第37話 鐘の音(2)灰の中に
翌朝、火事についての全体連絡があり、私たちは現場の片付けを命じられた。
作業にあたる職員たちの間では、エリオット先生が街の監守所へ連行されたという噂がまことしやかに囁かれている。本当だろうか。その真偽はわからない。
焼けた建物の前には、かろうじて焼け残った荷物が運び出され、地面に乱雑に積み上げられていた。見覚えのある事務職員が、煤に汚れながら息を切らして荷物の仕分けに追われている。
私は口と鼻を布で覆い、建物の中へと足を踏み入れた。それなのに、鼻を刺すような酷い焦げ臭さが押し寄せてくる。壁一面にこびりついた黒い炭、半ば崩れ落ちた天井。床には焼け落ちた木片や、形を失った金属片が散乱していた。
火元となったのは、古代魔術文献考究会の事務局だった。
その一角だけが、徹底的に焼き尽くされている。天井を支えていた梁はことごとく崩れ落ち、無防備に剥き出しとなった屋根からは空が覗いていた。炭さえ付着しないほどに白く焼けただれ、崩れかかった石壁が猛烈な炎の勢いを物語っていた。
その場所に近づいたとき、不意に強い魔力残滓を感じて足が止まった。奥へ進むほど、魔力の気配がどんどん濃くなる。魔力感知の蓋を叩きつけてくるけれど、それはまだ突き抜けてこない。
私は近くにあった焼けた残骸を一度外へ運び出し、再び現場に戻る直前、誰も見ていないことを確認して蓋を外した。
視界の端、建物の隅のほうに、まるで業火の柱のような赤黒い魔力が渦を巻いている。
その圧倒的な存在感に、思わず声が漏れそうになった。
恐る恐る、一歩ずつ近づいてみる。
強い魔力でくらくらする。魔力の残滓に熱はないはずなのに、触れたら私まで燃えてしまいそうな気がしてしまう。
ところが、不思議なことに、どれだけ近づいても不快感はなかった。
これまで見てきた魔力には、何らかの感情が少なからず混じっていた。その一方、この赤黒い柱には何ひとつ感情がない。ただただ膨大な魔力だけがそこにある。
――魔道具?
そうとしか思えなかった。根拠はない。でも、こんなのは魔道具くらいしか思いつかない。
でももし魔道具だとしても、使用者の感情さえも欠落することなんてあるのだろうか。これまで蓋をして生きてきた私には、いったいどういうことなのか想像もつかない。
ついさっきまで触ると燃えそうなくらい熱いと思っていたのに、それに感情がないと分かった途端に、何の温度もないように思えてきた。魔力の大きさは確かに強烈だけど、まるで描かれた絵のように、まったく脅威を感じない。
その柱のような魔力の足元に、別の、見覚えのある魔力の痕跡が残っていた。
規則正しく膨らんでは消える、透明な泡のような魔力。
引き寄せられるようにそこに近づくと、煤にまみれた小さな金属片が転がっていた。元は箱状になっていたように見えるが、上半分が溶けて固まっていて、原型をとどめていない。その表面には何かが極限まで燃え尽き、薄い層を形作っていた。煤と灰が高温に耐えかねて変質したかのような、玻璃に似た濁った結晶。
私が指先を伸ばし、その金属片を拾い上げようとした瞬間、小さく「パキッ」と何かが砕けるような乾いた音が響いた。表面を覆っていた結晶が脆くも崩れ、微かな光の破片を散らして崩れ落ちる。
周囲の気配をうかがい、誰にも見られていないことを確認しながら、私はそれをそっとポケットに滑り込ませた。
「リアラ! こっちが先!」
突然背後から同僚に呼びかけられ、息が止まりそうになった。振り向くと、彼女は淡々と荷物を運んでいる。どうやら私の不審な動きには気づいていないようだった。私は大きく息を吐き出し、平静を装って作業に戻った。
椅子やカーペット、かつては本棚だったと思われる残骸を運び出すだけで、昼が過ぎてしまった。
私は、午後から通常業務に戻ることになった。火災現場の掃除以外にも、やらなければならない仕事は山ほどある。
口の中が苦い。私は職員寮の水場で、何度も口を濯いだ。
ポケットから金属片を取り出してみる。裏側には記号のような装飾がある。フェリックス先生の部屋で見かけたあの魔道具と同じ、透明な泡の残滓が明滅している。
これが何に使われるものなのか、私にはわからない。もう動いている様子はないし、再び火を噴くとは思えないけれど、部屋に置いておくのは危ない気がする。どこか外の安全な場所に隠しておこう。
午前中の作業で、作業服が煤だらけになってしまった。どれだけ丁寧に洗っても、布に染み付いた黒い汚れが落ちない。絞った水が透明になるまで繰り返しても、小汚くみえてしまう。古くなった作業服を着ていって正解だった。
◆
その日の業務が終わると、花壇の裏の岩場に隠しておいた魔道具を回収し、フェリックス先生の研究室へ向かった。
ところが、第五研究棟の警備員は、来客予定に名前がない私を頑なに通してはくれなかった。
警備員の鋭い視線が痛い。それに、今日の研究がいつ終わるのかも見当がつかない。
フェリックス先生が出てくるまで待つのはやめて、レティシア校長に相談することにした。
校内で拾ったと言えば、大きな問題にはならない……と思う。私は嘘が下手だからバレそうだけど。
そんな不安を抱えながら、私は校長の私邸のドアをノックした。
「どなたかしら?」
ゆっくりと扉が開く。私が立っているのを見ると、嬉しそうな笑顔になった。
「まあ、リアラさん。どうしたの?」
「……相談したいことがありまして」
「ちょうどよいところに来ました。これから夕食の支度を始めるところでした。さあ、中へお入りなさい」
言われて初めて、もうそんな時間なのだと気づいた。魔道具のことで頭がいっぱいになって、時間の感覚が麻痺していた。
鼻歌交じりにキッチンへと向おうとするレティシア校長を、私は慌てて呼び止めた。
「すみません! 先に、これを……」
私はポケットから金属片を取り出し、包んでいた布をそっと広げた。微かに、焦げた臭いが立ち昇った。
「それは……何かしら」
「たぶん魔道具だと思います」
「お渡しいただけるかしら」
布が落ちないように、そっと手渡す。
レティシア校長は布が落ちないよう、慎重にそれを受け取った。彼女は指先でつまみ上げ、その裏側を凝視すると、即座に答えた。
「これは……時限式の魔道具ね。今はもう機能していませんし、危険性はありません。ご安心なさい。……ところで、これはどこで見つけたのかしら?」
その時、私は自分の失敗に気づいた。
布を開いた瞬間、部屋の中に強烈な焦げ臭さが広がった。一日中、火災現場にいたせいで鼻が慣れてしまっていたけれど、これを「校内で偶然拾った」と言い張るのは無理がある。
「少し、話が長くなるのですけど……話を聞いてもらえますか?」
「ええ、そうですね。夕食の後にしましょう。これはお預りします」
レティシア校長は穏やかな声でそう言った。
……叱られる覚悟はしておこう。




