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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第22話: 七年目の春

 七度目の雪解けだった。


 沢の水音が、冬の間の低い響きから、勢いのある音に変わっていた。氷が割れる音を、小屋の中で聞きながら、指折り数えたわけではないのに、それが七度目だとすぐにわかった。体が季節を覚えていた。


 外に出ると、雪の下から、去年よりわずかに広くなった若草の緑が覗いていた。柵は、去年直したところがまだしっかりしている。畑の畝は、何年分もの手が入って、最初の年よりずっと均されていた。


 息を吸うと、まだ冷たい空気の底に、微かに土の匂いが混じっていた。凍っていた土が、少しずつ緩み始めている匂いだった。この匂いを最初に覚えたのがいつだったか、今ではもう思い出せない。


 庭全体を、ゆっくりと見渡した。目に映るもの一つひとつに、積み重なった時間があった。




 最初の年、この景色は、ただの荒れ地だった。獣道すらなく、どこに何があるかもわからなかった。三年目、精霊と言葉を交わせるようになった。四年目、庭の季節を読めるようになった。五年目、六年目——数え直そうとしたが、途中でやめた。数字で辿るには、あまりに多くのことが積み重なっていた。


 中でも、忘れられない朝がある。


 冬の終わりかけの頃、柵の外れで、脚を折った若い鹿を見つけた。もう歩けなかった。傷口には蟻がたかり始めていた。助けられる怪我ではないと、経験がすぐに教えた。それでも、動かさずにはいられなかった。


 小屋から藁を運び、鹿の体の下に敷いた。水を汲んできて、口元に近づけた。鹿は最初、怯えて顔を背けたが、やがて少しだけ、水面に舌を伸ばした。それだけのことが、妙に嬉しかった。


 その日から三日、水を運び続けた。鹿の目が、こちらを見ていた。何かを訴えているのか、ただ焦点が合わなくなっているだけなのか、わからなかった。夜、小屋の中でも、鹿の呼吸の音が聞こえる気がして、何度も外を確かめに出た。


 三日目の朝、藁の上で、鹿は動かなくなっていた。まだ、体は温かかった。


 声を上げて泣いたのは、あの時が初めてだった。役に立てなかったからではない。役に立つかどうかを、もう考えていない自分に気づいたからだった。ただ、この命がここにいたことを、惜しんでいた。それだけの涙だった。涙は、思っていたよりずっと長く止まらなかった。


 その後、鹿を庭の隅に埋め、名前をつけた。生きているうちにつけてやれなかった名前を、土の上に置いた。名前を口にした瞬間、それまで抑えていたものが、また少しだけ喉の奥からこみ上げてきた。それから、名前をつけるということの重みを、以前よりずっと深く理解するようになった。


 嵐の夜に木を守ったことも、都の夢を見て、戻りたい場所がもうないと気づいた朝も、光る庭を見た夜も、番人と呼ばれていたと知った日も、あの光の柱の下で声を上げて笑った朝も——どれも、あの鹿の朝から地続きだった。惜しむことを覚えた分だけ、慈しむことも覚えていった。悲しみを知らなければ、大事にすることも知らなかった気がする。


 それら全部が、今、目の前にある景色の中に、静かに畳み込まれていた。


 あの鹿を埋めた場所には、今では小さな草が生えている。毎年この時期になると、真っ先に芽吹く場所だった。他の草より少しだけ濃い緑をしていると気づいたのは、三年目の春だった。誰に教わったわけでもないのに、その場所だけは、通るたびに足が自然に向いた。




「リナ、なに、見てる」


 シアの声がした。振り向くと、水路の縁で水色の光が小さく揺れていた。


「庭、全部」


「いつも、見てるのに」


「今日は、なんか、違う」


 うまく言葉にできなかった。完成した、という言い方が近い気がしたが、それも少し違う。庭は、これからも変わり続けるはずだった。季節は毎年違う顔を見せるし、精霊たちとの関係も、まだ深まっていくだろう。


 それでも、今この瞬間、何かが一つの形に収まった感覚があった。長い時間をかけて積み上げてきたものが、初めて、輪郭を持って目の前に立っている気がした。


 同時に、古い声が耳の奥で小さく鳴った。——本当に、ここにいていいのか。役に立たなくなったら、また要らないと言われるのではないか。七年経っても、その声は完全には消えていなかった。ただ、以前ほど大きくは聞こえなくなっていた。


 その声を、無理に黙らせようとはしなかった。今日は、ただ、聞き流すことにした。声がすることと、それに従うことは、別のことだと、ようやくわかるようになっていた。


「ここが、わたしの場所だって、思った」


「今更?」


 シアの問いに、思わず頬が緩んだ。水色の光が、待ちきれないというように、水路の縁で小さく跳ねていた。


「うん。今更」


「リナ、いつも今更」


「そう。今更ばっかり」


 自分の言葉に、また少し笑ってしまった。この笑い方も、この庭で覚えたものだった。


「あの鹿のとこ、今日も見てた?」


 シアが、ふいに聞いた。誰のことを言っているか、説明しなくてもわかった。


「見てた。草、生えてる」


「シアも、たまに見てる。リナが泣いてた場所」


 その一言に、少し驚いた。あの朝のことを、シアが覚えているとは思っていなかった。誰にも見られていないつもりで泣いていた。


「見てたの」


「見てた。でも、何も言わなかった。言わない方がいい気がした」


 その判断が、当時のシアにできたことに、今更ながら胸を突かれた。何も言わずに、ただ見ていてくれた誰かがいたことを、七年越しに知った。




 都で過ごした十七年より、この庭で過ごした七年の方が、自分にとって重かった。


 都では、役に立つかどうかで測られ、測られた末に捨てられた。荷物持ちの手が空くたびに、値踏みするような視線を向けられた記憶は、今も鮮明だった。「回復要員が、荷物も持てないのか」という声を、何度も浴びた。誰の声だったかは、もう思い出せない。それでも、声の刺々しさだけは、体のどこかに残っていた。


 ここでは、ただ、いることを許された。何かを証明する必要もなく、朝が来て、季節が巡り、それだけで一日が満ちていった。


 右手首の古傷に、朝日が当たっていた。印を消された夜の記憶が、ふいに蘇った。焼けるような熱さと、押さえつけられた腕の感触。悲鳴を上げなかったことだけを、あの夜は誇りに思おうとした。思い出すたびに、今でも喉の奥が締めつけられる。痛みは、消えたわけではなかった。ただ、それに支配される時間が、以前よりずっと短くなっていた。


 傷跡を、指先でそっとなぞった。消えない証拠だと思っていたものが、今では、ここまで歩いてきた証拠のようにも思えた。どちらか一方だけを選ばなくてもいい、と気づいたのは、つい最近のことだった。


 これが焦りでも、諦めでもないことは、自分でもはっきりわかった。傷はこれからも、時々疼くだろう。それでも、その疼きごと引き受けて、ここにいる。七年かけて辿り着いた、静かな確信だった。




 沢へ水を汲みに行く道すがら、若草の匂いがした。


 春が来るたびに、この匂いを覚えるようになった。土の湿り気と、雪解け水の冷たさと、芽吹く前の緊張したような気配。都では気づかなかった、無数の細かい季節の兆しが、今は当たり前に体に入ってくる。


 桶を提げる手を止め、若草の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


「今年の春、いい匂い」


 水路の縁で、水色の光がゆらりと揺れた。


「毎年、言ってる」


 その揺れ方に、少し呆れられている気がして、思わず口元が緩んだ。


「毎年、本当だから」


 シアが、水路の縁でくすくすと揺れるように笑った。笑い方も、去年より少しだけ大きくなっている気がした。それとも、そう感じるのは、こちらの耳が変わったからかもしれない。


 桶に水を汲みながら、ふと空を見上げた。雲一つない、澄んだ青だった。


 汲み終えた桶の水面が、しばらく揺れてから、少しずつ凪いでいった。映る空も、揺れが収まるにつれて、輪郭をはっきりさせていく。あんな凪は庭に来てから数えるほどしかないと、いつか思ったことがあった。今は、こんな小さな桶の水面にも、同じ静けさが宿っている。


 その静かな水面を見下ろしながら、この空の下に、今、確かに自分の居場所があるのだと思った。古い声は、まだどこかに残っている。それでも今は、桶の水のように、いずれ凪ぐものだと知っていた。


 桶を持ち上げ、小屋へと向きを変えた。


 シアが少し先を跳ねるように歩いていた。振り返って、何か言いたそうに口を開きかけては、やめる仕草を二度繰り返した。


「なに」


「ううん。なんでもない。ただ、今日のリナ、好き」


 唐突な一言に、頬が熱くなった。うまい返し方が見つからず、しばらく黙って歩いた。桶の中で水が小さく波打つ音だけが、しばらく足元でついてきた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第22話をお届けしました。第2アークもいよいよ終盤です。


七年間の中でも特に忘れられない朝——脚を折った鹿を看取った記憶を中心に、これまで積み上げてきた各話(嵐、名付け、都の夢、光る庭、番人、笑い声)を、一度リナ自身の視点でまとめ直す回として書きました。数字で年数を辿るのをやめる場面は、彼女がもう「都からの時間」で自分を測っていないことの表れです。古傷が疼く場面は、彼女の中の恐れがまだ完全には消えていないことを、あえて残しておきたくて書きました。


次の話では、静かだった庭に、来訪者の気配が近づいてきます。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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