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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第30話: 遊び場

 光が、手のひらの中で弾けた。


 もう一度追いかけようとして、シアに先を越された。


「わたしの勝ち」


 水面から突き出した小さな影が、得意げに揺れている。数えるまでもなく、今日はもう五回続けて負けていた。




 昼過ぎ、水路の奥の淀みには、誰も来ない。


 柵の内側でも、一番奥まった場所だった。木の根が水面近くまで這い出し、その隙間から光の粒がいくつも湧いて出る。夏になると精霊の気配が濃くなる——七年、体で覚えてきたこと。


 この淀みでの遊びは、シアと二人だけの決め事。人に見せる予定のない時間だ。ダグラスの帳面にも、ミラの好奇心にも、届かない場所。


「もう一回」


「本気ですか」


「うん」


 答える前に、もう両手を水面へ差し出していた。


 光の粒は、追えば追うほど逃げる。捕まえようとする手の熱を、精霊はいつも先に感じ取ってしまうらしい。指の隙間を、つるりと抜けていく感触だけが残った。


「今の、逃げた」


「わたしの勝ち、また」


「まだ数えてる途中でした」


「六回」


 シアの声が、水音に混じって弾んだ。子供の姿をした精霊は、勝ち負けにだけは律儀だった。




 七年前、最初にこの遊びを覚えたのは、冬の終わり。


 言葉を交わせるようになったばかりのシアが、水面の光を指さして「捕まえてみて」と言った。あの頃はまだ、笑うということ自体を忘れかけていた。指先が空を切るたび、悔しさより先に、体の奥が軽くなっていくのを感じた。


 それからずっと、この遊びだけは誰にも教えていない。教える必要も、感じたことがなかった。


「今日は、負けすぎです」


「うん、負けすぎ」


「わざと言わなくていいです」


「わざとじゃない。ほんとに負けてる」


 もう一度、両手を水面に沈めた。光の粒が、指の輪郭をかすめて散っていく。捕まえる代わりに、水を弾いて仕返しをすると、シアの姿がびしゃりと崩れて、また水底に潜っていった。


「今の、ずるい」


「ずるくない。ただの水」


「わざとでした」


「わざとじゃない」


 さっきシアが使った言い訳を、そのまま借りて返した。水面から顔だけ出したシアが、しばらくじっとこちらを見てから、ふん、と鼻を鳴らすような気配を見せた。


 その言い方に、思わず口の端が動いた。堪えようとしたが、堪えきれなかった。


 喉の奥から、小さな音がこぼれた。自分でもすぐには、それが何の音か分からなかった。


 笑い声。


 久しく聞いていない、自分の声。人前では出したことのない音。水面に映った自分の顔が、見慣れない形に歪んでいるのが分かった。


「今、笑った」


「……気のせいです」


「絶対、笑った」


 ミラに向けたのと同じ言い訳が、口から滑り出た。だが今日は、隠す相手がいない分、抗う理由も薄かった。もう一度、堪えきれずに喉が鳴った。




 水路の向こう岸で、赤い光がひとつ、瞬いた。


「カル」


 シアが、水面から少し身を乗り出した。


 赤い光は、しばらく岸辺の茂みでちらついていたが、近づいてはこなかった。まだ拗ねているのか、それとも様子を窺っているだけなのか、判別はつかなかった。


「まだ怒ってる?」


「ちょっと」


「ちょっとだけ?」


「うん、ちょっとだけ」


 シアが、答え合わせをするように繰り返した。赤い光が、ふいに水面近くまで滑り降りてきて、飛び跳ねる光の粒をひとつ弾き飛ばした。悪戯のような仕草だった。それが精一杯の仲直りの合図なのだと、七年かけて覚えた。


「ありがとう」


 声に出すと、赤い光は照れたように茂みの奥へ引っ込んでいった。素直に礼を言われるのが、この精霊は昔から苦手だった。


 水面に、また新しい光が湧いて出た。シアが両手を伸ばし、こちらより先に捕まえて見せびらかす。


「七回」


「まだ数えてます」


 言いながら、また喉が緩んだ。今日はどうしてか、堪える力がうまく働かない。七年分の何かが、少しずつ緩み始めている——そんな気がした。




 背後の茂みで、小さく枝が鳴った。


 振り返るより先に、シアの体が水の中へ沈んでいった。光の粒も、潮が引くように一斉に姿を消した。精霊たちの反応の速さに、遅れて体が強張った。


 茂みの隙間から、団服の襟が覗いていた。


「……ダグラス」


 名を呼ぶと、彼はようやく動いた。帳面を小脇に抱えたまま、木の陰から一歩、進み出てくる。


 その顔に、いつもの生真面目な表情はなかった。何かを見てはいけないものを見てしまった時の、居心地の悪さだけが張りついていた。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。水路の水音だけが、その間を埋めていた。


「光の密度を記録に、と思って回っていた。声が、したので」


 言い訳のような口調だった。この人が、根拠のない言葉を使うのは珍しかった。


「見ていたんですか」


「……少しだけ」


 少しだけ、という言葉の重みを、量りかねているようだった。




 顔が、勝手に硬くなっていくのが分かった。


 喉に残っていた笑いの余韻が、潮を引くように消えていく。両手を、水路の縁で組み直した。誰かに見られる前提の体に、戻していく作業だった。


「今の光景は、報告書には——」


 言いかけて、止まった。


「見ませんでした。今のは」


 自分の声が、いつもより低く、硬いのが分かった。頼んでいるのではなく、そう決めているのだと、聞こえるように言ったつもりだった。


 役に立つかどうかで測られることには、慣れていた。だが今のは、役にすら立たない、ただの音だった。数字にも根拠にもならないものを、この人がどう扱うのか——想像がつかない分だけ、指先が冷たくなった。


「……分かった」


 ダグラスは、帳面を握る手に一度、力を込めた。開こうとして、開かなかった。


「この庭で笑うことまで、報告書に書くんですか」


 声に出してから、自分でも驚いた。こんな問いを、こんな鋭さで、口にするつもりはなかった。だが一度出た言葉は、もう戻らなかった。


 ダグラスは、何も答えなかった。ただ、帳面を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。




「……値段の、つけ方が分からない」


 ぽつりと、そう言った。


「土地の広さも水質も精霊の密度も、数字に置き換える術は知っている。だが、今のあれは——」


 言葉を探すように、視線が宙をさまよった。


「値のつけようがない。俺の帳面には、載せる欄がない」


 その言い方には、いつもの断定調の硬さがなかった。むしろ、困惑に近い響き。規則と根拠だけを拠り所にしてきた男が、初めて物差しを持たない場所に立たされている——そんな気配だった。


「載せなくて、いいです」


 ダグラスは、短く息を吐いただけで、何も言わなかった。


 それ以上は何も言わず、帳面を閉じた。開かずに終わった帳面を、そのまま懐に戻す。


 背を向けかけて、もう一度だけこちらを見た。


「七年、ここで笑っていたのか」


 答えを、すぐには返さなかった。


「今日、初めてです。誰かの前で」


 その返事に、ダグラスは何か言いかけて、結局は口を噤んだ。喉の奥で言葉が止まる様子は、どこかで見た誰かの仕草と重なった。




 足音が、木立の向こうへ遠ざかっていった。


 水面が、静かに揺れを戻していく。シアが、恐る恐る顔を出した。


「行った?」


「行った」


「見られた」


 責めるでも慰めるでもない、確認だけの声だった。


「見られた」


 そう認めると、不思議と、思っていたほど重くはなかった。


「怒ってる?」


「分からない」


「わたしは、怒ってる」


 シアの声に、珍しく尖ったものが混じっていた。守ろうとする響きだった。


「怒らなくていい」


「でも」


「今日は、いい」


 自分の口から出た言葉に、少しだけ驚いた。七年かけて積み上げてきた無表情の壁に、初めて他人の目が入り込んだというのに、崩れずに済んでいることが、意外だった。


 いや——崩れなかったのではなく、崩れたところを、そのまま見せてしまったのかもしれない。どちらなのか、自分でもまだ判別がつかなかった。




 夕方、水路沿いを戻る道すがら、遠くにダグラスの背中が見えた。


 天幕の前で、帳面を広げている。羽根ペンの先が、白紙の上でしばらく止まっていた。書くでもなく、閉じるでもなく、ただそこに留まっている。


 何を書こうとして、何を書かずに終わるのか、ここからでは分からなかった。


 右手首の古傷に、指先で触れてみた。今日は、疼かなかった。


 代わりに、喉の奥にまだ、笑いの余韻のようなものが残っていた。これから先、誰かに見られるたびに、この余韻をどう扱えばいいのか——答えは、まだどこにもなかった。


 見られてよかったのか、見られない方がよかったのか。七年間、その問い自体を持たずに済んできた。庭の外の目が増えるたびに、答えの出ない問いも増えていく。それが煩わしいのか、それとも——今はまだ、名前のつけようがなかった。


 空が、灰色に厚みを増している。もうすぐ、ひと雨来る。ちょうど、今の胸の内と重なる気がした。


 水路の向こうで、赤い光が一度だけ、強く瞬いた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第30話をお届けしました。プロット段階から「ギャップ漏れ②」として決めていた、リナの素の笑い声が来訪者に届いてしまう場面です。誰の前で漏れるかを考えたとき、賑やかなミラでも、想いを抱えるアルヴィンでもなく、規則と根拠だけを拠り所にしてきたダグラスにしようと決めました。数字と物差しでしか庭を測れない男が、値段のつけられないものに出会う——その戸惑いを書きたかったからです。


「この庭で笑うことまで、報告書に書くんですか」という一言は、リナの中でも予定していなかった鋭さで出てきました。都の論理に対する彼女なりの一番静かな抵抗として、この台詞に辿り着けたのは書いていて手応えがありました。


ダグラスの帳面が、開かれずに閉じられる場面は、前話でアルヴィンの手が懐に触れて止まった仕草と、意図的に響き合わせています。庭に触れた都の人間が、何かを持ち帰ることも、書き記すこともできずに立ち止まる——そんな共通点を、二人に持たせたいと思いました。


次話では、アルヴィンとの対話が再び動き出します。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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