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最果ての地に追放されて七年、そこが神々の聖域だったと都の人間たちが気づいた時、私はもう帰る気はなかった  作者: 空乃ゆきこ


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第16話: 光る庭

 目を覚ましたのは、光のせいだった。


 炉の火はとうに落ちていた。それなのに、壁の隙間から、赤くない光が薄く差し込んでいた。最初は霜の反射かと思った。だが霜は光らない。動きもしない。


 都の夢を見てから、いくつか夜を重ねていた。あの夜の霜は、もう雪に変わっている。冬は日ごとに深くなっていくのに、寒さにはいつまでも慣れない。毛皮の外套に袖を通し、革紐を結び直してから、ようやく体が動く気になった。七年経っても、朝の支度だけは短くならない。


 起き上がって、戸口に近づいた。板の隙間に目を当てると、外の景色が、うっすらと発光しているのが見えた。




 外に出た瞬間、息が止まった。


 庭全体が、光っていた。


 雪の積もった地面が、内側から発光しているように白くにじんでいる。木々の枝という枝に、細かい光の粒が留まって、風もないのにゆっくりと明滅していた。空気そのものが、薄い膜を張ったように光を含んでいた。


 冬なのに、これほどとは。精霊の気配は季節と連動する。冬は少なく、夏は多い——七年でそう学んできたはずだった。目の前の光は、その法則を平然と裏切っている。


 耳を澄ませても、物音がしなかった。雪を踏む音も、風の音も、庭がいつも持っている呼吸の音さえも、光に吸い込まれたように静かだった。沈黙にも質感があるのだと、このとき初めて知った。雪の匂いにさえ、微かな甘さが滲んでいる気がした。


 都では、こんな景色を見たことがない。舗装された道と、篝火と、鐘の音——あの場所に、こんな光は存在しなかった。


 七年、この庭で夜を過ごしてきた。精霊の気配が光として見えることには慣れている。でも、これは違った。特定の誰かの気配ではない。庭という場所そのものが、息をしているように光っていた。


 冷たいはずの空気を吸い込むと、なぜか喉の奥が温かかった。凍える夜のはずなのに、体の芯が、じんわりと熱を持っていた。


「……なに、これ」


 誰に聞くともなく、声が出た。




 しばらく立ち尽くしていると、水路の方から気配が近づいてきた。シアだった。


 いつもより、動きが遅い。近づいてくる光の粒が、戸惑うように揺れていた。怖がっているのか、戸惑っているだけなのか、判断がつかなかった。シアがこんな風に揺れるのを見るのは、初めてだった。


「シアこれ、見える?」


「うん」


「いつも、こうなの」


「ときどき」


 短い答えだった。いつものシアなら、もう少し言葉を続ける。今夜は、それきり黙っていた。


「これ、なんの光」


「わからない」


 わからない、という返事に、驚いた。シアが「わからない」と言うのは初めてだった。水のことも、庭の生き物のことも、たいていは何か知っている。この光についてだけは、何も持っていないようだった。


「なんで、わからないの?」


 しばらく答えが返ってこなかった。近づいてくる光の粒が、迷うように、ゆっくりと明滅を繰り返す。


「これ、シアより古い」


 その一言に、余計にわからなくなった。シアより古いものが、この庭にいる——その事実だけが、輪郭のないまま重みを持って残った。


「シアより古いって、どのくらい」


「わからない。ずっと前から」


「ずっと前からって、シアが生まれる前から?」


「たぶん」


 たぶん、という言葉を、シアが使うのを聞いたのも、この夜が初めてだった。いつものシアは、知らないことでも迷わず「知らない」と言い切る。曖昧な返事をするような子ではなかった。


「怖くないの、シアは」


「怖くない。知ってる気がするから」


「知ってるのに、わからないの?」


「うん。知ってるけど、わからない」


 矛盾した答えだった。それでも、嘘には聞こえなかった。精霊は嘘をつけない生き物だ——だとすれば、シアの中では、それが矛盾なく両方とも本当のことなのだろう。理解はできなかったが、納得はできた。


 三年目の冬、初めてシアと言葉を交わした日のことを思い出した。あのときのシアは、まだ姿も定まらない、水たまりの揺らぎのような気配だった。それが今は、迷いながらも言葉を選んで話しかけてくる。七年という時間の中で、シアも変わったのだと、今さらのように気づいた。だとしたら、この光は、シアよりもさらに長く、この庭にいたことになる。


「カルも、知らない?」


「聞いてない。でも、たぶん知らない」


「ソルは」


「ソルも、たぶん」


 火の精霊も、土の精霊も、この庭にいる誰も、この光の正体を知らないのかもしれない。だとすれば、これは精霊たちの世界よりも、もっと奥にあるものだった。




 庭の奥へ、少し歩いてみた。


 歩くたびに、足元の光がわずかに揺れて、また静まった。踏んでも消えない。踏まれることを気にしていないようだった。老木の幹に手を触れると、樹皮の粒子ひとつひとつが、内側から発光しているのがわかった。指先に伝わる感触は、ただの木の肌だった。熱くも冷たくもない。


 右手首の古傷に、光の粒が一つ、触れて消えた。


 痛みはなかった。むしろ、傷跡のあたりだけ、他より少し温かい気がした。あの夜、消印の鉄環に押し当てられた熱さを思い出した——一瞬だけ。あの時は、皮膚の下から何かを剥ぎ取られるような熱さだった。今夜のこれは、剥ぎ取るのではなく、そっと置かれるような温かさだった。あの夜の熱さとは、まるで違う温度だった。


「リナ、怖い?」


 シアの問いに、首を横に振った。


「怖くない。でも、大きい」


「大きい」


「わたしより、ずっと大きいものがここにいる気がする」


 言葉にしてから、それが一番近い表現だと思った。庭に精霊がいることは知っている。でも、この光は、精霊よりもさらに向こう側にあるものの気配だった。名前も、姿も、わからないまま、確かにそこにあった。


「シアも、大きいって思う?」


「うん。でも、怖くはない」


「なんで」


「リナと同じ。知ってる気がするから」


 同じ言葉が、シアの口からも出た。知っているのに、わからない。その感覚を、精霊も人も、同じように抱えているのだと知って、少しだけ心が軽くなった。


 水路に近づくと、凍りついているはずの水面が、内側からうっすらと光を放っていた。普段なら真っ黒に凍る水が、今夜だけは淡い青みを帯びている。


「ここ、シアの場所じゃない?」


「うん。でも、いつもと違う」


「どう違うの」


「あったかい。氷なのに」


 氷なのに温かい、というシアの言葉は、矛盾のようでいて、今夜のすべてに当てはまる気がした。




 光は、夜明けの少し前から、少しずつ薄れていった。


 雪の白さが、ただの雪の白さに戻っていく。木々の枝から、光の粒が一つずつ消えていく。潮が引くように、静かだった。


 光が薄れるのに合わせて、喉の奥の温かさも引いていった。代わりに、頬に触れる空気が急に鋭くなる。息を吐くと、白い息が闇に溶けて消えた。ようやく、いつもの冬の夜に戻ったのだとわかった。


「消えちゃう」


 シアがつぶやいた。名残惜しそうな声だった。


「うん。また、来る?」


「たぶん」


「たぶんって、シアにもわからないの」


「わからない。でも、また会えると思う」


「わたしも、そう思う」


 根拠のない言葉を、二人で確かめ合っただけだった。それでも、言葉にしておきたかった。


 その答えも、はっきりしなかった。シアがはっきりしないのは珍しいことだった。いつもなら、「うん、いつもしてる」とすぐに返ってくる。今夜だけは、シアにもわからないことがあるのだと知った。


 空が白み始める頃には、光はほとんど残っていなかった。ただの雪と、ただの木と、ただの朝が、そこにあるだけだった。




 小屋に戻って、水を入れた椀を火にかけた。


 湯気が立つのを見ながら、さっきまでの光景を思い返した。うまく言葉にできなかった。誰かに話すとしても、どう説明していいかわからない。庭が光っていた、というだけでは、何も伝わらない気がした。


 薪を割り、水路の氷を毎朝割り、獣道に迷い込んだ獣を追い返す。そうやって七年、この庭を保ってきたのは自分だと思っていた。


 これは、わたしのものじゃない。


 そう思った。庭を守っているのは自分だと、いつからかそう思うようになっていた。でも今夜の光は、その考えを、そっと押し返してきた気がした。わたしが守っているのではなく、何か別のものが、ずっと前からここを見ていたのかもしれない。


 何かに見られているのだとしたら、と思うと、指先が古傷にそっと触れていた。役に立たなければ、また同じことが起きる——七年前に刻まれたその恐れが、こんな夜にまで顔を出すとは思わなかった。だが椀の中の湯気を見つめ直すうちに、その考えは、静かに沈んでいった。


 それでも、と思う。もし本当に何かに見られているのなら、七年間、一度も獣に襲われず、飢えず、凍え死にせずに済んだ理由の、ひとつくらいにはなるのかもしれない。そう考えると、指先に残る熱は、脅かすためのものではなく、ただ静かにそこにあるだけのもののような気もした。答えは、今はまだ出さなくていい。


 誰にともなく、もう一度だけ呟いた。


「……ありがとう、かも」


 言い切れなかった。それでも、言葉にしてみたのは、初めてだった。


 椀の湯が、静かに冷めていった。答えの出ない問いだけが、そのあとに残った。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第16話をお届けしました。ここから第2アークの後半、「神々の加護」の伏線がいよいよ動き始めます。


この話で一番書きたかったのは、シアが「わからない」と答える場面でした。これまでシアは、わからないなりにも何かしら答えを持っている子として描いてきたので、その子が本当に何も知らない、という空白を出したかったのです。精霊にもわからないことがある。だとしたら、それを知っているのは誰なのか——という問いを、ここで静かに置いておきたいと思いました。


右手首の古傷に光が触れる場面は、追放の傷と今の庭を、直接言葉にせずに繋げたくて入れました。


次の話では、精霊の長老エルが、ある言葉をリナに告げます。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


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