第28話: 温度差の掛け合い
声が、先に来た。
まだ朝露も乾いていないのに、もう三つ質問をされていた。
振り向く前に、答えを一つ返し終えていた。
「おはようございます。今の鳥の声。名前ありますか。あの木の実は食べられますか。あ、それと」
「おはようございます」
挨拶だけを拾って、先に返した。残りの三つは、まだ胸の中で待たせている。
地面は、まだ夜の冷たさを残していた。素足に近い薄靴の底から、そのひんやりとした感触が伝わってくる。庭が眠りから覚めきる前の、静かな時間だった。
薄い霧が、木立の間をゆっくりと流れていた。遠くの梢で、鳥の影が一つ動いて、すぐに見えなくなった。
この冷たさが昼までに消えれば、今日も暑くなる。七年、足の裏だけで覚えてきた読み方だった。
その静けさを、ミラの声が容赦なく踏み割っていく。
「キィキィ鳴く鳥です。あれ、なんて鳥ですか」
「わかりません。声は聞こえますが、名前までは」
「え、聞こえるのに名前は知らないんですか」
「気になったことがなかったので」
我ながら素っ気ない返事だと思ったが、事実だった。七年、名前をつけてきたのは、言葉を交わせる相手だけだった。
「もったいない。せっかく毎日聞いてるのに」
もったいない、という言葉を、また聞いた。昨夜も同じ言葉を、この人から聞いた気がする。
朝の見回りに、ミラがついてくるようになったのは、ここ数日のことだった。断る理由もなかったので、そのままにしている。
「あ、あの赤い実。食べられますか」
茂みの奥を指さした。ミラの目が、もう好奇心で光っている。
「食べられます。でも」
「でも」
「先に尋ねてください。わたしにではなく木に」
ミラの指が、途中で止まった。
「木に、話しかけるんですか」
「声に出すだけでいいです」
しばらく黙って実を見つめてから、ミラは思い切ったように口を開いた。
「もらっても、いいですか」
声は小さく、少し照れくさそうだった。木の葉が一枚、ふわりと揺れた。返事と呼べるものかどうかは、わからない。ただの風かもしれない。
「今の、返事ですか」
「多分」
「多分って」
「わたしにも、全部はわかりません」
根拠をいちいち確かめないと納得しない、あの生真面目な調査官とは、まるで違う訊き方だった。ミラは、確かめるためというより、ただ知りたいから尋ねているように見えた。
ミラは実をひとつだけもいで、口に放り込んだ。次の瞬間、顔がくしゃりと歪んだ。
「すっぱ……」
「まだ、少し早かったですね」
「先に言ってください」
「聞かれなかったので」
思わず、そう返していた。ミラが、じとりとこちらを睨んでくる。悪意のない目だった。
昨日までなら、ここで会話を切っていた。今日は、なぜか続けている自分がいた。
水路までは、木立の合間を縫うように緩く下る。庭の奥から続く水音が、少しずつ大きくなっていった。
水路の脇を通りかかると、水面から小さな光が覗いた。シアだった。
「あの人、うるさい」
「ミラ、っていう名前」
「知ってる。声、大きい」
振り返ると、ミラがこちらの視線の先を追って、水路を覗き込もうとしていた。
「今、何かいましたか」
「精霊です。シア、という名前です」
「見えないです……声、するんですか」
「わたしにだけ、聞こえます」
「ずるい」
ミラの声に、悪気はなかった。ただ、羨ましそうな響きだけがあった。
水面の下で、シアが笑うような気配がした。
「ずるいって」
「羨ましいらしい」
「ふうん」
シアの声が、少しだけ得意げになった。人に聞こえない声を持っているのは、シアにとっても、ちょっとした自慢のようだった。
「伝えてください。よろしくって」
言葉を、そのまま水面に落とした。
「よろしく、だって」
「……よろしく」
短い返事だったが、みじろぎもせず水路に浮かんだままだった。人間に向けて自分から言葉を返すのは、シアにとっても珍しいことなのかもしれない。
人間の声には答えないくせに、人間の話題には興味があるらしい。七年見てきても、精霊の気まぐれはまだ読み切れない。
「リナさんって七年間、ずっとひとりだったんですよね」
水路のそばに座って、朝食代わりの木の実を分け合っている時だった。ミラの声から、いつもの勢いが少しだけ抜けていた。
「精霊が、いました」
「人はいなかったですよね。人間っていう意味では」
答えるまでに、少し間があった。焚き火の爆ぜる音も、遠い水音も、今はない。ただ、風が草を撫でる音だけが、その間を埋めていた。
「寂しさは、数えていません」
「数えて、ない」
「数えていたのは、いつも役に立てているかどうかでした」
自分でも、思っていたより素直な答えが出た。ミラは、それ以上茶化さなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。
「役に立つかどうかって、誰が決めるんですか」
その問いに、すぐには答えられなかった。荷物を背負って、隊列の最後尾を歩いていた自分の背中が、一瞬だけ脳裏をよぎった。七年前は、パーティが決めた。今は——まだ、わからない。
「考えたことが、なかったです」
「リナさんが役に立つとか、そういうんじゃなくて。普通にすごいなって思ってます」
その言い方に、飾りがなかった。皮肉でも、慰めでもなく、ただそう思っているだけの声だった。
役に立つかどうかを聞かれずに、すごいと言われたのは、初めてかもしれなかった。
喉の奥が、少し詰まった気がした。うまく言葉にできなくて、代わりに水路の水面を見ていた。
「そういえば」
ミラが、急に話題を変えた。
「七年間、お風呂とかどうしてたんですか」
脈絡のない質問に、面食らった。
「川で、洗っていました」
「冬は」
「我慢しました」
「わたしなら三日で音を上げます」
妙に自信満々な調子だった。想像すると、少しだけおかしかった。
「これ、都から持ってきたんです。よかったら」
差し出されたのは、蝋引きの紙に包まれた小さな飴だった。表面が少し溶けて、紙にくっついている。都からここまで、馬を乗り継いでも三日はかかる道のりだ。溶けているのは、きっとその道中の暑さのせいだった。
「もらっても、いいんですか」
尋ねる作法だけは、もうすっかり体に馴染んでいた。ミラが、噴き出すように笑った。
「わたしに聞かなくていいですよ。それ、木の実じゃないので」
「そう、でした」
包みを開くと、蜂蜜のような匂いがした。口に含むと、じんわりと甘さが広がる。都の味だった。忘れていたはずの感覚が、思いのほか鮮明に蘇った。
「どうですか」
「甘いです」
「それだけですか」
「甘くて——懐かしいです」
言ってから、少し驚いた。懐かしい、という言葉を、自分がまだ持っていたことに。
ミラの口の端が、少しだけ上がった気がした。こちらの口元も、同じように動きかけた。目元まで一緒にゆるみかけて、慌てて唇を引き結んだ。
「今、笑いかけましたよね」
「気のせいです」
「絶対、笑いかけました」
「風です」
「今、風なかったですけど」
言い返す言葉がなくて、黙って飴を舐めた。ミラは満足そうに、まだこちらの顔を覗き込んでいる。居心地は悪くなかった。
「ミラ、そろそろ記録の時間だ」
ダグラスの声が、水路の向こうから飛んできた。帳面を小脇に抱え、いつもの姿勢で立っている。水路の向こう、木立の隙間には、調査隊の天幕がいくつも連なって見えた。団服姿の人影が、せわしなく行き来している。
「はーい、今行きます」
「今すぐだ。日照の記録は、正午前でなければ意味がない。土地の値打ちを量るには、それも欠かせない項目だ」
「だからこそ、あと五分」
「意味がないと言った」
ダグラスが、帳面を閉じたまま、こちらに小さく頭を下げた。
「うちの部下が、失礼しました」
「失礼とは、思っていません」
「毎日、あの調子です」
その声に、呆れと、隠しきれない親しみが混じっていた。規則には厳しくても、部下への物言いはどこか柔らかかった。
ミラが、頬を膨らませ、上目遣いにこちらを一瞥してから、渋々立ち上がった。名残惜しそうに、飴の残りを口に押し込んでいる。
「リナさんも、今度うちの領地の話聞いてくださいね。名物とかいっぱいあるので」
その声の端に、望郷とも人懐っこさともつかない響きが混じっていた気がした。
答える前に、もう背を向けて駆け出していた。ダグラスが小さく息を吐き、帳面のページをめくりながらついていく。あの二人の間には、あの二人の温度がある。
少し離れた木陰で、アルヴィンが剣の手入れをしていた。研ぎ布を握る手は止まらないのに、目だけがこちらに向いた。頬の線がわずかに動いて、何か言いかけたようにも見えた。けれど言葉にはならず、視線だけが刃の上に戻っていった。
あの人が言葉を呑み込む場面が、最近増えた気がする。理由までは、まだわからない。
夕方、テントに戻る道の途中で、蝋引きの紙の切れ端が、まだ手の中に残っていることに気づいた。
甘さはとうに消えていたが、指先に、べたつく感触だけが残っていた。捨てようとして、なぜか捨てなかった。
今日一日、誰かの声に相槌を打ち続けた。柵の外の人間の声を、こんなに近くで聞いたのは、七年ぶりかもしれない。うるさいと思う瞬間もあったのに、不思議と嫌ではなかった。
西日が、木々の間から長く伸びていた。庭の輪郭が、いつもよりやわらかく滲んで見えた。
「リナ」
名前を呼ばれて、足が止まった。振り返らなくても、誰の声かはわかった。
それでも、すぐには振り向けなかった。右手首の古傷が、理由もなく疼いた気がした。半呼吸分、間を置いてから、ようやく体の向きを変えた。
アルヴィンだった。剣を鞘に収めたまま、少し離れた場所に立っている。夕陽を背にしているせいで、表情まではよく見えなかった。
「明日、少し話せないか」
それだけ言って、返事を待たずに背を向けた。
喉の奥が、小さく鳴った。鼓動が一つ、いつもより重く響いた気がした。七年前は、こんな風に控えめに言葉を選ぶ人ではなかった。何を話したいのか、聞く前から、なぜか胸の奥がざわついた。
今日聞いた賑やかな声と、目の前の男の寡黙さが、頭の中で奇妙に重なった。同じ都から来たはずなのに、二人の間には、まるで違う温度がある。
手の中の紙切れを、そっと握りしめた。甘さの名残りだけが、まだそこにあった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第28話をお届けしました。前話が「言葉で伝える」重めの回だったので、今回はミラの賑やかさに振り回されるリナを、思いきり軽く書いてみました。「聞かれなかったので」と返す場面は、書いていて一番楽しかった一言です。リナの意地悪ではなく、素の反応がぽろっと出てしまった感じにしたくて、あの短さに落ち着きました。
シアがミラの声を直接聞けない、という設定は第1話から決めていたルールですが、今回そのルールを使って「翻訳」という形の交流を書けたのは嬉しい発見でした。人間の言葉には答えないのに、話題には興味を示す精霊の気まぐれさも、書いていて自然に出てきた部分です。
飴の場面で、リナが笑いかけて止める仕草は、次のステップへの布石のつもりで抑えめに書きました。彼女の本当の笑顔は、もう少し先までとっておきます。
次話では、アルヴィンとの短い対話が始まります。夕暮れの一言が、どこに向かうのか。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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