EP32 チェスハスラー
7月、桃子がポーランドに向けて飛び立つすこし前。
初夏のグダニスクの朝は、潮とパン屋の匂いが混ざる。
Wrzeszczの電車はめずらしく時間どおりに滑りこんで、停車音が校舎の窓硝子をかすかに震わせた。
蒼空が Liceum Ogólnokształcące(高校)に編入して11か月。去年の9月にKlasa 2(第2学年)へ入り、ポーランド語も日常会話はなんとか。
けれど蒼空がいちばん「ヤバイ」と感じたのは言語の習得でもチェスでもなく、エレナに課された『盤外の訓練』だった。
(近所のオジサンのCombat56特訓……何度、死ぬ目を見たことか)
教室の背後から声が降ってきた。
「Sora, jesteś z Japonii, prawda?(日本から来たんだろ?)」
振り返ると、快活な茶髪の少年がいる。Jakubだ。
「あ、うん」
「日本ってチェス盛んなの? 君、エレナさんのところなんだよね。強いんじゃない?」
「日本は将棋が主流で、チェスは……そんなに。俺もそんなに強くは」
> (言うな、とエレナ。ここでは目立つな、というエレナの指示)
ヤクブは笑って肩をすくめた。
「へぇ? ならKlub szachowy来てよ。うちのKacperとFilipに合わせたい」
(……既視感。日本でもあったな、こういうやつ)
蒼空は桃子の顔を思い出して、わずかに笑う。
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放課後のクラブ室。木の盤にラッカーの匂い。壁に貼られた戦型のポスターが角から少しめくれている。
「彼がクラブリーダーのカツペル(ELO1700)。で、あっちがフィリップ(ELO1800)。で、こっちが新入りのソラ」
「よし、お披露目に一局」
ヤクブが駒箱を開ける。
「僕は1600。君は?」
「ELOが付くほど試合してない。日本では1000だったよ」
「ふぅん。じゃあ手合わせ」
駒を並べ、クロックをスタート。
蒼空はわざと、最後に僅差で負ける。手の温度だけ測り、こちらの意図は隠す。
「いい試合だったね!」
ヤクブは満面の笑みで、すぐ先輩風を吹かせる。
「君、センスある。これから僕が教えてあげるから」
「はは、よろしく(……汗)」
壁際で腕を組んで見ていたフィリップが声をかける。
「今度いっしょに街を歩かない? Dolne Miasto地区にさ、夜になるとちょっとした盤が立つんだ」
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【Dolne Miasto】
川沿いに古い煉瓦の倉庫が並ぶグダニスクのちょっと怪しいエリア。スプレーの落書きが重ね塗りされた壁は、夕日で錆色の金を帯びる。
緯度の高さのせいか、初夏の午後8時の空はまだびっくりするほど明るい。
小さな公園に木陰。折り畳みテーブル、ぐらつく足、派手な盤面。
黒いフードの男が、煙草の灰を親指で弾いた。
「賭けチェス?」
「僕は怖いから手を出さないけど」ヤクブが小声。
「でもフィリップは強いから、たまに小遣い稼ぎしてるんだってさ」
> だがその男は、知っている者は知っている。
> ほんの数戦、わざと負けて賭け金の倍率を釣り上げ、最後に喰う――チェスハスラー。
「おや、また来たか兄ちゃん」
ハスラーは口の端だけで笑う。
「お前強いんだよな。今日も俺から金をむしるつもりだろ? いいぜ。基本掛け金は100EUR、ルールはいつもどおり。署名してからな」
ルール表は白紙にも見えるが、よく見ると小さな活字が列を成している。
“投了なし/チェックメイト必須”
“決まり手ごとの倍率:Queen×2、Rook×5、Bishop×10、Night×20、……King×20000”
そして、一番下の行に小さく“En passant mate”とその横に”Caïssa”という文字。倍率は空欄に赤で横線が引いてある。
「Blitz(早指し)だよね」フィリップは椅子を引いた。
「そうだ、ゲーム開始」ハスラーがクロックを叩く。
一局目。
フィリップは危なげなく女王で詰め、基本掛け金の2倍で200EURを受け取った。
「兄ちゃん、やるじゃねぇか。……俺、いままでトータル400EUR負けてるぜ?」ハスラーは肩を竦め、煙草に火をつけ直す。
「倍にしようぜ、基本を200EURに。流れは今、お前だろ?」
フィリップの目が光る。
「問題ない。勝ったらスマホ買う、最新のやつ」
(そこで欲を見せるか……)蒼空は胸中で拍を数えた。
二局目。
ハスラーの気配が変わった。
先に打った柔い手が石になる。パチン、パチンとチェックが刻む小気味よさは罠のリズム。
盤上は砂利道みたいに足を取られ、終盤にはフィリップの黒王ひとつ、味方はいない。
ハスラーの陣に残るのはキングとルークとポーン。
そして――昇格。男はポーンをクイーンではなくナイトへ。
アンダープロモーション。盤上で鋼鉄が屈折する音がした気がした。
「……ふふ」
ハスラーは盤面上の“詩の隙間”を撫でるように見た。
「ビショップメイトで×10。ナイトなら×20。で、キングなら――×2000だ」
蒼空(キングメイトなんて詰み方、あり得ない……これはナイトで詰ますためのブラフ)
だが当事者のフィリップの喉は詰まる(キングだと200×2000=40万EUR≒約7千万円って正気か!?)
耳鳴りがして、声が白く霧散する。目の前の盤面が遠のいた。
逃げる黒王。周りこむ白のナイト。
Nf6#――ナイトメイト。
クロックが止まる。
「キングメイトでなくて良かったな。200×20=4000EUR(約70万円)だ。さあ払え」
「そ、そんな金、持ってない……」
「ギャンブルの金は絶対だ。兄ちゃんが払えないなら、あんたの親に払ってもらう」
重油のようなねっとりとした沈黙が支配する。
突然、蒼空は場違いなほど軽く声を出した。
「すみません、ひとつ質問。このルール表の“En passant mate”の項目。脇にCaïssaって書いてあるけど、Caïssaって何?」
ハスラーの視線が舐めるように動く。
「ただじゃ教えられねぇ」
「じゃあ勝負。俺が勝ったら教えて。そしてフィリップの負けはチャラ。負けたら、俺が払う」
「……お前、度胸あるな」
男は火をもみ消し、イスを押しやる。
「基本200EURのままだぞ? 負けたら――二人分だ」
蒼空が頷くより早く、ヤクブが袖を引いた。
「4000EURなんて……無理だ。エレナさんに連絡を――」
男の眉がわずかに跳ねた。
「エレナ? ……まさか、窒息の女王のエレナか?」
蒼空は目を細める。
「俺はそのエレナの孫だよ」
空気の密度が、いっきに変わる。
ハスラーの口が、別の形に歪む。
「……孫、ね。じゃあ、話が違う。こんなチンケな勝負はしてられねぇ」
彼はタバコを靴で潰し、立ち上がった。
気が付くと時計を見ると時計は午後10時を過ぎ、辺りはようやく薄暗くなって来た。
「こんな公園じゃ、詩は指せない。――ついて来い、坊主。本物の詩が生まれる場所を見せてやる」
「ど、どこに?」ヤクブが声を裏返す。
男は振り向かずに言った。
「旧貨物倉庫No.47。表向きは物流の廃墟。俺たちは“ブラック・ビショップ・アリーナ(B.B.A.)”と呼んでいる」
フィリップは青ざめ、首を振った。
「やめろ、ソラ。噂で聞いたことがある、あそこは絶対にヤバい。ぶつかる相手が違う」
蒼空は静かに言う。
「行く。……見たいんだ。Caïssaの詩が生きてる場所を」
(つづく)




