第36話 鐘の音
目が覚めたら正午を過ぎていた。水差しからコップに水を注いで飲み干した。はっきりとしない頭のまま洗面所で顔を洗った。
部屋に戻って、朝食の残りのパンを一口かじる。すっかり乾燥して硬くなったパンは、水気のなくなった葉野菜の苦みをいっそう強く感じさせた。
ぼんやりと窓の外を眺めながら、ゆっくりとパンを咀嚼していると、どこからか大きな声が聞こえてきた。何事かと思って目を凝らしてみたけれど、、ここからでは建物の影になっていて様子がわからない。
カン!カン!カン!カン!カン!カン!カン!カン!
鐘の音が激しく鳴り響いた。鐘楼からの緊急合図だ。訓練や演習ではない、ただ事ではない響きに心臓の鼓動が早くなる。
私は急いで作業服に着替え、部屋を飛び出した。寮の廊下では職員たちが「何かあったの?」と呑気に話し合っている。こういう非常時には、用務員は現場に駆けつけなければならない。
寮の外へ出た瞬間に、焦げた臭いが鼻についた。
火事だ。
鐘の音がうるさい。臭いの強さからして、そう遠くないはずだ。
視線を走らせると、倉庫群の方向に黒い煙が立ち昇っているのが見えた。
煙の方向へ走っているうちに、周囲に人が増えてきた。燃えている倉庫の近くでは、大勢の学生たちが群がって道を塞いでいる。
「通して!」
私が声を出すと、野次馬の学生たちは驚いた顔で振り向き、波が引くように道をあけてくれた。
倉庫の前では警備員たちが、学生が近づかないように手を広げて制止している。その中に、顔を知っている警備員を見つけた。いつも寝癖がついている赤茶けた髪。ロレンゾほどではないにしても体格が良く、遠くからでもよく目立つ。
「何かできることは?」
「いや、特にないな。これから消火がはじまるが、この調子じゃ、きっと全焼だな」
火事が発生した際には校内の自治消防隊が消火活動に当たることになっている。職員や学生で編成されていて練度は低い。近くのため池から水を運んできて、足踏み式の消火ポンプで水をかけるだけ。ボヤならともかく、これだけの火を消し止める力はない。
幸い、石造りの倉庫であり、隣の建物とも距離があるため、延焼の心配はなさそうだ。けれど、建物から漏れ出す煙の量は、中が激しく燃えていることを物語っている。
この倉庫は確か、古代魔術文献考究会の事務局がおかれている建物だ。私は一度も立ち入ったことがない。灰色の石を積み上げただけの無骨な外観で、小さな窓には鉄格子がはめられている。古びた赤茶色のタイル屋根はところどころ欠けていて、装飾らしいものはない。倉庫というよりは、要塞のような印象を受ける場所だった。
倉庫の出入口が開かれ、中から人が出てきた。
黒い短髪の警備員が、一人の男性の腕を強引に掴んで引きずっている。その男性は取り乱した様子で、しきりに何かを叫んでいる。
その光景をみて、隣の警備員がつぶやいた。
「……ありゃ、何だ」
「エリオット先生?」
あの顔は間違いない。
エリオット先生は、激しくむせかえりながら、何かを必死に訴えていたが、鐘の音にかき消されてうまく聞き取れなかった。そのまま警備員に引きずられるようにして、共通棟の方面へと連れられてしまった。
「リアラ、もう戻っていいぞ」
警備員が私に声をかけてきた。
「こりゃあ、後片付けが大変そうだな。明日に備えてゆっくり休んでおけ。おつかれさん」
そうだった。火が消えた後、焼け焦げた残骸を運び出し、掃除するのは私たち用務員の仕事だ。それを考えるだけで、どっと疲れが押し寄せてくる。
「警備、がんばって。おつかれさま」
警備員は気だるげに、「おう」だか「ああ」だか、よくわからない返事をした。
寮の方向は、野次馬たちが道を塞いでいる。私はそれを避けるように、共通棟の方向へと歩き出した。
どうしてエリオット先生があんなところにいたのだろう。
エリオット先生は当初「古代魔術文献考究会」に参加していたけれど、教典原理主義者の先生方と一緒に考究会を離れて「教典派」を立ち上げた。政治的な活動を強める「教会派」のバルタザール先生たちとは距離をおき、中立を保つことで校内のバランスをとろうとしていたはずだ。
あの盗難事件の時、バルタザール先生がフェリックス先生を追放しようと画策して失敗したときも、あるエリオット先生が会議で激昂したと伝え聞いている。
だからといって、エリオット先生が事務局で火事を起こすなんてことがあるだろうか。私にはどうしてもそう思えない。
釈然としない思いを抱えたまま、私は倉庫群エリアを歩いていた。
高くそびえる石壁に日光が反射して眩しい。火災の喧噪が遠ざかり始めた頃、唐突にそれが襲ってきた。
ガツンと頭を鈍器で殴られたような衝撃。
無意識に閉じているはずの魔法感知の「蓋」が粉々に粉砕される。
突き破って溢れ出してきたのは、この世のすべての色が混ざり合ったような、真っ黒な魔力の濁流だった。
恐怖、そして絶望。
誰かの負の感情が、針のように全身の毛穴を突き刺してくる。肺の空気をすべて吐き出させられるような圧迫感に、ぐにゃりと視界が歪んだ。平衡感覚はまたたく間に奪われ、地面が荒れ狂う波のようにうねっている。
立っていられず膝をつきそうになったその刹那。
「……たすけ……て……」
細い悲鳴が聞こえた。
私は弾かれたように顔を上げ、死にものぐるいで足を踏み出す。泥沼から這い上がるようにして、私はその強大な魔力残滓の及ぶ範囲から、文字通り転がり出るようにして脱した。
――今の声は?
荒い呼吸を整えながら、私は周囲を見渡した。
けれど、そこには相変わらず光の反射する石壁と、誰もいない路地があるだけだった。生き物の気配もない。
今しがたまで私が囚われていた空間だけは、空気が歪み、どす黒い魔力の澱みが禍々しく蠢いていた。
私は恐怖に追い立てられるように走り出した。一心不乱に寮へと戻り、鍵をかける。着替える気力もなく、逃げ込むように椅子の背に身を預けた。
あの時、確かに声が聞こえた。魔力残滓に包まれた時の雑音に紛れて、酷く不明瞭だったけれど、間違いなく私に声が届いていた。
あれは恐怖心に当てられた幻聴だったのだろうか。いや、そうではない。あの切実な訴えは、まるでそこに誰かが立ち尽くしているかのような、恐ろしいほどの密度を持っていた。
感情の機微を読み取ることはあっても、言葉を、それも「声」として受け取ることなんて、今まで一度もなかった。
震える指先を自分の腕に食い込ませながら、私は耳の奥に残るあの悲痛な残響に怯えていた。




