第46話 エマの行方(3)明白な危険
作業の開始が遅れたことで、エマの部屋の清掃だけで一日が終わってしまった。
用務員の待機所に戻る途中、校長の私邸のドアの取っ手に、青いリボンが結ばれているのが見えた。レティシア校長が私を夕食に招くときの合図だった。この合図は私と校長しか知らない。
業務終了後、私は校長の私邸に向かい、レティシア校長と夕食をともにした。
エマの部屋で見つけたあの報告書が胸の奥で鉛のように沈み込んでいる。向かいに座るレティシア校長は、いつものように穏やかな所作で食事を進めていた。その静けさがかえって私の焦燥感を煽った。
夕食後、促されるままリビングのソファーへと移動した。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが部屋に響いている。並んで座ると、校長が静かに口を開いた。
「エマさんの部屋の片付けは大変でしたね。部屋に侵入の形跡があったとの報告を受けましたが、その後は問題ありませんでしたか?」
「はい。警備のガルドさんが非番なのに駆けつけてくれて、助かりました。それで、あの報告書ですが……」
私が経緯を話そうとしたとき、レティシア校長は私に身体を向け、姿勢を正した。
「リアラさん、手を出してください」
戸惑いながら右手を差し出すと、校長は左手をそこに重ねた。驚くほど冷たい、凍てつくような指先だった。
思わず顔を上げると、校長は真剣な眼差しで私の目を見据えていた。
「……報告書の中は読みましたか?」
「いえ、表紙を見ただけです」
「……そうでしたか」
校長は小さく息を吐き、視線をソファーの前にある暖炉へと戻した。
赤々と揺れる火が、彼女の横顔を照らし出している。
私はどこから話を切り出せばいいのか分からず、何度も口を開いては、校長の横顔を見るたびに言葉を飲み込んだ。
重い沈黙の中、レティシア校長がぽつりぽつりと、言葉を紡ぎ始めた。
「エマさんは、不正会計に気がつき、それを報告書に記していました。その後、理由は不明ですが、外出したまま戻っていません。そして、彼女の部屋は何者かに荒らされていました。……これらは、決して偶然とは思えません」
私は深く頷いた。
レティシア校長は再び私に向き直ると、私の手を握る力をわずかに強めた。
「リアラさんもご存知の通り、学校では国家機密を扱います。警備体制は非常に厳重です。ところが、エマさんの部屋へ何者かの侵入を許してしまいました。これは、これまでにあなたが関わってきた盗難事件や火災とは比べものにならないほど、危険な出来事です」
校長の瞳が、かすかに揺れている。
「リアラさん。この件については、どうか、手を引いてください」
「……はい」
その言葉が、自分の本心から出たものなのかは分からない。けれど、私がこれ以上、踏み込むことの危うさを本能的に理解したのだと思う。
正義感や好奇心で触れていい問題ではない。一歩間違えば、命の危険さえある。
私の返答を聞いた瞬間、レティシア校長の方からわずかに力が抜けた。繋がれた指先から、張り詰めていた糸が解けるような、微かな安堵が伝わってくる。私の手をそっと包み込み、何度も小さく頷いていた。
私は、祈るように言葉を漏らした。
「……エマは無事でしょうか」
「残念ながら、わかりません。学校職員が行方をくらますと、軍が捜索に当たりますが、いまだに有力な手がかりは見つかっていません。……すでに近くにはいない、と思います」
校長は、言葉を選びながら慎重に答えた。
暖炉の中で薪が崩れ、火の粉が舞い上がった。
校長の冷たい手は、いつまでも私の温もりを確かめるように、離れることはなかった。




