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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第29話: 戻らない道

 柵の杭は、朝露で湿っていた。


 指先で触れると、木目の奥まで水が染みている感触があった。確かめる必要などないのに、今朝はもう三度、同じ場所を押していた。


 昨日の声が、まだ耳の奥に居座っている。


「明日、少し話せないか」


 応じる返事は、とうに決まっている。それなのに、朝から手だけが、意味のない仕事を探していた。




 天幕のそばを通ると、ダグラスがすでに帳面を広げていた。


「今日は、日照の記録を休む」


 目も上げずに言った。ミラの姿は見当たらない。水汲みにでも行かせているのだろう。


「休むと、聞いていませんが」


「アルヴィンから、頼まれた。今日一日、お前の時間を空けてやってくれと」


 筆を止めずに、それだけ答えた。何のためかは、聞かなかった。訊けば答えが返ってくることも、聞かない方がいいこともあると、この人にはもうわかっているのだろう。


 柵の外へ向かう間、その背中がずっと、こちらを見ていない振りをしているのがわかった。




 水路沿いを歩くと、光がひとつ、水面から覗いた。シアだった。


「今日、あの人と話すの」


「うん」


「緊張してる」


「していません」


「手、震えてる」


 見なくてもわかる、というふうにシアが言った。指先を軽く握って、震えを止めた。止まったのかどうかは、自分でも確信が持てなかった。


「大丈夫」


「うん」


 シアは、それ以上何も聞かずに、水の中へ沈んでいった。心配のかたちを、そうやって示す精霊。




 柵までの道は、いつもより長く感じられた。


 朝霧が、まだ木立の間に薄く残っている。踏むたび、草の葉先が足首を撫でていった。冷たさの奥に、昼が近づけば消える程度の温度が隠れていた。


 柵の内と外を分ける境目は、七年前は存在しなかった。自分の手で組んだ杭の一本一本を横目に見ながら、ここまで来た日々の重みを、あらためて数えた。数えきれるものではなかった。




 柵の外、いつもの見張り台のあたりに、アルヴィンの姿があった。


 剣は帯びていなかった。護衛の任からも、今日だけは外れているらしい。朝陽を背にして立つと、七年前と同じ輪郭に見える瞬間があった。頬のこけ方だけが、あの日とは違う。


 団長だった頃は、いつも一番に前へ出る男。今は、柵から少し離れた場所で、こちらが近づくのを黙って待っている。その一歩の距離だけで、七年の意味が測れる気がした。


 少し離れた切り株に、いつもの位置で腰を下ろす。柵を挟んだ距離は、話すにはちょうどよく、逃げるにも十分。


「来てくれるとは、思わなかった」


「約束は、守ります」


 それだけ答えて、続きを待った。




「単刀直入に言う」


 アルヴィンが、拳を一度、固く握ってから開いた。


「帰ってこないか」


 風が、その一言をしばらく二人の間に置いたままにした。柵の木目に落ちていた朝露が、光を弾いて一度だけ強く光った。


「帰る、というのは」


「王都に。パーティにとは、言わない。だが、お前が生きていたことはもう都でも知られている。名誉を取り戻す道は、まだ残っている」


「名誉なら」


「聞いてくれ」


 珍しく、言葉を重ねてきた。七年前は、こんな風に食い下がる男ではなかった。


「あの時のことは、間違っていた。今さら、言い訳のしようもない。だから、俺にできることをしたい。お前の名を、正式に晴らす。詫びも、けじめも俺が動けば通せる」


 言葉の一つ一つを、丁寧に磨いてきたのがわかった。何度も、口の中で組み立て直してきたのだろう。だからこそ、そこに七年分の重みがあるのも、わかってしまった。


 わかったところで、欲しいものではなかった。




「団を抜けた」


 不意に、そう続けた。


「三年前に。剣はまだ握っているが、パーティの籍はもうない」


「知りませんでした」


「知らせる相手が、いなかっただけだ」


 朝陽が、少しだけ角度を変えていた。アルヴィンの顔に、初めてはっきりと影が落ちた。


「調査団の護衛は、頼み込んで入れてもらった。お前がここにいると聞いて、居ても立ってもいられなかった」


 その言い方には、七年前の団長らしい張りが、もうどこにもなかった。




 ——あれは、七年前のあの朝のこと。


 柵などまだない、ただの荒れ地だった。荷物ひとつを地面に置かれて、誰も振り返らなかった。名を呼ぶ声すら、なかった。役に立たない者に、名前は要らないという扱いだった。背負っていた荷を下ろした時の肩の軽さと、その軽さがそのまま惨めさに変わった感触を、今でも覚えている。土の匂いだけが、やけに濃く鼻についていた。


 振り返る足音を、いくつも数えた。パーティの誰も、こちらを見なかった。最後尾を歩いていた自分の背中を、覚えている者は一人もいないはずだった。


 あの朝と同じ土の匂いが、今も足元にある。——同じ匂いが、今は違う意味を持って、鼻先を掠めていった。




「名誉は、要りません」


 静かに、言葉を選んだ。


「けじめも、要りません。動く必要は、どこにもありません」


「なら、何が要る」


「もう、要るものはありません」


 言った瞬間、自分の声の落ち着きに、少し驚いた。震えていた指先は、いつの間にか動きを止めていた。


「ここに、全部あります。シアも、ソルも、カルも。名前を呼べば応える者が、ここにはいます」




「本気で、言っているのか」


「本気です」


「畑と、精霊と、柵の中の暮らしが。俺たちが用意できるものより」


「比べていません」


 短く、断ち切るように答えた。


「比べる必要が、そもそもありません」


 アルヴィンが、口を引き結んだ。何か言おうとして、喉のあたりで止まったのがわかった。




「お前には、都の生活があったはずだ」


 言葉を選び直すように、そう続けた。


「孤児院にも、育ての親代わりの人間がいた。会いたいとは、思わないのか」


「思いません」


「即答か」


「もう、亡くなっています。三年前に、風の噂で聞きました」


 その事実を口にしても、胸の中は凪いだままだった。悲しみが薄れたのではなく、悲しむべき時期をとうに終えていた。


「……知らなかった」


「知らせる相手が、いなかっただけです」


 さっきアルヴィンが口にした言葉を、そのまま返した形になった。彼の顔に、初めて何かが刺さったような色が浮かんだ。


「都に戻る理由は、もう一つもありません」


「後悔は、していないのか」


 その問いにだけ、すぐには答えられなかった。


「霜が早く降りた年は、少し」


「それだけか」


「それだけです。天気の話です」


 嘘ではなかった。ただ、霜の朝に思い出す顔がどれかまでは、言わずにおいた。


「俺たちは、間違っていた。分かってる。だから――」


 言葉が、そこで一度切れた。


「戻ってきてくれないか。俺が、償う」


 右手首に、うっすらとした感触があった。古傷のはずなのに、痛みはなかった。あの疼きが、今日はどこにも見つからなかった。そのことに、かえって戸惑った。


 痛くないのに、答えは、変わらなかった。


「七年前に、終わりました」




 風だけが、しばらく二人の間を吹き抜けていった。


 アルヴィンは、動かなかった。反論も、聞き返しもせず、ただ地面のどこか一点を見つめていた。切り株に置いた手の甲に、力が入っているのが遠目にもわかった。


「……そうか」


 それだけを、絞り出すように言った。


 切り株に置かれた手の甲から、少しずつ力が抜けていった。認めたくないものを、時間をかけて呑み込んでいるようだった。




 立ち上がると、しばらく、こちらに背を向けたまま動かなかった。


 やがて振り返って、一歩だけ距離を詰めてきた。何か懐から取り出そうとするように、手が胸元に触れかけた。


 けれど、その手は途中で止まり、そのまま静かに下ろされた。


「……いや。今日は、いい」


 何を渡そうとしたのか、聞く前に、もう背を向けていた。足音が、朝露を踏みながら遠ざかっていく。




 水路まで戻ると、シアが待っていたように顔を出した。


「終わった?」


「終わった」


「泣いてない」


「泣きません」


「うん、知ってる」


 それだけ言って、シアは満足そうに水面へ沈んでいった。慰めの言葉ひとつ持たない代わりに、聞かずにいてくれる精霊だった。


 柵の向こうから、いつもの朝と同じ音が戻ってきていた。ダグラスの筆が帳面を擦る音、遠く水汲みから戻るミラの足音。何ひとつ変わっていないはずなのに、体の中だけが、まだ少し軋んでいた。


 庭は、いつも通り。変わったのは、こちら側の何かだけだった。


 懐に触れかけて止まったアルヴィンの手を、何度も思い返した。渡さなかったものが何なのか、想像はつかなかった。ただ、まだ終わっていない何かが、あの手の中に残っている——そんな気配だけが、しつこく胸に居座っていた。


 柵のそばに、シランの花が朝の光を受けて開いていた。指先で花びらに触れると、夜の間にたまった露が一滴、地面に落ちた。


 落ちた場所だけ、土の色が少し濃くなっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第29話をお届けしました。第3アークの中心である「元勇者との対話」の前編です。「帰ってこないか」という一言に、これまでの二人の距離をすべて込めるつもりで書きました。


今回、意図的に外したのが「右手首の古傷が疼く」といういつもの反応です。EP27・28と続けて使ってきた装置なので、ここで一度「痛くない」ことに気づかせる方が、リナの変化を静かに伝えられると思いました。痛みがないことに本人が戸惑う——そのねじれが、今の彼女の正直な位置だと感じています。


アルヴィンが懐に触れかけて止める仕草は、プロット段階では明確な答えを決めていませんでした。書いているうちに、「今日は渡せない何か」を彼が持っているという手触りだけが先に立ち上がってきて、そのまま残すことにしました。それが何なのかは、後編で拾うつもりです。


「七年前に、終わりました」という台詞は、この話のために早くから取っておいた一言です。ようやく本人の口から、静かな強さで言わせることができました。


次話では、アルヴィンの側からの後悔が、もう少し深く描かれる予定です。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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