上げて見せた。
「王都の記録局から。……昨日の使者が言ってた、あれです」
「七年、生き延びた理由の記録」
「そうです」
頷くミラの目に、いつもの好奇心とは違う色があった。躊躇いに近い何かだった。
少し離れた切り株に、ダグラスが腰掛けていた。
膝の上に帳面を広げているが、筆は止まったままだった。こちらに気づくと、小さく頭を下げた。
「俺は、記録係として立ち会うだけだ。中身は、ミラから聞いてくれ」
いつもの淡々とした声だったが、今日はどこか、距離を測っているように聞こえた。
「じゃあ、読みますね」
ミラが、紙を広げた。古い写しらしく、文字の輪郭が滲んでいる部分がいくつもあった。
「二百年分くらいの記録を、抜粋してまとめたものです。原本は王都にあって、これは写し」
断りを入れてから、彼女は声を落とした。
「禁足地に踏み入った記録が残ってる人間は、この二百年で十一人」
指で、紙の一点をなぞった。
「そのうち九人は、一年以内に姿を消してる。残り二人も、三年目までに」
数字だけが並んだ紙面を、じっと見つめた。名前は一つも記されていない。日付と、年数と、結末を示す短い一語だけが、淡々と続いていた。
「わたしより前に、生き延びた人は」
「いません。あなたが、初めてです。七年という長さも、記録上は前例がない」
「前例がない、というのは」
「規格外、ってことです。良くも悪くも」
ミラが、少し困ったように付け加えた。
初めて、という言葉が、思っていたより重く響いた。七年という時間を、ただ耐え抜いた歳月だと思ってきた。誰かと比べたことは、一度もなかった。比べる相手がいたことすら、知らなかった。
「それで、ここからが本題なんですけど」
ミラが、紙の別の箇所を指した。声が、少しだけ硬くなった。
「昔の神官の記録に、こういう一文があるんです。……『庭に迎え入れられた者は、目に光の残滓を宿す』」
紙面を、見つめた。古い文字は達筆すぎて読み取りづらかったが、指の示す場所に、確かにその一文があった。目に、光。残滓。
「わたしの目のことを、言っているんですか」
「多分。……こっちに来た時から、ずっと気になってたんです。普通の緑の目じゃないなって」
ミラの視線が、まっすぐこちらに向いていた。
「言い出せなかったんですけど。今日これを読んで確信しました。あなたの目、記録の中の『光』と同じです」
言葉の重さが、耳の奥で、鈍く木霊するようだった。
水面に映る自分の顔を、最後に確かめたのはいつだったか、思い出せなかった。
鏡など、この庭にはない。水路の水面が、唯一の鏡だった。光の粒が宿っているという目を、自分自身はまともに見たことがなかった。
「わたしは、精霊と長くいたから、そう見えるだけだと思っていました」
「記録は、逆のことを言ってます」
ミラが、紙を一度畳んでから、また開いた。
「その光がある者は、七年目の四季を全部見届けられる。……そういう順番だって。目に光が宿ったから、生き延びられたって話に読めるんです」
——あれは、まだ二年目の冬のこと。
雪に埋もれかけた小屋の中で、指先の感覚がなくなるまで、火を絶やさないことだけを考えていた夜があった。生きるか死ぬかを、天秤にかけるだけの余力もなかった。ただ、次の薪をくべる。それだけを、繰り返していた。
外では、獣の遠吠えが一晩中途切れなかった。声を殺し、膝を抱えて、朝が来るのをただ待った。誰かに見守られているという実感など、その夜はどこにもなかった。あったのは、凍える指先と、燃え尽きるまでの薪の数を数える自分だけだった。
あの夜の寒さが、今、掌の記憶として戻ってくる。
「それは、違います」
自分の声が、思っていたよりはっきり出た。
「生き延びたのは、わたしが耐えたからです。加護のおかげだと言うなら、この七年は誰のものになるんですか」
ミラが、口を閉ざした。
ダグラスの筆が、帳面の上で一度だけ動いて、止まった。何かを書きかけて、消したような手つきだった。
「……そう、ですよね」
しばらくして、ミラが小さく言った。
「わたしも、変な話だと思ったんです。耐えた人に、後から『実は加護でした』って言うの。失礼だなって」
その一言に、目の前に立ち込めていた靄が、少しだけ晴れていくような心地がした。ミラの言葉に、悪意はなかった。ただ、記録という紙の上の事実と、七年という肌の記憶との間に、埋まらない溝があるだけだった。
「加護があったとして、なんのためですか」
問いに、ミラは首を横に振った。
「そこまでは、書いてないです。……というか」
少し言い淀んでから、続けた。
「王都のお偉方も、多分わかってないんだと思います。分かってたら、もっと違う伝え方をしてたはずなので」
その言葉には、妙な説得力があった。昨夜の使者の、感情のこもらない声を思い出した。あの声もまた、意味を理解しないまま、決められた文言だけを運んでいた。上の人間たちも、同じように、理解しないまま紙の中身を運んでいるだけなのかもしれなかった。
「調べてもわからないことを、こうして伝えに来るんですか」
「伝えないと、もっと不誠実だと思ったので」
ミラが、即座にそう答えた。迷いのない声だった。
「わからないことは、わからないって言うべきだと思ってます。……上には、あまり評判の良くない考え方ですけど」
その率直さに、少しだけ、目の奥が緩んだ気がした。
水路の方角から、小さな水音がした。
振り向くと、シアが岸辺近くまで来て、こちらの様子をうかがっていた。人間が二人もいる場では、あまり近づいてこない精霊だった。
「大丈夫?」
短く、聞いてきた。
「わかりません」
正直に、そう答えた。シアはそれ以上聞かず、水面から半分だけ顔を出したまま、じっと見ていた。
紙を畳もうとするミラの手元を、何気なく目で追った。
畳まれる寸前、端の方に、墨で塗り潰された一行があるのに気づいた。完全には消えておらず、輪郭の一部だけが、かろうじて読み取れた。
「今の、その部分」
指で示すと、ミラの手が止まった。
「二百年前、って読めます」
「……あ」
ミラの顔が、明らかに動揺した。
「これ、本当は見せちゃいけない部分でした。写す時に、上から消したはずなんですけど」
「二百年前に、何があったんですか」
問うと、ミラは紙を胸元に引き寄せた。
「詳しいことは、私も知らされてません。ただ……」
言葉を選ぶように、間を置いた。
「あなたより前に、同じ光を宿した人が一人だけ記録に残ってるらしくて。名前のところは、完全に塗り潰されてました」
「その人は、どうなったんですか」
「わかりません。記録が、そこで途切れてるんです」
ミラの声が、初めて不安げに揺れた。
「本当に、ここまでしか。……これ以上は、私たちの手に負えない話なんだと思います」
紙が、丁寧に丸め直されていく。
ミラが、それを両手で抱えるようにして、一礼した。
「今日はここまでにします。……変なこと、聞かせてすみませんでした」
ダグラスが、無言のまま帳面を閉じ、立ち上がった。二人の足音が、朝霧の中へ遠ざかっていった。
水路のそばに、一人残った。
シアが、静かに寄ってきて、膝の横に頭を寄せた。慰め方を、この精霊なりに探しているようだった。
「二百年前の人、気になる?」
「わかりません」
答えながら、右手首の古傷にそっと触れた。疼いてはいなかった。
目に宿るという光を、自分では一度も、まともに見たことがない。塗り潰された名前の持ち主が、かつて同じ光を映していたのかどうかも、確かめる術はなかった。
ただ、七年という歳月が、自分だけのものではないかもしれないという予感だけが、朝霧の底に、いつまでも沈んでいた。その予感の底に、もう一つ、冷たいものが差し込んでいた。国家が次に何を持ち込んでくるのか、まだ誰も知らなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第33話をお届けしました。プロット段階から「加護と呼ばれることへの抵抗」をリナにどう感じさせるか、ずっと考えていた話です。彼女にとって七年は、耐え抜いた実感そのものです。それを外側から「加護のおかげ」と説明されることは、慰めにも祝福にもならず、むしろ自分の歩みを取り上げられるような痛みに近いはずだと思い、この形にしました。
ミラというキャラクターは、これまで素朴な疑問をぶつける役として書いてきましたが、今回は彼女自身が「失礼だな」と気づく側に回ってくれました。制度の伝令でありながら、人としての違和感を隠さずにいてくれる彼女の存在が、今回の場面を硬くしすぎずに済ませてくれたと思います。
塗り潰された一行と、二百年前の名もなき先例は、今回いちばん書きたかった仕掛けです。ここでは深追いせず、リナの目にも読者の目にも、輪郭だけを残すことにしました。
次話では、この開示を受けてなお動かないリナの姿と、国家からの正式な要求が交差していきます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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