98 絶望の淵で
それから私はどうやって家まで帰ったのか、ほとんど覚えていない。途中まではなっちんと一緒に歩いていたような気もするけれど、気が付いたときには自分の部屋にいた。
倒れるようにベッドにうつ伏せになって、枕に顔をうずめる。
あの後、なっちんと一緒に校庭に戻った私は自分の目を疑った。
何事もなかったかのようにスポーツ祭は行われていた。だけどそれ以上に、明らかに生徒の数が減っているのだ。クラスごとの人数が多かったり極端に少なかったり、アンバランスになっているのに、誰もそのことを気にしていない。疑問にすら感じていない。
ついさっきまで一緒にいたはずの誰かが消えているというのに、生徒たちは何も知らないまま、笑って、騒いで、いつも通りで、まるで最初から〝こう〟だったみたいに。
忘れたのではなく、消失してしまったのだ。
彼らはこの世界そのものから存在していたという事実を消されてしまった。
怪異に触れられた人間は黒い影へと変えられ、その存在を奪われてしまう。だから誰も悲しまないし、誰も探さない。私だけが、そこにいたはずの人たちを覚えている。消えてしまったことを認識できる。
どうして私だけなのだろう。最初から怪異を認識できていたことと何か関係があるのだろうか。それとも、もっと別の理由があるのか。考えているうちに、さらに恐ろしい可能性が頭をよぎった。
もしかしたら、私が気付いていないだけで、今までにも何人もの生徒が消えていくのを見過ごしていたのではないだろうか。
そう考えた途端、胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
スポーツ祭が終了し、生徒たちが帰宅した後も、私は学校の中を探し続けた。教室や図書室はもちろん、体育倉庫に校舎の裏まで、思いつく場所を片っ端から見て回ったけれど、会長も、ノエルくんも、ハヤテくんも見つからなかった。なにより、誰に聞いても彼らのことを覚えている生徒はいなかった。
このまま怪異が増え続けたらどうなるのだろう。学校にいる人が一人ずつ消えて、最後には誰もいなくなったら。あの怪異が学校の外へ出てしまったら――。
街にいる人たちまで襲われ、誰にも気付かれないまま存在を奪われていく。誰もいなくなったら世界が消えてしまうのと同じ。あの怪異を倒さなければ、三人を取り戻すことはできない。消えてしまったみんなを救うことはできない。
でも、一人じゃなにもできないよ……。
弱気になった途端、張り詰めていたものが一気に崩れてしまった。涙が滲んで視界がぼやける。途端に恐怖が押し寄せてくる。
「どうしよう……」
呟いた声が、誰もいない部屋に落ちた。
「一人になっちゃったよ……」
私の日常は崩壊してしまった。痛覚を持った孤独が徐々に末梢へと広がっていく。
「私、これからどうすればいいの……。誰か……」
声が震え、嗚咽が喉の奥から込み上げる。
「誰か、助けて……」
堪えていた涙が溢れて、枕を濡らした。
「助けてよ……」
静まり返った部屋に、私の泣き声だけが木霊す。
◇◇◇
深夜、ふと目が覚めた。
カーテンが開いたままの窓から月明かりが注ぎ、柔らかく室内を照らしている。
雲ひとつない夜空に浮かぶ満月を、ぼんやりと天井を見上げたまま、しばらく瞬きもせずにいた。目がひどく重い。まぶたを動かすたびに腫れぼったい感覚があり、熱を持っているようだった。頬には涙が乾いた跡が残っていて、枕も少し湿っている。
泣き疲れて、眠ってしまったらしい。
体は鉛のように重くて、起き上がる気力すら持てなくて、このまま何も考えずに、目を閉じて全部忘れることができるのなら、どれだけ楽だろう。
けれど、目を閉じれば浮かんでくる。
灰色に染まった校舎と蠢く黒い怪異の群れ。そして、私を逃がすために消えていった三人の姿。あれは夢なんかじゃない。悪夢のような現実だ。
思い出した途端、また涙が滲んだ。
みんなを救え――。
最後に聞いたハヤテくんの声が、はっきりと耳に残っている。
どうして私なの? 私ひとりじゃ何もできない。そんなことは彼だって分かっていたはずだ。それなのに、どうしてあんな言葉を残したのだろう。
生き残るべきだったのは、彼らのほうだった。
会長はいつも冷静で、的確に状況を判断する力があった。ノエルくんには、どんなときも迷わずに飛び込んでいける行動力と決断力がある。そしてハヤテくんには、誰もが足がすくむような状況でも臆さず立ち向かえる勇気があった。
私には何がある?
考えてみても、何も思い浮かばない。私は彼らには敵わない。戦うこともできなければ、誰かを守る力だってない。そんな私に、どうして自分たちの命運を託したのだろう。
「……分からないよ」
横向きだった体を仰向けにして天井を見上げた、そのときだった。
ごとッ。
不意に床を叩くような音がして、私はびくりと肩を震わせた。
「……なに?」
弛緩していた意識が緊張していく。上体を起こした私は、息を潜めながら部屋の中を見回す。月明かりに照らされた室内に、誰かがいる気配はない。耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは時計の針が時を刻む音くらいだ。
念のため警戒を継続していた私がベッドの脇に目を向けると、スマホが落ちている。
「あ……」
どうやらベッドの上にあったスマホが、寝返りか何かの拍子に滑り落ちたらしい。
「なんだ……。よかった……」
胸を撫で下ろした私は、ベッドから手を伸ばす。指先がスマホに届こうとしたところで、ふと、視線の端っこに見慣れたものがあることに気付いた。
床にうつ伏せになっているのは、幼い頃からずっと私のそばにいる水色の熊のぬいぐるみの、くま太だった。




