第26話: 精霊の拒否
夜のうちから、庭の気配が変わっていた。
眠れずに外へ出ると、エルが、いつもの大木の根元に佇んでいた。
「今日、何か起きる?」
「起きる、というより。呼び覚まされる」
エルの声は、いつも通り低く落ち着いていたが、答えになっているようで、なっていなかった。
「花のこと?」
「――花だけでは、ない」
それ以上は、何も言わなかった。長老格の精霊は、いつもそうだった。全てを語らず、必要な分だけを渡す。
結局、それきり眠れないまま、朝を迎えた。
地面が、いつもより熱かった。
素足で歩いているわけでもないのに、靴の底からじわりと伝わってくる。庭に七年いて、そんな感覚は初めてだった。土の下で何かが目を覚ましている、そんな気配だった。
朝露の中、ダグラスが例の花に向かって歩いていくのが見えた。腰に、小さな刃物を提げている。昨日、止めた場所そのものだった。
「待って、と言ったはずです」
柵を越える前に、声をかけた。
「一日置いた。手続き上、問題はない」
ダグラスは、振り返りもせずに答えた。帳面には、既に採取の項目が立てられているのが見えた。
「精霊が拒んでいます」
「精霊の意思は、報告書の根拠にならない」
「地面が、熱を持っています。気づいていますか」
「土質の変化なら記録しておく。だが、それも調査を止める理由にはならない」
その言い方に、体の奥が冷えた。昨日の警戒が、まだ庭の空気に濃く残っているのがわかるのに、この人には見えていない。
「ダグラスさん」
後ろから、アルヴィンが声をかけた。
「今日は、様子を見てからでも」
「団長でもないあなたに、口を出す権限はない」
アルヴィンは、それ以上言わなかった。剣の柄に手をかけたまま、ただ見ていた。
ダグラスは膝をつき、花の根元に刃を近づけた。ためらいのない手つきだった。
焦げた匂いが、先に来た。
次の瞬間、地面から赤い光が噴き上がった。花のすぐ脇、土を割るようにして、炎が一瞬だけ立ち上がった。時が、その一瞬だけ引き延ばされたように感じた。
「うわっ」
ダグラスが尻もちをついて後ずさった。刃物が、乾いた音を立てて地面に転がった。
「何だ、今の」
アルヴィンが叫び、腰の剣を半ば抜いていた。反射だった。七年前と変わらない、戦う体の癖。
「抜かないでください」
強く言った。声が、自分でも驚くほど鋭く出た。
「攻撃じゃない。警告です」
「警告、だと」
「これ以上近づいたら、次は逃げられません」
アルヴィンの手が、剣の柄からゆっくりと離れた。
炎の中心に、小さな人影が揺れていた。カル。
「――勝手に触らせてんじゃねえよ」
低い声が、頭の中に直接響いた。いつもは耳で聞いているはずの声が、今日はそれを飛び越えて届いた。よほど昂っているのかもしれない。他の誰にも聞こえていないはずだった。
「ごめん」
「謝るくらいなら――」
言葉が、途中で炎の爆ぜる音に断たれた。パチ、と火の粉が散って、カルの輪郭が一瞬だけ濃くなった。
「なんで黙って見てた。お前が止めろよ」
「止めてる。でも、あなたが先に怒った」
「先に手ェ出したのはあいつだろ」
「わかってる」
しばらく、返事がなかった。炎の勢いだけが、少しずつ収まっていった。
「……お前が焼かれかけたら、おれ、我慢できねえんだよ」
ぶっきらぼうに言って、カルはすぐに地面の下へ沈んでいった。不服そうな気配だけが、しばらく残っていた。
「あの、大丈夫ですか」
ミラが、腰を抜かしたダグラスに駆け寄りながら、庭の方も見ていた。怖がっているというより、食い入るような目だった。
「今の、光。撮れるものなら撮りたかったです」
「不謹慎だぞ」
「すみません。でも、すごいものを見た気がして」
ミラが、こちらを振り返った。
「今の、あなたが止めたんですか」
「止めたのは、精霊です。わたしは、間に立っただけです」
「間に立てるって、すごいことだと思います」
その言葉には、皮肉も驚きの誇張もなかった。ただ、素直な感心だけがあった。
「この花に、名前をつけます」
突然、口をついて出た言葉だった。理由はなかった。ただ、そうしなければならないと思った。
「は?」
「シラン、と呼びます。今から」
言った瞬間、花びらが一度だけ震えた。応えたのかどうかは、わからなかった。それでも、確かに何かが変わった感触があった。
七年前、自分は誰にも名前で呼ばれなくなった。役立たずと判断された途端、パーティ内の誰も、名前を呼ばなくなった。物のように扱われる痛みを、まだ覚えている。
だから、名前をつけるということの重みを、誰よりも知っていた。
「名前をつけた生き物は、渡しません」
それが、この庭で七年かけて覚えた、唯一のルールだった。
ダグラスは、何も言わずに膝の砂を払って立ち上がった。刃物を鞘に戻す手が、微かに震えていた。
「……記録する」
帳面に、何か書きつけていた。覗き込む気にはならなかったが、その筆致は、これまでよりずっと速かった。
アルヴィンは、しばらく黙ってこちらを見ていた。剣の柄から手を離した時と同じ、迷いのない目だった。七年前、隣で剣を構えていた頃にはよく見た目だと、遅れて気づいた。
「お前、変わったな」
離れ際に、ぽつりと言った。
「精霊に名前一つで、こんな騒ぎを収められるとは思わなかった」
「七年ありました」
「……そうだな」
それだけで、アルヴィンは口を閉じた。何か続けたそうな顔をしていたが、結局言わずに、調査団の後を追っていった。
「だいじょうぶ?」
シアが、水路の陰から顔を出した。心配そうに、光がゆっくりと明滅していた。
「大丈夫」
「リナのこと、好きなんだよ、あれで」
短く答える気力もなくて、代わりに小さく息を吐いた。それ以上、言葉にする気にはなれなかった。
アルヴィンの足音が遠ざかっていく。ダグラスの帳面が、乾いた音を立てて閉じられた――と思うと、すぐにまた開かれた。
「これは、想定より上の話になる」
誰へともなく呟いた声を、拾ってしまった。
何が「上」なのか、まだわからなかった。ただ、この庭を巡る話が、思っていたよりずっと大きくなろうとしている――そんな気配だけが、はっきりと残った。
黒く縮れた草の上に、しゃがみこんだ。指先で触れると、まだ熱の名残りが残っていた。朝、靴の底に感じたのと同じ熱だった。
冷めるまで、しばらくそこを離れなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第26話をお届けしました。カルというキャラクターは登場当初から「気性が荒い」と設定していましたが、今回初めて本気で怒らせてみました。「お前が焼かれかけたら、おれ、我慢できねえんだよ」という台詞が出てきた瞬間、これはリナへの不器用な独占欲というより、七年かけて積み上げた信頼の裏返しなんだと自分でも腑に落ちました。
もう一つ、リナが花に「シラン」と即興で名付ける場面は、プロット段階では考えていなかった展開です。追放されて名前を呼ばれなくなった過去と、今こうして名前を与える側になっている対比を書きながら、彼女がこの七年で得たものの重さを改めて感じました。
アルヴィンの「お前、変わったな」という一言も、まだ何かを言い切れずに終わらせています。彼が本当に言いたかったことは、もう少し先の話で拾うつもりです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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