71 人は予測できない事態に陥ると素が出てしまうって
授業開始からほどなく、私が黒板に向かってチョークでレシピを書いている間に、教室の空気はみるみる弛緩していった。
最初こそノートを取っていた生徒たちも、次第に姿勢が崩れ、やがて私語がぽつぽつと聞こえてきた。椅子が軋む音が響き、誰かのクスクスと笑う声が交じり、それが連鎖するように広がっていき気づけば、教室全体がざわつき始めていた。
さらに数人の男子生徒が席を立ち、教室の端で何やら魔術の詠唱を始める。小さな火花が散り、風が巻き起こり、調理台の上の器具がカチカチと音を鳴らす。制止する間もなく、魔術の応酬が始まった。
正にカオスだ……。
私はチョークを持ったまま、呆然と立ち尽くす。
堅苦しい説明より先に実技から入るべきだった。学生時代を思い返してみれば、先生たちは黒板に書いているときも、生徒たちに語りかけて注意を引きつけていた。
あれってこういうことだったんだ、と今さらながら理解する。教師という仕事の難しさと自分の未熟さを、初日にして痛感した。ていうか、私は本物の教師じゃないんだけどね。
「はあ……」
しょうがない、とチョークを置く。
時間がないから授業を進めてしまおう、そう判断した私は調理台へと向かい、布巾で手を拭いてから用意されていた卵を取った。
軽く打ちつけた卵の殻を片手で割って開き、するりと中身をボウルへ落としていく。ぽとん、ぽとん、とリズムよく機械のように卵割りを続けていると、いつの間にか教室が静まり返っていることに気付く。
手を止めずに顔を上げると、みんなが私に注目しているではないか。
「先生、それどうやってるの?」
前列に座る女子生徒が、不思議なものを見るような顔で私の手元を指さす。
「どうやってるのって……。卵を割っているだけだけど?」
「片手でやってんじゃん! すげーっ!」
男子生徒が立ち上がって大きな声を上げた。
「はい?」
一体なにがすごいのだろうか。ただ卵を割っているだけなのに、みんなの視線が私の手元に釘付けになっている。
「こんなの初めて見た! うちの料理人でも両手だったぞ!」
うっそ……。こんなことがすごいんだ。でも、そういえば私も小さい頃にパティシエが片手で卵を割っているのを観て、すごいって思った記憶がある。
やっていることは単純だけど、彼らにとっては予測できない事態だったようであり、興味を示しているのは間違いない。
なんにせよ、これはチャンス! 鉄は熱いうちに打て!
「ふっふっふ、まだまだ序の口よ」
わざとらしく肩をすくめてみせる。
「本気になったら左右の手でいけるんだから! ほらほらほらほら! 何個でもいけるわよ! おほほほほっ!」
テンポよく両手で卵を持って割っていく。ボウルの中に卵が次々と溜まっていく様子に、教室が一気に沸いた。
「オレもやりたい!」
「私も!」
「コツを教えて!」
生徒たちが一斉にこちらへ集まってきていた。目を輝かせながら籠から卵を手に取っていく。一気に流れが変わり、熱気が教室に満ちていく。
「卵は一人一個だからね! 失敗してもやり直しはなしだよ! 見本を見せるからちゃんと見てね!」
声を上げた私は、教室を見回してほっと息をついた。
よかった、偶然だけど作戦成功みたい。
それからは滞りなく授業は進んだ。みんなでプリンを作って、なんとか最初の授業が終了する。
それにしてもさすが学費がすごく高いだけあって、卵も砂糖も牛乳も超一級品だ。他にも普通の市場では手に入らない良質な食材がわんさかストックされている。
少しくらい持って帰っても分からないかな? ま、そんなことしたら横領になっちゃうからしないけどさ。
「さて、早く次の授業の準備をしなくちゃ」
――って、あれ? 私はいつナイトメアの捜査をすればいいのだろう? これってなんかあの学園長に良いように使われているだけじゃない? 抜け目がなさそうだし、あり得る……。
そんなことを考えつつ、私は教室の窓からグラウンドを眺めた。グラウンドでは剣術の授業が行われていた。
生徒たちに囲まれて剣術の指導をしているのはクラウディオだ。いつも無愛想で人を寄せ付けないオーラ全開で、近づく者を誰彼構わず威嚇するように眉間にシワを刻んでいるあの男が、楽しそうに笑っている。
「笑ってる……」
自然と私の口から声が零れていた。
あいつ……、あんな顔もするんだ。ちょっと意外だけど、妹さんには弱いみたいだし、ひょっとして子供が好きで面倒見がいいのかな。案外、騎士をやるより先生の方が向いていたりして。
それにしても意外な一面というか……。
私には見せない顔、私の知らない表情。もしも、あれが本来の彼の姿なのだとしたら。いつもの彼の態度が、わざとしているものだとしたら――。
あいつのことを知っているようで何も知らなかったことが、なんだか少し寂しくもあり、悔しくもあった。
そのとき、ふと視線を上げたクラウディオと目が合った。
数秒間、私たちは見つめ合う。
このとき、私は自分がどんな顔をしていたか分からないけれど、彼はわずかに目を細め、ふっと口元を緩めて笑った。
それはさっきまで生徒たちに向けていたのとは少し違う、はにかんだような柔らかな微笑み。
はっきりと見えなかったけど、とても自然で、無防備で、恥ずかしさを誤魔化すような、そんな表情に見えた気がした。
予測できなかった事態のせいか、あるいはギャップのせいなのか。
その無邪気さを含んだ少年のような微笑みに、私の胸はトクンと高鳴ったのだ。




