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EP33 ブラック・ビショップ・アリーナ(B.B.A.)

時刻は午前0時13分、高緯度のグダニスクの夏の夜空はずっと夕焼けが貼りついたまま。


Motławaモトワヴァ川沿い。煉瓦の巨人みたいな倉庫群の間を抜け、No.47の扉の前に立つ。


鉄扉は錆つき、南京錠は新しい。


ハスラーが軽くノック。内側から覗き窓が開き、無言の視線。


ガチャ。


重い空気が吐き出されるように開く。


潮と煙草と鉄の匂い。


ざわめきは静かで、けれどどこか熱い。


――まるで教会で、祈りが爆発する前の一瞬。


中は半地下の空間。裸電球がぶら下がり、影が交差する。


ヤクブは蒼空の袖を掴んだまま、フィリップは足がすくみ、蒼空だけが拍で階段を降りる。


===================

【THE BISHOP’S TABLE】


奥に進むと、照明が変わった。


壁際の巨大なディスプレイに、血のような赤と金が流れる。


その中央に、黒い十字が浮かぶ。


“THE BISHOP’S TABLE”


黄金の書体が、音もなく点滅した。


テーブルの下には各メイトの基準オッズが並ぶ。

・Queen mate(クイーンでの詰み) ×2。

・Rook mate(ルークでの詰み)×5。

・Bishop mate(ビショップでの詰み) ×10。

・Knight mate(ナイトでの詰み) ×20。

・Boden’s Mate(2つのビショップでのX字詰み) ×80。

・Smothered mate(窒息詰み) ×100。

・Pawn mateダビデとゴリアテ ×1000。

・Castle Checkmate(キャッスリングによる詰み) ×95000。


そして――

・En passant mate(Legend Tier:通りすがりの詩) ×200000。


蒼空はその行で、指を止めた。


“詩”という単語が、視界の中でひときわ赤く揺れていた。


「伝説の倍率だ」


背後から、低い声。


案内役のハスラーが笑う。


「このアリーナで、その詩を決めたのは一人だけ。“女神(Caïssa)”と呼ばれた女さ。


十年以上前、最後の一手でエン・パッサンを打ち、投了を拒んで、相手の王を落とした。


以来――このアリーナでは誰も途中で降りられなくなった。」


蒼空の胸で、四拍がひとつ跳ね、沈む。


(……母さんなのか? それとも――)


「ちなみにここのルールは投了禁止だけでなく、ドローも勝敗がつく。ステイルメイトなどの場合は駒の点数の合計が多いプレイヤーの勝利になる。そしてもし駒の点数が同じ場合は不利な後手の黒の勝ちだ」


観客のざわめきが広がる。


中央のリングのような卓上には、二つの黒いチェス盤が輝いている。


蒼空の中であの声が囁く。


> Caïssa《行こう。ここには呼吸が落ちてる。詩を立てて、息を通すの》

> 蒼空《俺が指す。……見せてもらう。ここに残ってる詩の形を》


ところでと、蒼空はハスラーに尋ねる「やっぱりキングメイトは無いんだね?」


「ここには“キングメイト”なんて項目は無い。あれは路地のブラフだよ」


===================

【カイサの子(Caïssa’s Child)】


「おい、Marekマレック。ほんとにその子とやるのか?」


鉄骨がむき出しの天井から、割れた拡声器の声が降ってきた。


半地下の大空間は油と木屑の匂いが混じり、観客の吐息が白く揺れている。


マレックと呼ばれたハスラーは顎髭を指で梳き、蒼空を見た。


「そうだ。こいつ、エレナの孫だとさ。おい、小僧。名前は?」


蒼空は一拍、呼吸を整えた。四拍で吸い、四拍で吐く。


(ここで名乗るのは、もう後戻りできない合図だ)


そして、短く——。


「Caïssa’s Child(カイサの子)」


ざわめきが、倉庫の梁にぶつかって跳ね返った。笑う者、黙る者、あざける者。


マレックは肩をすくめ、鼻で笑う。


「派手な名前だな、ガキ。その名を背負う覚悟はできてんのか?」


蒼空は盤の縁に指を置いた。


木の冷たさが、鼓動といっしょに温まっていく。


「覚悟ならある。詩の続きを書けるのは俺だけだから」


拡声器がギィ、と鳴った。


> “Next Match — Marek the Hustler(MH) vs Caïssa’s Child(CC).”

> ”ELO Rate :MH 2450 — CC 1000”

> ”Aesthetic Index(AI)/詩的指数:MH 25 — CC 00”


名前とELO/AIが読み上げられた瞬間、オッズパネルの数字が滝のように更新される。


B.B.A.(Black Bishop Arena)特有のメイト別オッズが縦に並び、賭け金の流れに合わせて生き物みたいに脈打つ。


> Mate Type Odds (MH / CC)

======================

Queen Mate 1.5 / 2.5

Rook Mate 3.5 / 7.5

Bishop Mate 8.9 / 12.8

Knight Mate 18.5 / 25.3

Boden’s Mate 60.7 / 89.5

Smothered Mate 82.7 / 125.1

Pawn Mate 720 / 1330

Castle Checkmate 95000 / 95000

En Passant Mate 200000 / 200000

> ※ Rates are automatically adjusted by BBA’s Risk-Safe Expected Value Engine (RSEV-12)

> ※ If the game ends in a draw, the odds of 2.0 are applied automatically


「マレック! マレック!」コールが四方から渦を巻く。


一方、画面の片隅に“Caïssa’s Child”のタグが点滅し、カメラがそっと寄る。


麻里が残した系譜の名——詩を指す者の血。


ハスラーのマレックは白の前に座り、e4に指を浮かせた。だが、わざとらしく手を止めて、口の端を上げる。


「せっかく窒息の女王の孫が来たんだ。先手をくれてやる、お前が白だ」


蒼空は無言で頷き、e4の兵を押した。


盤上で木が鳴る。


倉庫の照明が一段落ち、Bishop’s Tableの盤面だけが金の薄灯で浮かび上がる。


——新しい詩の一行目が刻まれたみたいに。


===================

【Disgust Trap(第四のEmotional Gambits)】


白:蒼空(CC) 黒:Marek(MH)


1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4


マレックはフレンチのウィノウァー気味に刺してくる。ぶつけて、ずらして、刺す。


(固い。でも、臭い。)


鼻腔の奥に、金属と古煙草の酸が刺さった。


4. Bd3 Bxc3+ 5. bxc3 h6


(予備動作のh6。形を整え、空気穴を作ったつもり——そこだ。)


6. Ba3 Nd7 7. Qe2 dxe4 8. Bxe4 Ngf6


評価バーはまだ揺れない。だがその時蒼空の眼が深緑に光った。


9. Bd3


指が駒から離れる瞬間、胸の中で二つの声が重なった。


> 蒼空/Caïssa《Disgust Trap(嫌悪の罠)——発動。四つ目のEmotional Gambits》

> Caïssa《相手の“嫌”の感情を盤上に映して、最短の吐息で詰める》


…b6


ほんの小さな一歩。けれどその瞬間、オッズパネルの裏で評価バーが+∞に跳ね上がる。


観客のざわめきが、遅れて波になって押し寄せた。


(今だ)


10. Qxe6+ fxe6


蒼空のクイーンが消える。


観客が息を呑み、マレックの眉間がぴくりと動いた。


「な、なんだ? まだ序盤だぞ、何が起きてる?」


彼は王の周りに空気穴を作ったつもりだった。b6で。


だがそれは、両角の刃(a3のビショップとd3のビショップ)がぴったり噛み合うための、最後のクサビだった。


11. Bg6#


——静寂。


刃が交差する音のない音。


王の逃げ場は、二本の対角線で封じられていた。


d8は自陣の女王、d7はナイト、f8は斜線で焼かれ、f7は空洞——王はもう息をする場所がない


マレックの顔色から、ゆっくりと色が退く。


「……ボ、ボーデンの詰み……だと? たった11手で……!」


Boden’s mate。


二つのビショップがXの軌跡で王を切り結び、女王の死が詩の脚韻になる。


嫌悪の罠が、美に変わる。


オッズパネルの“Boden’s mate — CC 89.5×”が燃えるように点滅し、B.B.A.の群衆は最初の一瞬だけ固まって、その後爆発した。


「C・C! C・C!」


Caïssa’s Childのコールが、鉄骨の梁を震わせる。


蒼空のAesthetic Index:00 → 45(Queenの美しい犠牲とBoden’s mate補正)が更新され、そして今回の棋譜は暗号化されたPGNでB.B.A.の歴史に保存された。


<PGN>1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4 4. Bd3 Bxc3+ 5. bxc3 h6 6. Ba3 Nd7 7. Qe2 dxe4 8. Bxe4 Ngf6 9. Bd3 b6 10. Qxe6+ fxe6 11. Bg6#</PGN>


===================

【“詩”の後で】


マレックは手を盤から離せずにいた。やがて、ゆっくりと椅子に沈む。


目の奥に、遠い影を映して。


「……Caïssaについて、知りたいって言ってたな」


蒼空は頷いた。


「なんでもいい。知ってることを全部」


マレックは煙草を出しかけ、思い直して仕舞った。


「十数年前だ。ある女が、このアリーナに突然現れた。そして勝ちまくった。しかも魅せて勝つ。毎回、驚きと詩があった」


彼はBishop’s Tableの縁を、指の腹でそっと撫でる。


「このB.B.A.は、俺が入った時はただのチェス賭場だった。だがあの女が、“詩で終えた勝ち”に価値をつけろって言いやがった。メイト別オッズも、詩的指数も、全部奴が発明したようなもんだ。そして……いつの間にか皆、あの女をCaïssaと呼ぶようになった」


「顔、声、仕草——覚えてるか?」


マレックは目を細めた。


「目、だ。妙な深緑。光の加減で黒にも琥珀にも見える。今のお前みたいに……」


薄く、乾いた笑い。


「お前、本当にあのCaïssaの息子かもしれねぇな」


蒼空は笑って、短く言った。


「だから、そう言ってる」


そのとき、拡声器がまた鳴った。


「C・C、ステージ右。ファイトマネーの受け渡しだ」


紺のスーツを着たディーラーが、現金の入った封筒を差し出す。


「お前は初めてなんで100EURが原資、Boden’s mate 89.5×。合計8950EURだ。……いい夜だったな、C.C.」


蒼空は封筒をひらく。ユーロ札の匂いが、油の匂いの上にさらりと重なった。


彼はそこから2000EURを抜き、後ろにいたヤクブとフィリップに1000ずつ押しつける。


「君たちのおかげで、ここに来られた。……受け取って」


「え、こんなに!?」フィリップが目を丸くする。


ヤクブは一瞬言葉を失い、次の瞬間には両手を広げて叫んだ。


「ソラ、君はリアルに神!」


ディーラーがにやりと笑い、名刺を差し出す。


「次のマッチメイク、連絡先を。携帯番号を教えろ」


蒼空は少し困って肩をすくめた。


「俺、携帯持ってない」


「じゃあ、僕の教えるよ!今日から僕がマネージャー」ヤクブがすばやく手を挙げ、番号を読み上げる。


ディーラーは控えに書き込み、名刺をぽんとヤクブの胸ポケットに差し込んだ。


「いい目利きだ、マネージャーくん」


観客の熱気が徐々に退いていく。Bishop’s Tableの金の灯りも、静かに鎮火する。


蒼空は盤の縁にもう一度、指を置いた。冷たさと温かさの境目。


その刹那、胸の奥で声が微笑む。


> Caïssa《よく書けたわ、十一行の詩。嫌悪を美に返す、短い祈り》

> 蒼空《まだ序章だ。……続きも、ここで拾う》


背後で、マレックが一度だけ呼び止めた。


「おいガキ。Boden’s mateで勝ったからって、調子に乗るな。ここには、お前の知らねぇ“詩人”が大勢いるんだ」


「だから来る。次も、詩で答える」


蒼空は二人に目配せした。


ヤクブは親指を立て、フィリップはまだ震える指でユーロ札の束を見つめている。


錆びた鉄扉を押し開けると、夜風が白い息をほどいた。倉庫の外、モトワヴァ川の向こうに、古いクレーンの影が伸びる。


「Caïssa’s Child!」


背後から、誰かのコールが残響した。


(——母さん。俺はここで、あなたの詩の跡を拾う)


蒼空は四拍で息を整え、足を踏み出した。


通りすがりの詩は、まだ続く。

<PGN>1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4 4. Bd3 Bxc3+ 5. bxc3 h6 6. Ba3 Nd7 7. Qe2 dxe4 8. Bxe4 Ngf6 9. Bd3 b6 10. Qxe6+ fxe6 11. Bg6#</PGN>


※ 駒の動きを確認したい方は、<PGN> ~ </PGN>の部分をコピーし、

Lichessの解析ボード(https://lichess.org/analysis)のPGN入力欄に貼り付けて、Importボタンを押してみてください。

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