第38話 鐘の音(3)安心と勇気
リビングに通され、私はひとり、夕食を待つことになった。
ここで過ごす時間が増えてきて、私の居場所はだんだんと決まってきた。レティシア校長お気に入りの安楽椅子のすぐ側にある小さな椅子か、あるいは暖炉の向かいにあるソファーの左側。本棚にある本は、いつでも私が読んでいいと言われている。でも今はそんな気分にはなれなかった。
美味しそうな香りが漂ってきて、急に空腹を覚えた。心配や不安でいっぱいなのに、不思議なことに温かい食事の匂いがするだけで心が落ち着いてくる。
私を呼ぶ声がしてダイニングへ向かうと、そこにはすでに食器が並べられていた。あの盗難事件のときには来客用だったものが、いつの間にか、私のために用意された専用の食器になっている。
私が「安心できる場所」は、ここなのかも知れない。
そう思うたびに、甘えてはいけないという考えが頭をもたげる。
新鮮なサラダが皿に盛られ、カップからは温かいスープが湯気を立てている。レティシア校長が、香ばしく焼き上げられた魚料理の皿を私の前に置いた。
スープをひと口すすると、じんわりと温かさが体中に染みていく。緊張で固まっていた肩から、ようやく力が抜けた気がした。
「今日はリヒャルトさんのところへ行ってきました」
レティシア校長が魚料理に軽くレモンを絞りながら言った。穏やかな声なのに、その奥には拭いきれない沈んだ影が潜んでいる。
「どうでしたか」
「ええ、相変わらず、何も話してくれません。こちらがどれほど問いかけても、同じ言葉を繰り返すばかりで……」
レティシア校長が小さくため息をついた。その表情に浮かんでいるのは、落胆やいらだちではなく、ただひたむきな心配の色だった。
「リヒャルトは……きっと守ろうとしているんだと思います。エリス先生のことを」
「……そうかも知れません」
レティシア校長の瞳に微かな光が戻った。
遠くの暖炉からパチパチと薪が爆ぜる音が聞こえてくる。
「あなたは、人の心をよく見ていますね」
柔らかく微笑みながらそんなことを言われて、私は顔が熱くなった。
返す言葉が見つからないまま食事を続けていると、レティシア校長が話題を変えるように続けた。
「それから、アクセサリーの制作についてですが――」
私の耳が、ぴくりと動く。装飾品には興味がないと思っていたのに、どういうわけか楽しみで仕方がなかった。シオリの書いてくれた絵を部屋の壁に貼って、夜な夜な眺めてしまうくらいには。
「――蒼晶が届くまで、もう少し時間がかかるそうです。通常はペースト状にして使いますが、私の判断で、今回は一塊の原石を使うことにしました」
よくわからないけれど、それって、とても高価なものなのでは。
「仕事中に身につけて持ち歩きますけど……その、大丈夫ですか?」
用務員の仕事は動き回るし、不注意で傷をつけてしまうかもしれない。何より高価なものを持ち歩くのが怖い。うまく言葉にできなくて、口ごもってしまった。
「あなたには蒼晶の原石が、ことのほかよく映えると思います。身につけた姿を思い描くだけで……今からもう、待ちきれません」
レティシア校長は少女のような、幸せそうな微笑みを浮かべている。
似合うかどうかという話をしたかったわけじゃなくて、持ち歩くのが怖いと伝えたかったのに。言葉って難しい。
食器を片付け終えると、レティシア校長は静かに椅子に戻り、私の方を向き直った。その表情は、先ほどまでの柔らかさとは違う。校長としての、厳しさと温かさのある眼差しだ。
「さて、リアラさん。魔道具をどこで見つけたのか、詳しくお話を伺いましょう」
その凛とした声に背筋が伸びる。私は深く息を吸い、慎重に言葉を選んだ。
「火事の現場です。建物の隅の方に、大きな魔力の痕跡がありました。火の柱を出すような魔道具だと思います。その足元に、それが落ちていました。見たことがある特徴的な魔力の魔道具だったので、何か関係があるのかなと思って」
「火の柱が魔道具によるものだと、どうしてそう思ったのかしら?」
「まったく感情がありませんでした」
レティシア校長の眉がわずかに動く。
「説明が難しいです。もし人が魔法を使ったのなら、感情を抑えたとしても、『我慢する』とか『押し殺す』といったような感情があります。でも、あの火の柱には、まるで感情がなくて。……例えば、嵐とか洪水って、誰かの感情が引き起こしたわけじゃなくて、自然の大きな力が働いた結果じゃないですか。そんな感じです」
「火の柱を出すような魔道具……いくつか心当たりがあります。そして、そこに時限式の魔道具があったのね?」
「はい」
私の返事を聞くより早く、レティシア校長は目元に手を当て、深く考え込んだ。
「リアラさん」
「はい」
「私は、あなたを危険に巻き込むつもりはありません。この火事には不審な点がいくつもあります。おそらく政治的な思惑も絡んでいるでしょう。それでも……あなたは調査を続けたいですか?」
胸が強く脈打つ。
面倒なことに関わりたくない。ただ静かに暮らしたい。これまでなら、迷うことなくそう思っていた。
けれど――。
「ひとつ訊いてもいいですか?」
「ええ、何でしょう」
「エリオット先生が捕まったという話、本当ですか? 私は先生に助けられたことがあります。悪いことをする人とは思えないです」
レティシア校長は短く目を閉じ、静かに頷いた。
「……彼は監守所に連行されました。事実です。このことは他言しないでください。あなたが決して口外しないことは、わかっていますが」
「大丈夫です。誰にも言いません」
言葉が、自然と口から溢れ出した。胸の奥に熱いものを感じる。
「もし、エリオット先生が困っていて、私に何かできることがあるのなら、私は、調査を続けたいです」
レティシア校長はしばらく私を見つめていた。その瞳が揺れている。
「……わかりました。あなたの覚悟、確かに受け取りました」
その声は、静かで、重くて、優しかった。




