90 歪む世界
会長は私を自分の後ろに隠すようにして歩く。二人とも無意識に足音を殺していた。廊下へ出ると耳が痛くなるほど静まり返っていた。
放課後ならどこかの教室から笑い声が聞こえたり、運動部の掛け声が校舎まで響いてきたりする時間だ。けれど今は、それらがまるで遠い世界の出来事になってしまったかのように聞こえない。
「……か、会長……」
「ああ、これは正に異常事態だ……。一体なにがどうなっている」
ごくりと喉を鳴らした会長はゆっくりと窓際に歩いていく。そしてグラウンドへと視線を落とした瞬間、彼の顔が青ざめた。私も隣に並び、恐る恐る外を見る。
「……え?」
思わず息を呑んだ。
グラウンドにはいつも通りの光景、運動部の生徒たちがいて、サッカー部や陸上部や野球部の部員たちが練習しているのだけど、
「動いて……いない? みんなどうして止まっているの……」
「いや、違う。よく見ろ、ゆっくりだが動いているぞ」
会長に言われて目を凝らした。
確かに完全に止まってはいなかった。静止しているように見えるほど異様に動きが遅いのだ。宙に舞うサッカーボールは止まりそうなほどゆっくり飛んでいる。腕を振り上げて走る陸上部員の足も、風になびく髪も、揺れる木々の葉も、すべてがスローモーション映像のようだ。
「どうなってるの……」
鳥肌が腕を這い上がる。
「彼らが遅いのではなく、我々が異常な速度で動いている可能性もあるが、そんなことはどっちでもいい。いずれにせよ、この現象に巻き込まれているのは我々だけということだ」
あり得ない、そう言いかけた私は口をつぐんだ。だって、今まさにその〝あり得ない〟の内側に私はいるのだから。
全部、あの黒い怪異の仕業に違いない。この色を失った世界も、時の流れがおかしくなったことも。
「先輩!」
聞き慣れた声が廊下に響く。校庭から視線を切って声のした方に振り向くと、階段を駆け上がってきた少年の姿が眼に入った。
淡い金色の髪を揺らしながら息を切らしている。
「ノエルくん!」
「無事で良かった!」
私のもとに駆け寄ってきた彼は、心底安心したように表情を緩めた。その笑顔を見て、私も張り詰めていた気持ちが少しだけほどける。
「朱雀会長もご一緒でしたか」
そう言ったノエルくんの視線が、ふっと私たちの手元へ落ちた。そこで初めて会長の手を握ったままだったことに気付く。
「あっ!」と、声を上げて慌てて手を放す。
「ち、違うの! これはその……」
反射的に弁解しようとする私に、ノエルくんは困ったように微笑んだ。
「理由は後でうかがいます。今はそれよりも……」
ノエルくんの視線が会長に注がれ、会長も咳払いを一つして「キミも黒い影を見たのか?」と話を戻す。
「ええ、職員室から教室に戻るときに遭遇しました。見つかる前に、咄嗟に隠れてやり過ごすことができました……。何なんですかアレは? それにこの状況は一体……」
「残念だが生徒会長といえ、何でも知っているわけではない」と皮肉交じりに会長は微苦笑を浮かべる。
「しかし、この異常事態と無関係とは思えない」
重苦しい沈黙が落ちる。誰も答えを持っていない。
「僕たちはどうすれば……」ノエルくんが会長に尋ねる。
「学校を出る」会長は迷いなく答えた。
「まずは外へ出て助けを呼ぶ。それが最優先だ」
「あ、待ってください」
私はポケットからスマートフォンを取り出した。
「電話なら――」
画面を点灯させた瞬間、言葉を失う。アンテナが一本も立っていない。圏外になっている。
「……やはりな。私も先ほど確認したが、どういうわけか圏外になっていた」
「そんな……」
ノエルくんも自分のスマホを確認して息を吐いた。
「まるで学校ごと別の世界へ閉じ込められたみたいですね……」
彼のセリフを誰も否定できなかった。むしろその表現が一番しっくりくる。
「またあの怪異が現れる前に外に出るぞ」
会長が足を踏み出した、そのとき――
「……あれ!」
私の声に二人が窓の外に顔を向ける。
校庭の真ん中、突如として黒い霧をまとった怪異が現れた。怪異はおもむろに一人のサッカー部員へと手を伸ばしていく。
「逃げて!」
叫んでも私の声は彼に届かない。怪異の手が生徒の肩へ触れた次の瞬間、浸食するように男子生徒の体を黒い霧が爆ぜるように広がって包み込んだ。
「なっ……!」
そこにいたはずのサッカー部員は姿を消していた。彼がいた場所に代わりに立っていたのは、全身を黒い霧に包まれた、二体目の怪異だった。
「増えた……」
私の背筋を冷たいものが走る。
「あいつに触れられた人間は……同じ怪異になるのか」
ノエルくんが青ざめた顔で呟く。
「このままじゃ全員……!」
怪異にされてしまう。誰も異変に気付かないまま、また一人と黒い影へ変えられてしまった。私たちは言葉を失う。恐怖で足が竦んで動けない。
目の前で起こっている出来事は悪夢そのもの、その絶望的な光景の中で――。
「あれを見てください!」
ノエルくんが一点を指差す。グラウンドを一直線に駆け抜ける一人の男子生徒の姿があった。剣道着が大きく翻り、その手には竹刀が握られていた。
迷いなく一直線に怪異へ向かっていくその背中は、
「ハヤテくん!?」
彼はたった一人で、あの怪異に立ち向かおうとしているのだ。




