第47話: 都での話
あの急いだ伝令から、数日が過ぎていた。
蹄の音が、いつもと違う拍子を刻んでいた。
軍靴の重い足並みに、車輪の乾いた軋みが混じっている。数えるまでもなく、隊列に何か別のものが加わっていた。
畑の畝から顔を上げると、霧の切れ間に見慣れない布の色があった。
白に近い灰色の旗だった。
これまでの隊列が掲げていた、槍と盾を組んだ意匠ではない。もっと簡素な、円を描くだけの紋だった。
「――ソル」
隣にしゃがんでいたソルへ、声をかけた。
「あれ、見えますか」
「見える」
短く答えて、ソルは畝に置いていた手を止めた。
「違う匂いがする」
「匂い、ですか」
「土じゃない。人の匂いだ。前とは違う種類の」
それきり、ソルは口を閉ざした。
柵の近くまで進むと、荷馬車が一台、隊列の合間から現れるのが見えた。
これまでの荷車よりも仕立てがよく、幌には金の刺繍が施されていた。護衛は少なく、佇まいだけが違っていた。
馬車の扉が開き、初めて見る男が降り立った。
旅装のはずなのに、埃ひとつ見当たらなかった。
灰の混じった髪を几帳面に撫でつけ、笑みを絶やさない男だった。
その男が現れた途端、ヴァンスの背が、いつもより一段高く伸びた。
「ソル、あの人」
「見ればわかる」
「軍人には見えません」
「ああ」
「なのに」
「なのに、上に見える。それだけだ」
ソルの目も、遠くの男から離れなかった。
風向きが、たまたまこちらへ向いていた。
「――王命により、参上いたした。エドウィン・カレルと申す」
声の一部だけが、風に乗って届いた。
その先、ヴァンスが何を答えたのかまでは聞き取れなかった。二人はすぐに、柵からさらに離れた場所へ移っていった。
「リナ、あの人、誰」
水路の光が、そっと寄ってきた。シアだった。
「わかりません」
「怖い人?」
少し考えた。
「わかりません。見た目は、怖くありません」
「でも」
「でも?」
自分でもうまく言えず、そこで言葉が止まった。
カレルとヴァンスは、隊列の外れで長く立ち話をしていた。
カレルの手に、封蝋を施した書状の束があった。ヴァンスがそれを受け取り、一枚ずつ目を通していく様子が、柵の内側からでも見て取れた。
中身までは、読めなかった。
やがて、ヴァンスの肩がわずかに落ちた。
怒りでも、安堵でもなさそうだった。もっと重く、もっと確定的な何かを飲み下したような落ち方だった。
その様子を見つめていた兵たちが、いつもより静かに視線を逸らした。
「ソル、兵の人たち」
「静かだ」
「いつもと違いますね」
「違う」
「怖がってる、みたいです」
「かもな」
「本当に?」
「おれにも、人の心までは読めない」
風がまた向きを変え、二人の声が途切れ途切れに流れてきた。
「……上からの、判断だ」
「……もはや、現場の裁量では」
言葉は、そこで途切れた。
それ以上は、風の届く範囲を出ていった。
昼を過ぎても、ヴァンスは柵へ来なかった。
これまで欠かさず柵際まで来ていたその足が、今日は止まっていた。代わりに、カレルの視線が一度だけ、遠くから庭の方へ流れた。
値踏みではなく、確かめるような目だった。
「ソル、あの人たち」
「話し込んでる」
「長いですね」
「長い」
「何を話してるんでしょうか」
「わからない」
ソルは、土に手を戻した。
「上のことまでは、おれには測れない」
それきり、続く言葉はなかった。
午後も遅くなって、ようやくヴァンスが柵の方へ歩いてきた。
いつもの大股の歩みではなかった。一歩ごとに、何かを確かめるような足取りだった。
「――今日は、話をしに来た、というわけではない」
その言い方に、初めて聞く硬さがあった。
「何をしに来たんですか」
「知らせに来た」
「知らせ、というのは」
「わたしの好きにはさせてもらえなくなった。それだけだ」
それ以上、ヴァンスは続けなかった。
「好きに、とは」
「聞くな」
短く切り捨てられた。
「命令が、変わったんですか」
「変わったのではない」
ヴァンスの目が、一瞬だけ柵の外へ流れた。カレルの立つ方角だった。
「戻された、と言うべきかもしれん」
その一言の意味を、深く尋ねる気にはならなかった。
「アルヴィンは」
ふと、そう尋ねた。
ヴァンスの表情が、これまでにない固まり方をした。
「今日中に、片がつく」
「片、というのは」
「貴様が、案じることではない」
いつもと同じ台詞だったが、声の温度だけが違っていた。
それだけ言うと、ヴァンスは背を向けた。
柵から離れていくその背中は、これまでのどの日よりも小さく見えた。命令する側から、命令される側へ――そんな変化が、後ろ姿だけで伝わってきた。
夕刻、天幕の前で人が動いた。
護送の支度のためにずっと据えられていた荷馬車に、初めて幌が張り直されていた。二人の兵が、天幕の中からアルヴィンを連れて出てくるのが見えた。
縄はなかった。だが両脇を、隙間なく固められていた。
その足取りに、乱れはなかった。
抗う素振りも、崩れる様子もない。ただ、一歩ごとに何かを置いていくような歩き方だった。剣は、やはり帯びていなかった。
柵まで、あと数十歩。
馬車の前で、一度だけ足が止まった。
振り返るのかと思ったが、違った。ただ、扉の前でわずかに立ち止まり、それから自分の足で乗り込んでいった。
こちらを見ることは、一度もなかった。
扉が閉まる音が、思いのほか小さかった。
護衛が二人、御者台の脇に付いた。カレルが遠くからそれを一瞥し、小さく顎を引いた。
馬車が、霧の方角へ動き出した。
「リナ、行っちゃう」
シアの声が、水路の方から震えて届いた。
「見えます」
「止めないの」
「止めません」
「なんで」
「止める言葉を、わたしは持っていません」
それだけが、今の正直な答えだった。
車輪の音が、少しずつ遠ざかっていく。
柵の内側に立ったまま、その音が完全に消えるまで見送った。何かを言いたい気持ちはなかった。呼び止めたいとも、思わなかった。
ただ、七年ぶりに名を呼んだあの日の続きが、こんな形で終わるのだと知った。
「リナ」
水路の光が、静かに近づいてきた。シアだった。
「アルヴィン、連れていかれちゃった」
「見ました」
「悲しくない?」
その問いに、少し考えてから答えた。
「――あの人の空模様は、もうわたしの天気じゃありません」
自分でも、驚くほど平らな声だった。
「どうなるのか、知りたいとも思いません」
それが本当に、七年という距離の答えなのだと、口に出して初めてわかった。
「怒ってるの?」
「怒っていません」
「じゃあ、何」
少し迷って、そう答えた。
「もう、関わらないというだけです」
その言葉に、シアはしばらく黙っていた。
畑に戻り、土に両手をついた。
まだ本調子には遠い土の匂いが、指に伝わってくる。柔らかい場所と硬い場所が、まだらに残っていた。それでも、確かに息を吹き返しつつあった。
この庭と同じ速さで、自分の中の何かも戻っていくのを感じた。
「――エル」
木立の奥へ、声をかけた。
「聞こえている」
「アルヴィンが、連れていかれました」
「知っている」
「詳しいことは、聞きませんでした」
「聞かなくていい」
その答えに、迷いはなかった。
「知りたいと、思わないんですか」
エルの声に、そんな問いが混じった。
「思いません」
「なぜだ」
「知ったところで、何も変わらないからです」
それだけを、静かに告げた。
「――七年前なら、違ったか」
しばらくして、エルがそう尋ねた。
「たぶん、違いました」
「今は」
「今は、あの人の天気を追いかける理由が、わたしにはありません」
声に出してみると、それが怒りでも赦しでもないことが、ようやく形になった気がした。
柵の外で、動きがあった。
カレルが、こちらへ向かって歩いてくる。ヴァンスのような大股ではなく、一定の速さを保った歩みだった。
柵まで、数歩の距離で足を止めた。
「初めて、お目にかかる」
カレルの声は、これまで聞いたどの声より穏やかだった。
「エドウィン・カレル。王命により参った者だ」
「リナです」
「存じている」
静かな笑みのまま、そう答えた。
「随分と、静かな場所だな」
「静かです」
「それだけの理由で、あの将軍が手こずるとは思えぬが」
「わかりません」
「まあいい。今日のところは」
「今日は、名乗りだけに参った」
「名乗りだけ、ですか」
「ああ。用向きは、また改めて」
「改めて、というのは」
「次に伺う時は」
カレルが、初めてわずかに笑みを深めた。
「剣ではなく、言葉を持って参る」
それだけ言うと、カレルは一礼し、踵を返した。
その背中には、ヴァンスのような苛立ちも焦りもなかった。ただ、次の一手を静かに温めている者の落ち着きだけがあった。
霧の向こうへ消えていくカレルの背を、しばらく見送った。
「エル」
「聞こえていた」
「あれが、次の相手ですか」
「かもしれない」
「かもしれない、とは」
「私にも、まだ見えていないということだ」
両手の土を払った。
何が始まろうとしているのか、まだ形にはならない。だが、これまでの静かな睨み合いとは違う何かが、確かにこちらへ向かって歩き出していた。
――剣ではなく、言葉。
その一言だけが、いつまでも耳の奥に居座っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第47話は、当初のプロット案では「都のシーン」として元勇者の失墜を直接描く話でした。ですが本作はリナの三人称一元視点を貫いているため、都で何が起きたのかを直接書くことは視点ルール違反になります。そこで今回は、都からの影響がリナの側にどう届くかという形に組み替えました。新しい特使エドウィン・カレルの到着、ヴァンスの姿勢の変化、そしてアルヴィンが連れ去られる場面——すべてを柵の内側からの観察に徹し、書状の中身も会話の核心も、最後まで開示しませんでした。
この話でいちばん書きたかったのは、アルヴィンが連れ去られる場面そのものよりも、それを見つめるリナの「知りたいと思わない」という姿勢でした。怒りをぶつけることも、同情を寄せることもしない。ただ「もう関わらない」というだけの静けさこそが、七年という時間が本当に彼女に残したものだと思います。追ってプロットにあった「これが最大のざまぁ」という狙いは、直接描写ではなく、この無関心の質感でこそ伝えられると考えました。
エドウィン・カレルは次話「最後の交渉」で本格的に動き出す人物です。ヴァンスの力による接収が行き詰まった今、次に来るのは剣ではなく交渉という名の別の圧力かもしれません。「剣ではなく、言葉を持って参る」という一言が、その予兆になっていれば幸いです。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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