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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第32話: 国家の名の下に

 ダグラスの声は、いつもの淡々とした調子ではなかった。


「リナ。……今すぐ、来てくれ」


 闇の奥で焚かれた松明が、声よりも先に揺れて見えた。


 柵の内側から、こんな時間に呼ばれたことは一度もなかった。


 用があるときは、いつも向こうから来た。ダグラスも、アルヴィンも、庭の外から声をかけてくるのが決まりのようなものだった。今日は違った。呼ばれているのは、柵の向こう側だった。


「何があったんですか」


「……行けば、わかる」


 答えになっていない答えだった。ダグラスの目が、松明の炎ではなく、その奥の天幕を見ていた。




 水路まで、シアが追いかけてきた。


「行くの、向こう側」


「はい」


「あの光、嫌い」


 松明の連なりを、水面越しに睨むような仕草だった。ふだんの光の粒とは違う、脂と煙のにおいがする光だと、シアはいつも言っていた。


「すぐ戻ります」


「ほんとに?」


 答える代わりに、一度だけ頷いた。シアはそれ以上追ってこず、水の中へ、心配そうに沈んでいった。


 柵の縄に、指先が触れた。


 七年、内側にいた縄だった。跨ぐことより、跨いだ先に何があるかを考える方が、体を重くした。ダグラスが、向こう側で待っている。息を一つ吐いてから、縄を越えた。


 七年前、同じ地面を、逆向きに歩かされたことがあった。あのときは自分の足で歩いたのではなく、剣を持った男たちに背を押されて、外へ出された。今は誰にも押されていない。それだけの違いが、思っていたより重かった。


 土の感触が、変わった気がした。同じ地面のはずなのに、踏みしめる硬さが違って感じられた。




 天幕の前に、見たことのない台が組まれていた。


 その上に、ろうで封をされた一巻の書状が置かれている。松明の輪の中心に、見覚えのない男が一人、直立していた。旅装ではなく、王室の紋の入った上着に着替え直している。名乗る様子はなかった。


 輪の外側に、アルヴィンが立っていた。いつもの切り株ではなく、木立の陰から、腕を組んで見ている。ミラは、天幕の柱にもたれて、落ち着かない様子で足を組み替えていた。


 松明の脂の匂いが、風に乗って流れてきた。灰色の煙が、月明かりの中でゆらいで見えた。


「――来たか」


 ダグラスが、短くそれだけ言った。




 男が、書状に手をかけた。


 封蝋が、爪先で割れる音がした。夜気の中で、それはやけに大きく響いた。誰の指がそれを割ったのか、目で見てもまだ実感が湧かなかった。


「王命により、これより読み上げる」


 男の声には、抑揚がなかった。ダグラスの声にあった生真面目さとも、アルヴィンの声にあった迷いとも、似ていなかった。ただ紙に書かれた通りを、正確に運ぶだけの声だった。


「北方禁足地――通称ヴェイラの庭――は、国家資源保全令第四条に基づき、国家管理地に指定される」


 一語ずつ、区切るように読まれた。


「植生・水質・鉱脈における特異性は、王立資源調査局の調査によりすでに確認済み。よって同地における調査、採取、および将来的な接収の権限は、王室に帰属するものとする」


 接収、という言葉が、耳の奥にしばらく居座った。水路も、精霊たちの遊び場も、区切られた土地の名前の下に組み込まれていく想像が、頭の隅をよぎった。




「なお、当地に七年間居住する対象者については――」


 対象者、という響きに、体の芯が冷えた。


 名前を、呼ばれていなかった。この七年間、精霊たちにも、ダグラスにも、アルヴィンにも、名前で呼ばれてきた。書状の中の自分には、名前がなかった。


 喉の奥が、急に狭くなった気がした。冷たい風が、地面を這うように吹き抜けていった気がした。七年前、追い出されたときも、誰も自分の名を呼ばなかった。「役立たず」以外の言葉を、あのパーティの誰からも聞かなかった。今、目の前の男の声にも、同じ空白があった。


 ミラが、小さく息を止めるのが分かった。彼女もまた、この呼び方に慣れていないのかもしれなかった。


「――案内役として、正式に王室の名の下に招聘する。応じた場合、市民権および相応の恩賞を約束する。応じない場合も、調査・接収の実施には影響しない」


 男が、書状から目を上げた。


「以上が、王命の内容です。回答を」


 感情の乗らない目だった。こちらの顔を見ているのに、こちらを見ていない目だった。


 しばらく、誰も口を開かなかった。松明が爆ぜる音だけが、輪の中を埋めていった。




「断ります」


 自分の声が、思っていたより静かに出た。


「庭は、渡せません」


 男は、瞬きひとつしなかった。手元の紙に、何かを記入する音だけが続いた。


「回答は記録した。ただし――」


 紙から顔を上げずに、続けた。


「これは要請ではない。通達だ。応じるかどうかは、実施の可否に関わらない」


 その言い方に、初めて気づいた。


 この男は、説得しに来たのではなかった。頼みに来たのでもなかった。ただ決まったことを告げに来ただけだった。断られることも、最初から紙の中に織り込まれていた。


 紙だった。判こだった。国家だった。


 松明の炎が、一度大きく揺れてから、静かに元の高さに戻った。それだけの間を置いて、口を開いた。




「規則には、根拠が要るはずです」


 声に、力を込めた。


「試した者はいるのか。根拠は――」


 前に、そう聞かれたことがあった。今度は、自分がその言葉を返す番だった。


 男の視線が、初めてわずかに動いた。傍らのダグラスへと、一瞬だけ流れた。


「王命に、根拠の開示義務はない」


 抑揚のない声のまま、そう返ってきた。


「開示義務がないというのも、決まりですか」


 男は、答えなかった。かわりに、一度だけ肩を上下させた。それが返事だった。


 ダグラスが、帳面を握る手に力を込めるのが見えた。


 開こうとして、開かなかった。かつて焚き火の前で「試した者はいるのか」と繰り返し尋ねてきた男が、今は同じ問いを封じられている側にいた。何か言いたそうに口を薄く開いたが、言葉は出てこなかった。


 指の関節が、白くなっているのが見えた。何年も規則を盾にしてきた男の手が、今は何も持てずにいた。


 誰も、口を開かなかった。松明の灯だけが、小さく震えていた。




 顔を上げないまま、口を薄く開いては閉じる仕草を、前にも見たことがあった。


「規則以外に、拠り所がないという顔をしていました」


 ダグラスに向けて、静かに言った。


「今は」


 一度、区切るように続けた。


「その規則にも、あなたの声は届かないんですね」


 ダグラスは、答えなかった。ただ、地面の一点を見つめたまま、拳の中で帳面を握り直した。


「対象者、と呼びましたね」


 男に向き直り、そう言った。


「わたしには、名前があります。リナといいます」


 言い終えてから、自分の言葉の硬さに、少しだけ驚いた。頼んでいるのではなく、そう決めていると聞こえるように、言ったつもりだった。


「名は記録に残す」


 男は、そう言っただけだった。表情は、動かなかった。




「――もう一つ、伝えることがある」


 書状を巻き戻しながら、男が言った。


「王都には、別の記録もある。あなたが七年、この地で生き延びた理由についての記録だ」


 巻かれていく紙の音が、やけに耳に残った。


「詳細は、追って調査官より説明がある」


 それだけ言うと、男は書状を筒に収め、一礼して天幕の中へ下がっていった。


 輪が、静かに解けていく。ミラが、詰めていた息を吐き出すのが聞こえた。白く尾を引いて、夜に溶けていった。アルヴィンは、木立の陰から動かず、こちらを見ていた。何か言いたげな顔をしていたが、結局、声はかけてこなかった。


 名前をつけることを、ずっと大事にしてきた。迷い込んだ仔鹿にも、名もない精霊にも、境界の外から来た誰かにさえも。名づけることは、そこにいていいと言うことだと思っていた。今日、初めて、名づけられない側に立たされた。それでも、自分から名乗った。そこだけは、譲らなかった。




 台の上に、割れた封蝋の欠片が、まだ残っていた。


 誰も拾おうとしなかった。松明の炎に照らされて、赤茶けた蝋の破片が、土の上に小さく散らばっている。名も呼ばれず、記録にだけ残ったものの形をしていた。


 柵の外まで戻る道すがら、その欠片の色だけが、まぶたの裏に残り続けた。歩くたびに、七年前の道と、今夜の道が、重なっては離れていった。同じ場所を、二度、違う理由で歩いている気がした。


 夜風が、いつもより冷たく感じられた。まだ見ぬ「調査官」が運んでくるものを、体のどこかがもう身構えているようだった。――七年、生き延びた理由。その記録には、自分でも知らない何かが書かれている気がした。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第32話をお届けしました。プロット段階から「制度としての国家」をどう書くか、ずっと考えていた話です。アルヴィンの後悔もダグラスの生真面目さも、結局は「人」の顔をしていました。今回はじめて、リナの前に顔のないものを立たせたいと思いました。名乗らない使者、感情の乗らない声、根拠を求められても開示義務がないと言い切る制度――そこに人間味を一切残さないことが、この話の一番の設計でした。


「対象者」という一言に、リナがどう応じるかは書く前から決めていました。「わたしには、名前があります」という台詞は、彼女の信念(名前をつけたものには最後まで責任を持つ)を、自分自身に向けて裏返した瞬間のつもりで書いています。名づける側だった彼女が、名づけられない側に置かれて、それでも自分の名を差し出す――ここが今回の芯でした。


ダグラスが何も言えなくなる場面は、書いていて一番苦しかったところです。彼はずっと「規則」を拠り所にしてきましたが、今回はその規則そのものに声を奪われています。次のアークで、彼がどちら側に立つのかも、少しずつ見えてくるはずです。


次話では、王都の記録――リナ自身も知らない「七年生き延びた理由」に触れていきます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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