第43話 訓練(9)民話の本
その日の夕方、自己魔力定常化の訓練があった。
訓練室に入ると、いつものように魔道具が机の上に置かれ、窓の外は夕焼けで赤くなっていた。
前回の訓練から少し日が空いてしまったせいで、上手にできるか不安だった。けれど、魔道具から鳴る音は思ったより安定していた。
それでも時折、部屋の中を漂う魔力の揺れを感知してしまって音が乱れてしまう。
「どのような魔力に反応した?」
「どれくらい前の魔力かわかるか?」
失敗するたび、ハルヴィス先生が矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。その目はきらきらとしていて、まるで珍しい生き物でも見つけた子供のようだ。
私を利用しようという悪意はなく、純粋な好奇心だということはわかっている。でも、正直ちょっと怖い。
それでも訓練を続けているうちに、外からの魔力に干渉されても、魔道具の音が乱れにくくなってきた。自分でも着実に成長しているのが実感できる。
「練習用の魔道具を入手したら、外部からの干渉に慣れるまで練習を継続したほうがいい。まだ少し不安定だ」
「はい、そうします」
「次からは『魔力中和』に移ることにしよう。……さて、これが約束の本だ」
ハルヴィス先生は鞄の中から古ぼけた本を取り出し、テーブルに置いた。
表紙には、どこか牧歌的な風景画が彫り込まれている。民話の本にしては装飾が凝っていて、思わず見惚れてしまう。その風景画の上には、見たことのない文字で題名が記されていた。
「僕も、妻もこの本を読めなくて、何が書かれているかわからないんだ。君は読めるか?」
「いえ、見たことない文字です。メディリェナの言葉ですか?」
「おそらくは。僕には、さっぱりわからない」
ハルヴィス先生は肩をすくめ、あっけらかんと言い放った。悪気はまったくなさそうだ。
「中を見てもいいですか?」
「もちろん。君に譲るために持ってきたのだから、自由にしてくれ」
頁を捲ってみても、見たことのない文字が延々と並んでいるだけだった。黒インクはところどころ掠れ、紙は少し黄ばんでいて、長い年月を感じさせた。
図書室の司書さんなら読めるだろうか。
「ありがとうございます。どうにかして読めるようにがんばります」
「何が書かれているかわかったら、僕にも教えてほしい」
「はい。そのときは必ず」
私の答えに、ハルヴィス先生は満足そうに目を細めた。研究者としての興味だろうか。それとも、亡き妻との記憶を思い出しているのだろうか。
訓練の後、図書室に向かった。
すでに外はすっかり暗くなっていて、閉館時間が近づいている。図書館の中は静かで、窓の向こうには深い闇が広がっていた。
まるで物語に登場する魔女のような司書――セラフィナは、いつものように、カウンターの奥で分厚い本に没頭していた。黒いローブの袖口から透き通るような白い指がのぞき、頁を捲るたびに、かさりと乾いた紙の音が聞こえる。
セラフィナに名前を尋ねたときは「私の名前を知ってどうする?」と怪訝な顔で質問を返されて困った。職員の名前を覚えるよう叱られたと正直に伝えると、「私は名乗ったことがない。ほとんど誰も知らないと思うが……まあいい。セラフィナだ」と教えてくれた。
やはりどこか浮き世離れした、謎めいた空気を纏っている人だ。
「例の本は読み終わったか?」
顔を上げることなく、淡々とした声が飛んできた。
例の本とは、フェリックス先生から譲られたあの「禁止図書」のことだ。
「もう少しで読み終わりそうです」
「そうか。読み終わったら、貸してくれ」
セラフィナは短く言い捨てると、また視線を手元の本に戻してしまった。まだ話は終わっていないのに。
私は慌てて鞄からメディリェナの民話を取り出し、そっとカウンターに置いた。
「……また興味深いものを手に入れたようだな。まったく君は退屈しない」
セラフィナは本を取り上げると、パラパラと指で捲った。
「これは……古代ルクトゥスか? ……いや、違う。この本は何だ?」
「メディリェナの民話だそうです」
その瞬間、セラフィナの目が見開かれた。現実離れした大きな瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「そうか、メディリェナか! ……君の故郷か?」
「私がメディリェナの生まれだということは、最近になって知ったばかりです。この本はハルヴィス先生の奥様が持っていたもので、彼女も同じ故郷だったみたいです」
「なるほど。……そうだな、カトリーナという言語学の教師を訪ねてみるといい。最近は見かけないから、どこかへ出かけているかもしれないが」
「ありがとうございます」
礼を言っても、セラフィナは特に反応を示さなかった。そのまま、まるで私が最初からそこに存在しなかったかのように、静かに手元の本へと意識を戻してしまった。
図書室の空気が、また静寂に沈んでいった。




