58 音楽室
『はじめまして。国務室で秘書官をしています、ジョナサンといいます。あなたの要求を伺いに参りました。入ってもよろしいですか?』
クラウディオはそう告げた。丁寧で抑揚の少ない口調。言葉を一つひとつ区切るように、ゆっくり、はっきりと落ち着いた声で、用意された台詞を読み上げているかのように無機質で、そして機械的に。
扉の向こうで、かすかな物音がする。
しばらくしてから、
「武器があるなら全部、扉の前に置いてから入ってこい」
くぐもった声で返事があった。
『武器は持っていません』
『……ドアを全開にするな。入ったらすぐに閉めろ。いいな、すぐにだからな』
クラウディオは一拍だけ間を置き、指示に従うようにゆっくりと扉を三分の一だけ押し開け、体を滑り込ますようにして音楽室に入った。
同時に最小限の動きで室内を見回し、彼のメガネが内部の状況を捉えていく。
分厚いカーテンで日差しが閉ざされた室内は薄暗い。椅子や机はバリケードのつもりなのか、窓側に全部寄せられていた。
お決まりの歴史的な音楽家の肖像画が壁に飾られ、グランドピアノが教壇の右側に配置されている。
そして、ピアノ椅子に一人の少女が縛り付けられていた。
目と口はタオルで塞がれ、手首は背後で固く拘束され、足も椅子に結びつけられている。細い肩が小刻みに震え、喉の奥から漏れる嗚咽が、かすかに室内に響く。
その隣に男が立っている。
背は高く、痩せている。外見は三十代後半くらいで、髪を油で整え、モーニングスーツを着ている。そして右手にタクトを持っている。細く短い、ただの指揮棒ではない。魔術の杖に相当する魔術を発動するための媒体。火種になり得る危険な道具だ。いざとなればあれを火源とするつもりなのだ。
男の目がクラウディオを捉える。
窓越しに見えたときの、あの神経質にぎょろついた視線とは違う。今はどこか焦点が合っておらず、濁った水のように淀んでいる。
衛士隊から得た情報によれば、男は人質になっている女生徒、ローザ令嬢のクラス担任だったそうだ。半年前に幻惑作用のある覚せい魔薬の使用で、執行猶予の付いた有罪判決を受けた後、学園を懲戒免職になっている。
くすんでとろんとした虚ろな眼から、魔薬を使用していることが窺える。
タクトを握る男の背後には、ドラム缶のようなボンベが几帳面に横一列に並べられている。ボンベはざっと数えて二十本。
あれが、ガスの発生源。
『そこで止まれよ。それ以上は近づくなよ、絶対にそれ以上は近づくなよ』
男はタクトを突きつけ、クラウディオをけん制する。
『いいか……、よく聴け。お前は僕に逆らうな』
クスリの影響か、微妙に舌が回っていない。
『もちろんです』クラウディオは静かに応じた。
『その腰にぶら下がる箱はなんだ?』
男はクラウディオの腰にベルトで固定されたテレビリモコンほどの機械を指さす。
『これは、ただのガス濃度を測定するタリスマンです』
嘘じゃない。本当にただのガス検知タリスマンだ。
『信用できないな……、外して床に置け』
クラウディオは迷いなく従った。ゆっくりと装置を外し、男から視線を逸らさずに床へと置く。
『僕はベガのメンバーだ。ボスの命令でここにいる』
(……これはたぶんハッタリだ。だって、ベガはこんな目立つやり方はしない)
『なるほど……、それで?』
クラウディオは事務的に相手の言葉を受け流し、会話を続ける。
『アルゼリオンの国民には賞金が掛かっているんだよ。一人殺せば三千万もらえるんだぜ! すげーだろう!!』
男の声が急に弾む。
『へぇ、三千万ですか。それはすごい』
クラウディオは感心したように相槌を打つ。
『だからよ、お前らを一人ずつここに呼んで殺せばミッションコンプリートだ。簡単なお仕事だろ?』
(支離滅裂だ……。アルゼリオン王国は小さな村じゃない。一人ひとり呼び出していたら何年あっても足りないし、現実的にできるはずがない。それにそんな主張はさっきまでしていなかった。完全に思考が破綻してる)
『それでは彼女を拘束している理由は?』
『僕らは愛し合っているんだ。とてもね、誰よりもね、これからもずっとね。ふふふ、ふひ、ふひひっ……いひひひっ』
男が引き攣った笑い声を上げる。少女の嗚咽がひと際大きくなった。




