第55話 エマの行方(11)跡形もなく
訓練室に戻る際に、通りを一つ間違えてしまい、エマの髪飾りが落ちていた場所を通らざるを得なくなった。
黒い影のような、禍々しい魔力の痕跡は、いまだにそこに滞留していた。二日前には道いっぱいに広がっていたという記憶が、足取りをぎこちなくさせる。半分ほどに縮んだそれは、まるで何かが焼き尽くされた後に残された、冷えきった瘢痕のように見えた。
私は無意識にその残滓を避け、大きく迂回して石畳の端を踏んだ。
その不自然な動きに、並んで歩いていたハルヴィス先生はすぐに気づいた。先生は足を止め、私の横顔を覗き込むようにして眉をひそめる。
「君には、そこに何かが見えているのか?」
その鋭い眼光に、私は言葉を詰まらせた。この先生には小細工は通用しない。
「……ええと……はい」
先生は私の返事を待たずに、ゆっくりと膝を折り、私と同じ高さから残滓のほうへと目を凝らした。先生の目には映らないはずなのに、そこにある「何か」を懸命に見ようとしている。
「どのようなものだ?」
私はできるだけ平静を装って答えた。
「とても強い、魔力の痕跡があります。黒くて、禍々しくて。形はよくわかりませんが、酷く禍々しいものです」
残滓は小さくなっているはずなのに、近づくだけで胸の奥がざわつき、足がすくむような圧迫感があった。
「いつ頃からだ?」
「たぶん、火事のあった日からです」
「ふむ……、どれくらいの期間、残留するものか、わかるか?」
学者としての単なる好奇心なのか、それとも何かの仮説を導き出そうとしているのか、先生の声色からは読み取れない。
「正確にはわかりません。……ただ、倒壊した建物にも、もっと巨大な魔力の痕跡があって、さっきもまだ見えていました」
「あの建物にも? どんな魔力だ?」
「天井を突き破るくらい大きな、赤黒い炎の柱です。その魔力の近くの壁が溶けていたので……それで建物が崩れたのかなと」
「壁が、溶けていた?」
私は小さく頷いた。倉庫の外壁の一部が、まるで蝋のように真っ白に変形していた光景が脳裏に蘇る。
ハルヴィス先生は腕を組み、眉を寄せて、ぽつりとつぶやいた。
「通常の火災では、そこまでの高温に達しない。石材が煤けることはあっても、溶けて変形するほどの熱は出ない。……軍用の魔道具が使われていた可能性がある」
「はい。おそらく魔道具だと思います。人の感情のようのようなものが何もなくて、ただ膨大な魔力がそこに残っているような、そんな感じでした」
先生は顔を上げ、私に目を向けた。
「なるほど。……局所的に極端な熱を発生させる魔道具はいくつかある。物質の結合そのものを分解するような作用を持つものだ。それを使えば……文字通り、跡形も残らない」
その言葉に、背筋が凍りつくのを感じた。
訓練を終えた私は、職員寮で着替えを済ませ、レティシア校長の私邸へと向かった。
校長はまだ帰宅しておらず、私はリビングの暖炉に火を入れた。一人、冷たいソファーに腰を下ろし、ハルヴィス先生の言葉について考えていた。
――文字通り、跡形も残らない。
その表現が、胸の奥底に重く深く沈んでいく。
想像したくない結末が、どうしても頭をよぎってしまう。
私はあの火災について、ひとつ大きな疑問を抱え続けていた。
――なぜ、事務局を燃やさなければならなかったのか。
当初は、エリオット先生を陥れるためだと思っていた。それにしては手段が大掛かり過ぎるし、先生の無罪はあっさりと証明できてしまった。
次に考えたのは、エマが追っていた「不正会計疑惑」の証拠隠滅だ。確かに帳簿は焼失してしまい、証明は難しくなった。しかし、書類を処分するだけなら、火災を起こす必要はない。
エマは不正会計に気がつき、告発の準備をしていた。
失踪の前日、彼女は室長と激しく口論していた。
倉庫群で、何者かがエマを襲撃した。
おそらくその後、職員寮の彼女の部屋に何者かが侵入した。
石壁を溶かし、建物が倒壊するほどの強力な魔道具によって火災が起きた。
もし、あの火災の目的が「証拠」の隠滅ではなく、「存在」そのものの隠滅だったとしたら。つまり、エマの失踪と、あの火災が、一本の線で繋がっているのだとしたら――。
暖炉の火がパチパチと爆ぜ、壁に伸びた私の影が揺らめいた。




