第31話: 渡せなかった環
「今度こそ、渡す」
声だけが先に届いて、姿はまだ見えなかった。
柵の外、いつもの見張り台のあたりに、影が一つ伸びている。三日前と同じ場所、同じ影の伸び方だった。
昼のうちに、ダグラスが伝えに来た。
「今日の夕方、また時間をもらえないか。アルヴィンから、それだけ」
帳面から目を上げずに、そう告げた。何のためかは、今日も聞かなかった。
「わかりました」
答えると、ダグラスは筆を止め、少し迷ってから付け足した。
「昨日、王都から使いが来た。俺宛だ。中身は、まだ話せない」
その一言だけを残して、また帳面に目を落とした。何が書かれていたのか、想像もつかなかった。今は、考える余裕がなかった。
水路まで足を運ぶと、シアがもう待っていた。
「今日、また話すの」
「うん」
「三日前と、同じ顔してる」
見透かすように、シアが言った。指先で水面をなぞると、光の粒がひとつ、逃げるように散っていった。
「同じ顔は、していません」
「してる。硬い顔」
言い返す言葉が見つからず、黙って水路の縁に腰を下ろした。シアは、それ以上追及せずに、こちらの膝に頭をこすりつけるような仕草を見せた。慰め方を、この精霊なりに探しているようだった。
柵までの道を、夕陽が長く伸ばしていた。
昼の間、鳴き通しだった蝉の声が、いつの間にか低くなっている。かわりに、夜の虫が控えめに鳴き始めていた。季節が入れ替わる、その境目の時間だった。
右手首に、指先で触れてみる。今日も、疼いてはいなかった。三日前と同じ、静かなままの古傷だった。
柵の外、切り株の位置に、アルヴィンはすでに座っていた。
膝の上で、両手を組んでいる。組んだ指の白さで、今日もまた、言葉を選び抜いてきたのだとわかった。
「来たか」
「約束ですから」
いつもの切り株に、腰を下ろす。柵一枚を挟んでいても、今日は逃げ場のようには感じられなかった。
「三日前は、逃げた」
前置きもなく、そう言った。
「渡そうとして、渡さなかった。今日は、渡す」
懐に手をやりかけて、止めた。まだ早いと、自分に言い聞かせているような手つきだった。
「先に、話しておきたいことがある」
それだけ言うと、しばらく黙り込んだ。虫の声が、その沈黙を埋めていった。
「団を抜けた理由を、この前は言わなかった」
ようやく、口を開いた。
「新しい仲間を、入れたかったからじゃない。……お前を追い出したことに、耐えられなくなったからだ」
その言葉に、何と返せばいいのか、すぐにはわからなかった。
「今さらですね」
「ああ。今さらだ」
否定せずに、そう答えた。
「あの日の掟は、単純だった。話したはずだ。破れば除名、それだけの掟」
アルヴィンの視線が、地面の一点に落ちていく。
「だが、お前は何も破っていなかった。魔力の測定値だけを理由に、席を空けろと言ったのは——」
言葉が、そこで止まった。
「団の、上の連中だ」
嘘の匂いを、その言い方に感じた。
「本当に、それだけですか」
問い返すと、アルヴィンの拳に力が入った。
「反対、しませんでしたね」
「……ああ」
「団長でした。止められたはずです」
自分の声が、思っていたより低いことに気づいた。
「止めなかった。止める理由より、席を空ける理由の方が、俺には重かった」
その正直さだけは、認めるしかなかった。
「席を空ければ、新しい支援がついた。有力な家の子だった」
淡々と、事実だけを並べていく。
「団の格が上がる。国からの覚えも良くなる」
言葉を区切るように、一度止まった。
「お前を切れば、その道が開ける。上から、そう示された」
「知っています」
「知って、いたのか」
「聞こえてきました。当時から」
驚いた様子のアルヴィンに、静かに返した。知らなかったふりをしても、意味がなかった。
「知っていて、何も言わなかったのか」
「言って、何が変わるとも思えませんでした」
それは、諦めではなく、事実の確認だった。
「役に立たないと判定された者に、発言の場はありません」
言った瞬間、喉の奥が少しだけ、こわばった。あの頃の自分の位置を、思い出したせいだった。
アルヴィンが、拳を開いた。
「あの朝のことだ」
アルヴィンが、視線を伏せた。
「印を消す道具を、誰が扱うかで揉めた」
その一言に、右手首の奥が、微かに反応した。
「団の誰も、やりたがらなかった。仕事のようにやる者と、お前を見ずにやる者と、いくつか案が出た」
声が、少しずつ乾いていく。
「俺が、やった」
風が、一度止まった。
「あの日のことだ」
声が、一度途切れた。
「お前の手首に鉄環を押し当てたのは、俺だ」
その言葉が、耳から入って、体の奥まで届くのに、少し時間がかかった。
右手首が、急に熱を持った。三日前は疼かなかった古傷が、今は火をつけられたように熱かった。
——あれは、七年前のあの朝のこと。
誰かの手が、腕を掴んだ。振り払う力も、もう残っていなかった。冷たい金具が肌に触れ、次の瞬間、焼けるような熱が走った。声を上げなかったのは、意地ではなく、もう出す気力がなかっただけだった。
顔は、見なかった。見る余裕が、こちらにもなかった。
あの手の持ち主が、今、目の前に座っている。——熱の記憶が、今も右手首の奥に戻ってくる。
「俺がやれば、丁寧にできると思った」
目を伏せ、そこで言葉を切った。
「せめて、それだけは」
アルヴィンが、絞り出すように続けた。
「他の誰かに任せるより、俺がやった方がいいと思った」
拳を、握り直した。
「お前のためになると。あの時は、本気でそう思っていた」
「思い上がりです」
自分でも驚くほど、迷いなく声が出た。
「痛みに、丁寧も雑もありません。誰の手であっても、あれは同じ痛みでした」
アルヴィンが、口を引き結んだ。
何か言い返そうとして、喉のあたりで止まったのがわかった。三日前と、同じ止まり方だった。
「気づくのに、七年かかった」
しばらくして、そう言った。
「あの時、自分が何をしたのか」
目を伏せ、間を置いた。
「丁寧さのつもりだった。それが、ただの自己満足だったと気づくのに」
「気づいて、どうしたいんですか」
問いに、アルヴィンはすぐには答えなかった。
「償いたい」
絞り出すように、そう言った。
「詫びて済むとは、思っていない」
言葉を切り、間を置いた。
「だが、償わずに一生を終えるのも——耐えられない」
その言葉に、静かに首を横に振った。
「償いというものは、楽になるための言葉です」
その一言に、アルヴィンの肩が、目に見えて強張った。
「赦せば、楽になるだけです」
声を、抑えることに集中した。
「わたしは、そのために生きてきたわけじゃありません」
言い切ってから、初めて自分の言葉の重さに、体が追いついた。
アルヴィンは、何も言わなかった。ただ、地面の一点を見つめたまま、長い間、動かなかった。
やがて、懐に手を入れた。
三日前、途中で止まった動きの続きだった。取り出したのは、鈍く光る金属の環——鉄環だった。長い年月、誰にも見せずに持ち歩いていたのだと、その色合いだけでわかった。
「これを、持っていた」
差し出す手が、微かに震えていた。
「捨てることも、返すこともできなかった。持っている以外の選び方が、見つからなかった」
「受け取ってくれ」
切実な声だった。
「せめて、これだけは。お前のものにするべきだった」
差し出された環を、見つめた。触れれば、あの朝の熱がもう一度戻ってくる気がした。
「要りません」
「頼む」
「要りません」
繰り返すと、アルヴィンの手が、宙で行き場を失った。
「それは、その手に留めておくべきものです」
静かに、しかしはっきりと告げた。
「わたしに渡せば、その手から消える。それだけのことです。わたしの傷は、消えません」
アルヴィンの目に、何かが揺れた。反論するでもなく、ただ受け止めるように、目を伏せた。
「……そうか」
それだけを、絞り出すように言った。
立ち上がると、環を握ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに切り株の上へ、それを置いた。持ち帰る決心もつかず、押しつける勇気もない——そんな置き方だった。
「今日は、これで」
振り返らずに、そう言った。
足音が、夕闇の中へ遠ざかっていく。柵の内側へ戻る背中を、見送りはしなかった。
水路まで戻ると、シアが顔を出した。
「置いてきたの」
鉄環のことだと、すぐにわかった。
「置いてきました」
「持ってこなかったの」
「持てませんでした」
答える声に、自分でも意外なほど、揺れがなかった。
「怒ってる?」
その問いにだけ、すぐには答えられなかった。
「わかりません」
正直に、そう答えた。
「赦さなかったの」
シアが、じっと見上げてくる。
「赦しませんでした」
「それでいいの」
「わかりません。でも」
言葉を選びながら、続けた。
「赦すことだけが、正しいとは思いません」
シアは、それ以上何も聞かずに、水の中へ静かに沈んでいった。
柵の内側へ戻る道すがら、天幕のあたりが、いつもより騒がしいことに気づいた。
馬の嘶きが一つ、遠くで響いた。ダグラスの天幕の前に、見慣れない旅装の男が立っている。王都の使者らしい装束だった。
昨日届いたという書状の続きが、今夜、動き出すのかもしれなかった。何が書かれているのか、まだ知る由もなかった。
切り株の上に、鉄環が残されていることを、思い出した。
振り返っても、暗くなり始めた柵の外は、もう見えなかった。あの環が、誰の手にも取られないまま、朝露に濡れていくのだろうと、想像だけがついた。
持ち去ることも、受け取ることもしなかった環が、どちらの手にも属さないまま、夜の中に置き去られていく。それだけが、今日の答えだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第31話をお届けしました。第3アーク「元勇者との対話」の後編です。前話の終わりで、アルヴィンが懐に触れかけて止めた仕草の答えを、この話でようやく明かすことにしました。彼が七年間隠し持っていたのが謝罪の言葉ではなく、実際に彼女の手首を焼いた鉄環そのものだったと決めた瞬間、この話の骨格が定まった気がします。
一番書きたかったのは、リナが泣かないことでした。許しても許さなくても物語は動きますが、「償いというものは、楽になるための言葉です」という一言だけは、彼女に絶対に言わせたいと決めていました。加害者の後悔を受け止めることと、赦すことは、本来別の行為なのだと思います。リナは前者だけを引き受け、後者を渡しませんでした。
鉄環を切り株に置いて去るアルヴィンの背中は、書きながら少し切なくなりました。持ち帰る強さも、押しつける身勝手さも、彼にはもうなかったのだと思います。
次話では、王都からの使者が動き出し、庭の接収計画がいよいよ表に出てきます。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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