99 くま太
「くま太……?」
いつの間に落ちたのだろう。普段はソファーの上に座らせている。帰宅したときには確か、いつもの場所にいたような気がするのだけれど、今日はいろいろありすぎてはっきりと思い出せない。
「……まあ、いいか」
スマホを拾おうと、もう一度腕を伸ばした直後、微かにくま太が動いた気がした。
「……え?」
伸ばしかけた手を止める。顔を上げて床に転がっているくま太を見つめる。
動いていない。頭も腕も足も、さっきと同じ位置にある。
「……気のせいよね」
自分に言い聞かせるように呟きながら視線をスマホへ戻した。
動いたように見えたのは疲れているからだ、きっと。それになんだか眼も霞んでいるし、幻視というと大げさだけど幻聴みたいなものだろう。だってさ、そもそもぬいぐるみが動くなんてそんなことあるわけがない。
そう自分に言い聞かせた私だったが、どうしても気になって前屈みになった姿勢のまま、もう一度くま太を見た。
やっぱり動かない……。だよね、ぬいぐるみだもん。
「はは……。何を考えてるんだろ、私。あるわけないじゃない」
自分で自分を笑い飛ばし、今度こそスマホを拾おうと手を伸ばした直後――。
グググ……。
「…………え?」
視界の端で何かが動いた。恐る恐る顔を向ける。くま太の上半身が、ゆっくりと持ち上がっている。
「ひっ!」
喉の奥から引きつった声が漏れる。
見間違いじゃない!?
くま太は両腕を床につき、まるで腕立て伏せをするようにして、自分の身体を起こそうとしている。柔らかな綿が詰まった胴体が不自然に強張り、短い脚が床を探るように動いた。
その姿は、初めて立ち上がろうとする生まれたばかりの動物みたいだった。何度も身体をふらつかせながら、それでも諦めずに立ち上がろうとしている。
「ちょ、ちょっと待って……」
私はベッドの上で後ずさった。背中が壁にぶつかる。
十年以上も私と一緒に時を過ごした、ただのぬいぐるみが動いている!!
「やだやだやだ……。もう無理。これ以上おかしなこと起きないでよ……」
その願いが届かなかった。くま太はついに立ち上がる。
両足を床につけたものの身体を支えきれないのか、左右にふらふらと揺れている。頭が重いのか首を傾けながら何とかバランスを取ろうとしている。そうこうしているうちによろめき、再び四つん這いになってしまった。踏ん張った四肢をぷるぷる震わせている。その姿を見ていると、なんだか応援したくなってしまう。
なんだか……、ちょっとおかしい……。が、がんばれ……。がんばれくま太。立つのよ、くま太! そう、諦めずにもう一度! いや、応援している場合じゃないし……。
再び立ち上がったくま太は、私のほうへ顔を向けた。そして、ぎこちない足取りで一歩、また一歩と歩き始める。
「えっ……」
私のいるベッドへ向かっている。
「ちょっと、待って。こっち来ないで! お願いだから、そこで止まって! いつもの場所に戻ってください! お願いします!」
くま太は私の懇願など意に介さず、よたよたと歩いてベッドの脇までやってくると、そこで足を止めた。
そして、床に落ちているスマホを見下ろしたくま太は両腕を伸ばした。短い腕では床のスマホに届かず、膝を折り曲げて正座してから手を伸ばす。その姿を見ていると恐怖よりも困惑のほうが強くなってきた。
いったい何をするつもりなの?
ようやくスマホを掴み上げたくま太。ぬいぐるみの手でどうやっているのかは分からない。けれどくま太は器用にスマホを抱えてベッドの上へ置いたと思ったら、ぬいぐるみの手で画面をスワイプしたのだ。
「…………」
私は言葉を失った。
くま太は画面を触りながら、何かを確認するようにじっと眺めている。
「えっと……、何がしたいの?」
答えの代わりに、くま太は画面を私のほうへ向けた。そこには指紋認証を求める表示が出ている。さらにくま太は画面の指紋マークを指でトントンと示した。
「……もしかして、これ?」
くま太が頷く。
「解除しろって言ってるの?」
また頷いた。
まさかと思いながら、私は恐る恐る人差し指をスマホに近づけた。指先が画面に触れた瞬間、ロックが解除される。
するとくま太は、数あるアイコンの中からSNSのアプリを開き、文字入力のバーをタップしたかと思ったらフリック入力を始めた。
私の頭は今の状況に完全についていけていない。
クマのぬいぐるみが、スマホを操作しているんですけど……。
くま太は画面に向かって一生懸命に指を動かした。
けれど、人間の指とは違う柔らかなぬいぐるみの手では、思うように操作できないらしい。狙った文字とは違うキーに触れてしまうたび、入力された文字を消して、また最初からやり直している。
その姿を見ていると、奇妙なことに少しだけ恐怖が薄れていった。
「もしかして……私に何か伝えたいの?」
怖いけど、くま太が必死になって何かを伝えようとしていることだけは分かる。私は警戒しながらも、できるだけ距離を保ったまま画面を覗き込んだ。
何度も入力を間違え、消しては打ち直す。ようやく文字が画面に並んだところで、くま太の手が止まった。
くま太が顔を上げる。黒いボタンのような瞳が、まっすぐ私を見つめていた。私は息を呑み、画面へ視線を落とす。
そこに表示されていた文字を、一文字ずつ読み上げた。
「ふ……、え、る、な、ん、ど……」
思わず首を傾げる。
「フェルナンド……?」




