第49話 エマの行方(5)闇の中、走る
冬が近づき、日の入りが目に見えて早くなった。窓の外はすでに暗くなっていた。
吐き出す息は真っ白な塊となって後ろへ流れ、頬や鼻先は刺すような寒さにピリピリと痺れていた。私は星明かりの下、ただ無我夢中で走り続けた。
あの日、私はそれに触れてしまった。
すべてを飲み込むようにどろどろとした、漆黒の魔力。そこに絡みつく、凍りつくような恐怖と絶望。そして、助けを求める、か細い声。
恐ろしかった。ただ、ひたすらに。
魔力感知に蓋をするのと同じように、私はあの時に感じた恐怖にも蓋をして、見なかったことにして逃げ出そうとしていた。
荒い呼吸と共に現場へたどり着くと、薄暗い闇の中でもそれの異様さは際立っていた。
空間そのものが濁って歪むほどの、真っ黒な魔力の澱み。それは獲物を待つ獣のように、じっとりと蠢いている。
震える手で、光砂灯を点けた。
頼りない光が、石造りの倉庫の壁をぼんやりと照らし出す。
私は目の前の凶悪な魔力残滓を刺激しないように、一歩一歩、慎重に、足元を凝視して歩いた。
その時だった。
何かに、あるいは誰かの意志に呼応するように、首から下げた魔道具が青く明滅した。
私はその場に膝をつけてかがみ込み、目を凝らした。
黒い澱みから少し離れた路肩の草陰に、場違いなほど清廉な、白い髪留めが落ちていた。
エマがいつも身につけていた、細くて、真っ白な髪留め。それは彼女が故郷ドゥバーンから持ってきた、唯一の大切な宝物だった。
私が何気なく「綺麗な髪留めだね」と言ったとき、彼女は少し恥ずかしそうに笑った。あの温かみのある、はにかんだ顔が鮮明に脳裏をよぎる。
やっぱり、そうだった。あの時、助けを求めていたのは――!
その確信が私の胸を強く締め付ける。
私はその髪留めを、そっと手に取った。
何も感じない。魔力も、感情も。ただ冷たい貝殻の感触が手に伝わるだけ。
暴れ狂う魔力の痕跡から察するに、エマは間違いなくここで一度、何者かに襲われている。
その後、彼女はどうなっただろうか。
もし私が彼女なら、助けを求めて近くの詰所に駆け込む。ここから一番近い詰所は倉庫群エリアの詰所だけど、あそこはあまりに人通りが少ない。助けを求めるなら、より人目に付きやすく、学校外への逃げ道でもある校門を目指すのが自然に思える。
私は、エマの髪留めを強く握りしめて、校門へ続く道を走り出した。
やがて、校門の守衛所から漏れる明かりが見えてきた。
いかつい体躯を揺らし、紫煙をくゆらせているのはヴァルターだ。夜に溶け込むような、近寄りがたい威圧感を放っている。その傍らで、眼鏡の縁を光らせて淡々と作業しているのは、相棒のケミルに違いない。
門番は軍の管轄であり、私たち学校職員にとって彼らは「身内」ではない。学校と外界を隔てる、冷徹で強固な壁そのものだ。
走って近づく私に気がつき、ヴァルターは紙たばこを足で踏み消した。短い黒髪の下から、鋭い眼光で私を射抜く。
「何だ? 急用か?」
「……夜分に……すみません」
荒い息のせいで、すぐに言葉がでてこない。ヴァルターは無言で私を見下ろしている。
私は、エマの髪留めを作業着のポケットの奥深くへと押し込み、呼吸を無理やり整えて顔を上げた。
「……もう、大丈夫、です」
「それで、どうした? 何かあったか?」
身内ではない門番たちから不審に思われないように、情報を引き出さなければならない。
私は嘘が得意ではない。できるだけ嘘にならないように、慎重に言葉を選ぶ。
「行方不明になっているエマについて、急ぎの確認がありまして」
「学校側を通して話を持って来い。職員が直接我々に問い合わせるのは規則違反だ」
にべもなく、吐き捨てるような答えが返ってきた。
予想通りではあったけれど、ここで諦めるわけにはいかない。何としてもエマに繋がる手掛かりがほしい。
「行方不明になっている、エマさんのことですか?」
音もなく移動してきたケミルが、私の顔を覗き込んだ。眼鏡の奥の目は、眠たげに半分閉じられている。軍人というより研究者のような風貌だが、その視線は私のわずかな動揺さえ見透かすような、妙な鋭さがあった。
「そうです。彼女が最後にここを通ったときに、何か変わった様子はなかったですか?」
「どういうことだ?」
睨めつけるようにヴァルターが私を見下ろす。
「彼女が学校を出る前に、何か事件に巻き込まれていたという情報があって。それを今、確認中なのですけど」
ヴァルターは、私の言葉を鼻で笑った。
「あいにくだが、覚えてないな。……おい、ケミル。お前も何かわかるか?」
「……いや。そもそも、エマが最後に外出したのは、この時間ではないですね」
ケミルは前髪を指で払いながら、こともなげに答える。
「あん? 何を言ってる。あいつが外出するのは、いつも休校日前の夜だろうが」
ヴァルターが不機嫌そうに太い腕を組む。ケミルは軽く肩をすくめ、守衛所の外に置かれた簡素な机に、重厚な紙束を運んできた。
どしん、と鈍い音がして、机が大きく揺れる。ケミルは細い指で、その紙束を流れるように捲りはじめた。
「……やっぱり、エマの外出票は、受領してません」
ケミルの淡々とした声が響く。
「ああ? だったら、他のやつのときだろう」
「いえ、前日の分も、その前日にもありません」
「そんなわけがあるか!」
ヴァルターが怒鳴るように足音を立てて机へと歩み寄り、太い指で紙束を捲りはじめた。ケミルは私の様子を横目でちらりとみたが、特に何を言うでもなく、気だるげに視線を外した。
沈黙が流れる。
吹き抜ける夜風が、私の頬や指先を凍らせていく。
「……ない。どこにも、ないな」
ヴァルターの声から苛立ちが消え、困惑気味につぶやいた。
「でしょう?」
二人は顔を見合わせ、小声で言葉を交わした。やがてケミルが短く頷くと、彼は軍の駐留所がある方向へと足早に消えていった。
「おい、リアラ」
ヴァルターが、見たこともないほど険しい表情で私を呼んだ。
「いいか。ここに外出票が届いていないということは、エマは一度も、この門を跨いでいないってことだ。このことを、今すぐ学務に伝えてこい」
戦慄が走った。
魔法学校は壁で囲まれていて、外への抜け道はない。校内から外へ出るには、表側の校門を通るか、山に抜ける裏門しかない。裏門も軍によって固められていて、貯水槽の整備といった特別な業務の場合のみ通行が許可される。山には危険な野生動物が出没することや、道を間違えれば急峻な斜面に滑落して無事には済まないことから、軍または担当の警備員が随行することになっていて、裏門から職員が外へ出て行方不明になっていたら、もっと別の騒ぎになっている。
つまり、校門を通っていないということは、エマが今も広大な校内のどこかにいることを意味していた。
背後から「軍の捜索も、ぜんぶやり直しだな」というヴァルターの重苦しいため息が聞こえた。




