第21話: 崩れる瞬間
その朝は、息を吐くと、白さが固まって見えるほど冷え込んでいた。指先が痺れるような寒さだった。
水を汲みに沢へ向かう途中、空気が普段と違うことに気づいた。風がまったくない。音もない。冷たさだけが、刃物のように澄んでいた。こんな凪は、庭に来てから数えるほどしかなかった。
桶を提げて歩きながら、いつもと同じ道のはずなのに、今日はやけに静かだと思った。木々も、精霊たちの気配も、息をひそめているようだった。冬の朝は、たいていそうだ。光が薄く、色が乏しい。だが今朝は、その薄さの中に、何かが張り詰めているような気配があった。
柵を直し、水を汲み、畑の様子を見る。この庭に来てからずっと繰り返してきた朝の手順だった。番人と呼ばれるようになったのも、結局はこの繰り返しの先にあるものだと、近頃はそう思うようになっていた。今朝も、いつも通りの一日になるはずだった。
七年前、ここに来たばかりの頃の朝は、こんなふうに手順を数えることさえできなかった。ただ生き延びることに必死だった。今は、体が覚えた手順をなぞるだけで、朝が始まる。それだけの余裕が、いつの間にか自分の中にできていた。
足音だけが、やけにはっきり響いていた。霜を踏む音、桶の底で水滴が跳ねる音。普段は聞き流している音を、今朝はひとつひとつ拾ってしまう。それだけ、あたりが静かだった。
東の空が白み始めた頃、それが起きた。
昇りかけた太陽から、まっすぐ光の柱が立ち上がった。空気中に浮かんだ細かい氷の粒が、朝日を受けて、無数の光の欠片になって舞っていた。柱は淡く、けれど確かに、空へ向かって伸びていた。まるで、太陽そのものが地面まで手を伸ばしているようだった。
足が止まった。
もうすぐ七年になる。この庭で数えきれない朝を見てきたつもりだった。夏の入道雲も、秋の月暈も、春先の靄も、それぞれに覚えている。だが、こんな光景は初めてだった。
氷の粒が、宙に静止するようにきらめきながら、ゆっくりと降りてくる。太陽の光を反射して、あたり一面が細かい光の粉に包まれていた。音はないはずなのに、耳の奥で、かすかな鈴の音を聞いた気がした。息を止めて見ていた。瞬きをしたら消えてしまう気がした。
どれくらい見上げていたのか、わからない。太陽が指一本分も昇らないうちに、それだけの時間が消えていた。指先の感覚も、寒さも、忘れていた。桶の存在すら、頭から抜け落ちていた。
声が出た。自分でも制御できないまま、喉の奥から抜けていった。
「――わあ」
言葉になっていなかった。ただの感嘆だった。喉が震えて、目の奥が熱くなった。氷の粒が肩に落ちて、頬に落ちて、そのたびに小さく笑ってしまった。息がうまく続かなかった。笑いすぎて、喉の奥がひくついた。
止めようとした。だが、止め方がわからなかった。七年かけて覚えた無表情の作り方は、こんな時のために用意されたものではなかった。喉も、頬も、目の奥も、体のあちこちが勝手に動いていた。まるで、長い間閉じていた蓋が、一気に外れたようだった。
声を上げて、笑っていた。
水路の方で、水色の光が跳ねるように揺れた。
「リナ?」
戸惑ったような、シアの声だった。
「シア、見て。光ってる、全部」
桶を放り出して、両手を広げた。手のひらに落ちる氷の粒を受け止めようとして、うまくいかなくて、また笑った。子供のような仕草だと、頭のどこかではわかっていた。それでも、止まらなかった。
「リナ、笑ってる」
シアの声が、明らかに驚いていた。水色の光が、水路の縁でぴたりと止まっていた。近づいてくる気配もなく、ただじっと、こちらを見ているようだった。
「笑っちゃ、だめ?」
「だめじゃない。でも、初めて」
「初めて?」
「うん。リナの笑う声、初めて聞いた」
その一言に、体の芯がひやりとした。笑ってはいけない理由など、どこにもないはずだった。それでも、指摘されると急に恥ずかしくなった。
「シアも、笑う?」
「わからない。シア、まだ笑ったことない」
その言い方に、悔しそうな響きはなかった。ただ、少し眩しいものを見るような声だった。水色の光が、ゆっくりと、リナの周りを一周した。氷の粒を確かめるように、それとも、リナの顔を確かめるように。
「なんで、笑ったの」
「わからない。綺麗だったから、かな」
自分の言葉が、驚くほど頼りなく感じられた。もっと言いたいことがある気がしたが、それが何なのか、うまく形にならなかった。
止まればいいのに、止まらなかった。恥ずかしさより先に、何かが胸の内側から溢れて、まだ出口を探していた。
その一言で、我に返った。
両手を下ろし、頬の熱さに気づいた。
声を上げて笑うことなど、この庭に来てから、一度もなかった気がする。都にいた頃には、なおさらだった。
荷物持ちのくせに笑うな、と誰かに言われたことがある。誰に言われたのかは、もう思い出せない。ただ、覚えているのは、野営の焚き火の傍らでうっかり声を立てて笑ってしまった夜のことだ。誰かの冗談に、思わず笑った。とたんに、場の空気が冷えた。パーティの誰かが、聞こえよがしにため息をついた。「回復要員が、何を笑ってる」。それだけだった。それだけで、十分だった。
役に立たない者が声を立てて笑うのは、生意気だと取られた。それ以来、笑いそうになるたびに、喉の奥で押し殺す癖がついた。長い年月をかけて、その癖は体の一部になっていた。
庭に降る音のほとんどを、もう覚えている。風の音、水の音、精霊たちの声にならない声。夜に降る霜の音さえ、耳を澄ませば聞き分けられる気がしていた。だが、自分の笑い声だけは、そのどれよりも聞き慣れないものだった。この庭のどんな記憶にも、なかった音だった。
一人で過ごした最初の二年は、物音ひとつない日もあった。声を出す相手がいなかった。三年目にシアと言葉を交わすようになってから、ようやく、声は誰かに届くものになった。それでも、笑い声だけは、ずっと届けたことがなかった。
「……変だった?」
「変じゃない。いい声だった」
その一言だけで、頬の熱がまた戻ってきた。今度は、恥ずかしさより先に、じんわりと胸が温かくなった。
シアが、嬉しそうに水路の縁で揺れていた。水色の光が、いつもより一段明るく灯っている気がした。恥ずかしさが、少し遅れてやってきた。両手で頬を軽く押さえて、光の柱をもう一度見上げた。柱は、まだ淡く空へ伸びていた。
「これ、なんて言うのか知ってる?」
「知らない。でも、綺麗」
息を整えるのに、思ったより時間がかかった。まだ胸の奥が、じんわりと熱を持っていた。
それ以上の言葉はいらなかった。名前のない光を、名前のないまま見ていられることが、今はただ、ありがたかった。
いつか、この庭に見知らぬ誰かが訪れる日が来るかもしれない。その時、こんなふうに声を上げて笑うことは、きっとない。今はまだ、シアだけが知っている声だった。
光の柱は、太陽が高くなるにつれて、少しずつ薄れていった。氷の粒も、地面に降り積もる頃には、ただの霜と変わらなくなっていた。
桶を拾い上げる前に、手のひらに残っていた一粒だけ、まだ溶けずに光っていた。それを見て、もう一度、小さく息が漏れた。今度は声にならなかった。
桶を拾い上げて、水を汲みに沢へ向かった。踏みしめる霜の音が、さっきよりも柔らかく聞こえた。歩きながら、さっきの自分の声を思い返した。あんな風に、腹の底から声が出たのは、いつ以来だろう。思い出せないくらい、久しかった。都にいた七年前の自分が見たら、きっと驚いただろう。あの頃は、声を立てて笑う自分など、想像もできなかった。
「また、笑って」
シアが、隣を歩きながら言った。水色の光が、歩調に合わせてゆっくり跳ねていた。
「そんな、すぐには」
「でも、また見たい」
「……約束は、しない」
「うん。約束、しなくていい。ただ、待ってる」
待つ、という言葉が、思ったよりまっすぐ届いた。急かされるよりも、ずっと応えやすい言葉だった。
その言い方に、少しだけ頬が緩んだ。今度は、声には出さなかった。だが、緩んだ頬の感触を、シアはきっと見逃さなかっただろう。
沢に着いて水を汲む間も、光の柱のことを考えていた。珍しい現象だった、それだけのはずだった。だが、手のひらの中で、氷の粒はとうに溶けていた。それでも、この笑い声を知っているのは、まだシアだけだ。それで、いいと思った。
空はもう、いつもの薄い色に戻っていた。それでも、胸の奥には、まだ小さな光が残っている気がした。




