89 現実から非現実へ
翌朝、私は一年生の教室へ向かい、ノエルくんに昨日の出来事を話した。図書室で待たせたまま帰れなくなってしまったことを謝ると、彼は申し訳なさそうに眉を下げる。
「図書委員の先輩から『白城さんは先に帰った』って聞いて……。だから、そんなことになっていたなんて全然知りませんでした……」
どうやら私の鞄が図書室に残っていたことには気付かなかったらしい。しかしそれも無理はない。鞄は貸出カウンターの下にしまってあったのだから、外から見えるはずもない。
「ごめんね。でもノエルくんのせいじゃないからさ、気にしないでね」
「いえ……。僕がちゃんと気付けていればすぐに助けに行けたのに……」
本気で悔やんでいる様子に、胸がちくりと痛む。
体育倉庫からどうやって出られたのか尋ねられた私は、一瞬だけ口ごもった。嘘をつく必要はまったくないのだけど、だからと言って本当のことを話すのは、ややこしいことになってあまり良くない気がする。
だから笑ってごまかしながら「扉を叩いてたら、たまたま鍵が外れたみたい」と答えると、ノエルくんは「そうだったんですね」と素直に頷いてくれた。その素直さが、さらに私の胸をちくりと刺す。
スピーカーから予鈴が流れ、私は寝惚け眼を擦りながら教室に戻って自分の席に着いた。
昨夜は布団に入ってもなかなか寝付けず何度も寝返りを打った。助けにきてくれた彼の姿が、彼に手を握られたことが、その温かさが頭から離れてくれなくて、目を閉じるたびに思い出してしまい、結局、眠りにつけたのは空が白み始める頃だった。
なので一限目から眠気は最高潮である。そんな私の隣では、なっちんも机に突っ伏しそうになっていた。彼女の頭がこくんと前へ落ちるたびに、私はシャーペンでそっと横腹をつつく。ついでに私も眠気に負けそうになると自分の手の甲を突いて、無理やり意識を引き戻す。
そんな攻防を繰り返しているうちに、気付けば放課後になっていた。
二日連続の図書当番。
図書室へ向かう足取りは昨日よりずっと重い。扉を開ける前に一度だけ深呼吸する。
お願いだから、今日は平和でありますように。
そんなささやかな願いは届いたらしい。今日の当番は昨日の女子生徒ではなく、三年生の男子生徒だった。顔は見覚えがあるものの、名前までは思い出せない。
先輩は気を使うけど、それでもあの子ではないというだけで肩から力が抜ける。
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げて挨拶を済ませた私は、早々に返却された本を抱えて書架に向かう。
今日は利用者が一人もいないようだ。本棚に挟まれた通路を奥へと進む。奥へ向かうほど窓から差し込む陽光があまり届かず、部屋の隅は昼間でも薄暗い。
暗い場所が得意ではない私は、なるだけ早く本を元の場所へ戻していく。すると肩に、そっと誰かの手が触れた。ひんやりとした感触に私は肩を震わせる。
「ひっ!」
お、落ち着いて……。どうせまた会長のしわざなんだから。まったく、この人は……。いい加減ちゃんと怒ったほうが良さそう。うん、よし、今日こそ怒ろう!
半ば呆れながら振り返った私が、「会長! いい加減にしてく――」と言いかけた直後、
「静かに」会長は言った。
いつもの余裕のある声ではない。低く押し殺した声は緊張を孕んでいる。
私は思わず息を呑む。
「……な、なんですか?」
「なんだ……あれは」
会長は私の肩越しに視線を向けたまま、小さく息を呑む。
つられるように本棚の隙間を覗き込む。その瞬間、全身の血の気が引いた。私がさっき通ってきた本棚に挟まれた通路の真ん中、そこに立っていたのは人の形をしている人ではない何かだった。
頭から足先まで真っ黒で、濃い影が立体になったような姿。全身が黒い靄に覆われて、輪郭がゆらゆらと揺らぎ続けている。
黒靄は鱗粉のように空気中へ舞い散り、光さえ吸い込んでしまいそうな不気味さを放っていた。
足音はない。ただ、のそのそと緩慢な動きで図書室の中を歩き回り、何かを探すように目も鼻も口もない顔を左右に動かしている。
なに……あれ……。人間なの? まさか幽霊?
しばらく周囲を見回していた黒い存在は、不意に向きを変えると、そのまま図書室の外へ出ていった。
「……行ったか」
会長がようやく息を吐く。私も遅れて肺に留めていた空気を吐き出す。
「か、会長……あれ、一体なんなんですか……」
「分からない」
視線を化け物が出て行った扉に向けたまま、会長は首を横に振った。
「キミに声を掛けようとしたとき、偶然本棚の隙間から見えた。一言で言えば……怪異。それ以外に表現のしようがない」
「怪異……?」
私の口から乾いた笑い声が漏れる。
「そんな……幽霊とか化け物なんて、いるわけないじゃないですか……」
そう否定したけれど、自分でも分かるほど声が震えている。
「あれを見てもそう言えるか? 明らかに人外だった……。とにかく、この学校で何か異常なことが起きている。それだけは間違いない」
会長は私を見て言った。
「嫌な予感がする。あれに見つかる前に学校を出るぞ」
無言でうなずくと、彼は私の手を引いて慎重に歩き出す。本棚の陰から通路に出たところで、ようやく別の異変に気付く。
図書室の隅にいたから気付かなかったけど、いつの間にか室内が薄暗くなっていた。蛍光灯はいつも通り点灯しているのに。太陽は傾き始めたばかりで、まだ夕暮れには早い時間帯のはずなのに。
視界にあるもの全てが灰色に染まっている。




