78 全然たいしたことじゃない
「それでは失礼します」
エドガーは微笑を浮かべて踵を返した。
去り際、床に散らばった本を一冊ずつ拾い上げた彼は、本を抱える態勢のまま固まる女生徒の腕の中へ戻してあげる。そして彼女の耳元へ顔を寄せて小声で何かを囁いた。
顔を真っ赤にした女生徒の肩がびくりと震え、こくこくと何度も頷く。
な、何を言ったの今……?
エドガーは何事もなかったような顔で軽く会釈し、そのまま図書館の奥へ消えていった。残された私と少女の間に、なんとも言えない空気が流れる。
「あ、あはは……」
私が誤魔化すような乾いた笑いを漏らすと、彼女は慌ててお辞儀をしてから逃げるように回れ右して去って行った。
い、いったい何を吹き込んだのよ……あいつは。絶対、変な誤解されてるよね……。
「はぁ……」
図書館を出た私は深々と溜め息を吐いた。
誰そ彼、間もなく日が暮れる。
遠くから聞こえていた部活動の掛け声も消えて、生徒たちが談笑しながら寮へと戻っていき、西日に照らされていた校舎の窓も輝きを失っていく。
長かった、一日がまるで一週間くらいに感じられた。まだ任務が始まったばかりなのに身が持つか心配になってきた。
一日の終わりって、なんだか気持ちも落ちるのよね……。
「はぁ……」
校舎の陰に沈みゆく夕陽を眺めながら、もう一度だけ溜め息を吐いたそのとき、
『司令、異常はないッスか』
突然、首元から声が響いた。
「ひゃっ!?」
びくりと肩を跳ねさせて慌てて辺りを見回した私は、その声が首に装着したチョーカー型通信機《離れていても聞こえるくん》から発せられたものだと、少し遅れて気付く。
万が一なにかあったとき外部と連絡を取れるよう、司令官である私だけ装着することになっているのだ。
本来なら全員が装備するべきなのだろうけどクラウディオたちとお揃いのチョーカーをしていたら、私たちの関係を匂わせてしまう。下手に目立ってしまうのは避けるべきだし、私たちが戦術騎士隊アルタイルであることは絶対にバレてはいけない。
……まあ、さっき図書館で盛大に匂わせてしまったのだけどね。あの子が黙っていてくれたらいいんだけど。
そう心の中で呟いた私は、首元のチョーカーに触れて、「今のところ異常なし。ナイトメアらしき物は発見できず」と応答した。
『ま、そんな簡単に見つけられちゃ、こっちの立場がないッスよ』
「ちょっと遊びじゃないんだからね。こっちは捜索以外にも仕事があって色々と大変なんだから」
『自分も司令の授業を受けてみたかったッスよ。他のみんなは上手く擬態できているんスか?』
「それについてはみんな問題なさそう。一番意外だったのはクラウディオのヤツね、教師の方が合っているかもって思っちゃったくらい」
『ああ、まあ、想像できなくもないッスね。商会長の命より孤児たちの命を優先して助けるようなヤツっすから』
「え、なにそれ?」
『あれ? 司令知らないんスか? 二年前の夏至祭の最終日、会場に魔獣の群れが乱入したことあったじゃないっスか。あのときクラウディオは、衛士隊のチームとして悪名高いメンドルソン商会の商会長の護衛任務についてたんスよ』
「……ああ、アノ事件ね」と相槌を打ったものの、二年前だとまだ召喚されていないから知るわけないんだけど。
『当然、商会長を最優先で護衛しなきゃいけないんスけど、アイツは祭り会場を訪れていた孤児院の一団を守るために勝手にチームを離れたんス』
「へえ……」
『明らかな命令違反ッスから、事件の後で衛士長にめちゃくちゃ怒られたんス。「貴様、自分の立場を理解しているのか!」って』
「まあ、それはそうなのかもね」
『クラウディオも理解しているから言い返さなかったらしいッスけど、その後に「子汚いガキ共の命より遥かに商会長の命の方が重いんだぞ!」って怒鳴られた瞬間に――』
「瞬間?」
『衛士長をぶん殴ったらしいッス、ボコボコに』
うわ、やりそー……。
『ま、それから衛士隊では干されていたわけで』
「そっか、そんなことがあったの……」
クラウディオに限らず、私って隊員たちのことを知っているようで全然知らないんだな。
「ところでそっちはどうなの? ノイックから何か聞き出せそう?」
『いやぁ、それがッスねぇ……』
フェルさんにしては珍しく歯切れが悪い。
嫌な予感がした。なにか重大な事件が発生したのだろうか。
「何かあったの?」
不意に私の喉がごくりと鳴る。
『いや、全然たいしたことじゃないんスけど、ノイックが死んじゃったッス』
全然たいしたことあるじゃない!!




