62 これは誰かの理想郷
んん……。
まぶたの裏にじんわりと温かさを感じて目を覚ます。カーテン越しに差し込む朝日が、部屋を優しく照らしていた。
もう朝か……。
ぼんやりとした意識のまま私はゆっくりと体を起こす。
ベッドの上にはクマのぬいぐるみが一体。小さなときからいつも一緒だったぬいぐるみは色がくすんでいて、耳の縫い目がほんの少しほつれている。壁際の棚には、文庫本や漫画がぎっしりと並んでいて、机の上には開きっぱなしの参考書とノートとシャーペン。
私がいるのは自分の部屋であり、自分のベッドの上だ。
それなのに妙な違和感を覚えるのは、きっと、
「……あの夢のせい」
ぽつりと呟いて額に手を当てた。
すごく長い夢を見ていた気がする。たった一晩のはずなのに体感では一年くらい。いや、それ以上かもしれない。
はっきりと覚えている。夢の内容を頭の中でなぞった瞬間、私は思わず顔をしかめた。
「……なんであんな夢を……」
聖女だとか異世界だとか。まるで乙女ゲームみたいな世界でイケメンたちに囲まれて!!
「……っうわああああああ!!」
頭を抱えて、じたばたと足をばたつかせる。
「なにあれなにあれなによあれッ! 欲求なの! 願望なの! アニメの見過ぎなの!?」
誰に聞かれた訳でも見られた訳でもないのに、思い出しただけで恥ずかしさで死にそうになる。自分の妄想がそのまま夢になったみたいでタチが悪い。
はあぁ、と長い息を吐く。
でも、ほんの一瞬、胸の奥に引っかかる。あれは本当に夢だったのだろうか。感触があった。匂いも、温度も、声も。やけにリアルで――、
「千鳥、早く起きなさい。学校に遅れるわよ」
一階から母の声が響いた。
「……はーい」
現実に引き戻されるように返事をしてベッドから降りた私は大きく伸びをひとつして、髪をかき上げる。
「ま、いいか。どうせ夢なんてすぐ忘れるし」
そう言い聞かせるように呟いてセーラー服に手を伸ばした。
今日も、いつも通りの一日が始まる。
いつもと変わらない通学路。住宅街を抜けて、ゆるやかな坂を上る。春の空気は少しひんやりしていて、でも日差しは柔らかい。
私の名前は白城千鳥。都会でもない田舎でもない微妙な地方都市で生まれ育った女の子、どこにでもいる普通の高校生だ。
「おはよー、ちーちゃん」
声に振り向くと、いつもの笑顔。幼なじみのなっちんが手を振っていた。
「おはよう、なっちん」
「ねぇ聞いた? 今年のスポーツ大会、伝統のクラス対抗リレーが復活するらしいよ」
「え、それって全員参加ってやつの? いやだなぁ……、絶対走りたくないんだけど」
「欠席出たらどうするんだろうね?」
「誰か二周走るんじゃない?」
「あー、なる。そういうのは運動部が率先してやってくれるよね、きっと」
「私の分も走ってくれないかな……」
「お願いしてみたら?」
「そんなことを気軽に頼める運動部の知り合いなんていませんよ」
私は自ら吐いた自虐を鼻で嗤う。
「知ってるしー」
「なら聞くなし」
そんな他愛もない会話をしながら並んで歩く。
これが私にとっての日常で、常識で、現実なのだ。
「ねぇ……、なっちんさぁ」
「んー?」
「現実みたいな夢って見たことある? 朝起きて、『あ、夢か』ってなるやつ」
「あー、あるよ。結構あるかもね」
「ほんと? どんな夢?」
「ハリウッドセレブになる夢とか、実は石油王が許嫁だったとか」
「すごい俗物感……」
思わずジト目になる私に、なっちんはケラケラ笑った。
「で? どんな夢見たの?」
「え?」
「いや、今の流れ的に聞くでしょ普通」
「う……」
言葉に詰まる。あの夢を語るなんて普通に無理。恥ずかしくて死んでしまう。
「……ちょっと言えない」
「えー、気になるじゃん」
「言えない、絶対言えない……。思い出しただけで自己嫌悪が……」
「白馬に乗った王子様が現れる的な?」
「うぅぅっ……、近からず遠からず……」
「誰だって一度は夢見るんじゃないの、それくらい? ま、すぐに忘れるって。夢なんてさ」
「……そうだね」
実際、もう輪郭がぼやけ始めている。さっきまであんなに鮮明だったのに。
彼の手の温もりとか、声の響きとか――。って彼って誰だっけ……。
私たちは校門へと続く桜並木に入る。花びらがひらひらと舞い、アスファルトを淡く染めている。新しい制服に身を包んだ新入生たちが、少し緊張した面持ちで歩いている。
「実に初々しいですなぁ。若いっていいねぇ」
「何をしみじみ言ってんの。一学年しか違わないでしょ」
「ああ、もう二度とあの頃には戻れないのね!」
なんて冗談を言いながらオーバーな身振りで自分の肩を抱きしめたなっちんが急に前を向き、「あ、赤桐くんだ」と言った。
視線の先、少し離れたところを歩く背の高い男子。彼の名前は赤桐ハヤテ。剣道部のエースで校内の誰もが知る超イケメン、だけど性格がとにかくキツいらしい。どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていて、いつも特定の男子としかつるまない。クラスも違うし接点もないから話したことはない。たとえクラスが同じでも話すことなんてないだろう。だって彼は俗に言うジャックで、私はナードなのだから。
その背中を見た瞬間。ふっと、胸の奥がざわついた。
――クラウディオ。
なぜか、そんな名前が浮かぶ。
自分でも意味がわからなくて立ち止まりかける。
――夢の中で、そう呼んでいた気がする。彼は私の夢の中で登場人物の一人だった。
「ちーちゃん? どうしたの?」
「……ううん! なんでもないの!」
慌てて首を振って歩き出す。
夢の中といえ、同級生の男子を私を奪い合うイケメングループのメンバーにするなんて、ははっ……。本当に恥ずかしい。マジで自己嫌悪で死ねるよ。
「はは……」
私の喉から苦みを含んだ笑いが零れ落ちる。
でも、あの夢みたいにこの私がイケメンたちに囲まれるなんて。
このときの私は、まだ知らなかった。
次回から時系列が第三章の後日に戻ります。
更新は週三回を予定しています。応援よろしくお願いします!




