第31話 訓練(3)記憶の残り香
翌日も、第一研究棟の「幽霊部屋」での訓練となった。外は晴天で窓から陽の光が差しているというのに、室内には霞のような魔力が澱み、視界を遮っている。
「今日もこの部屋ですか」
思わず声が漏れた。前回は上手に魔力を扱うことができたけれど、できれば無闇にこの部屋の事故の痕跡には近づきたくない。
ハルヴィス先生は、机にいつもの小箱を置くと、私と視線を合わせて真顔になった。
「君には……《《幽霊が見えている》》のか?」
突然の問いに、私は硬直した。蛇に睨まれた蛙のように、指一つ動かせない。
遣りすごそう。昨日のように。きっとなんとかなる。
そう思って言葉を探しているうちに、ハルヴィス先生は逃げ道を塞ぐように畳みかけてきた。
「君は間違いなく、あの一角を凝視していた。昨日、事故の記録を調べ直した。事故があったのは、あの場所だ。教えてくれ。君には幽霊が見えるのか?」
私は視線を落とした。これは言い逃れができそうにない。どうしたらいい?
私には幽霊は見えない。けれど、魔力残滓なら見える。この秘密を、魔法事象の研究者に知られたら、私はどうなるのだろう。
「……答えない、か」
ハルヴィス先生の声が少しだけ和らいだ。
「君が隠したいというのなら、僕は誰にも話さない。約束しよう。《《絶対に》》だ。僕がこの手の約束を違えることはない。だから、もし……もし本当に幽霊が見えるのなら、手を貸してほしい。一度だけでいい。頼む」
顔を上げると、見たことがないくらいに必死で、真剣な眼差しがあった。言葉の端々も感情的になっている。研究者の「絶対に」という言葉が、とても重いことを私は知っている。
「……どうして、先生は、そんなことを聞くのですか?」
絞り出した声は、かすかに震えた。そう言うのが精一杯だった。
ハルヴィス先生はきっと悪い人じゃない。でも「一度だけ」という甘い約束は、往々にして破られてしまう。やすやすと信じてはいけない。幽霊が見えることにして、この場を切り抜けてしまう手段だってある。思いつきだけど。
「……そうか。そうだな。僕の事情を先に話そう」
ハルヴィス先生は表情を緩めた。時折垣間見える、この優しげな表情は、不思議と安心感がある。
「僕には妻がいた。この学校に来る前からの付き合いで、教職に就いたの同時に籍を入れた。だが、その時にはすでに彼女の病が進んでいた。約二十年前に、彼女は他界した」
「……」
「僕は研究者だ。何事も理屈で割り切ってきた。それでも、妻の死だけは納得がいかなかった。幽霊に関するものなら、出鱈目な研究論文でも目を通した。引用文献を辿り、給料のほとんどは実験に費やした。だが、どれだけ時間を費やしても『幽霊はいない』という残酷な結論は覆えることがなかった」
ハルヴィス先生は、だんだんと早口になっていった。ところどころ言葉をつまらせるその顔は、ひどく苦しそうだった。
「だから、もし君が幽霊を見ることができるのなら……妻の幽霊がいるかどうかだけでも、教えてはくれないか」
これほどまでに真剣な人に、嘘を突き通すことなんて、私にはできない。
「先生……私には、幽霊は見えません。誰かが魔力を使ったら、その痕跡が色として見えたり、その時の気持ちが伝わってきたりするだけです。私に見えるのは、幽霊ではなくて、魔力の残滓です」
ハルヴィス先生は、弾かれたように目を見開いた。やがて深い溜息をついて目を閉じ、指先でこめかみを強く押さえた。
「そうか……。君の能力は興味深いが、秘密にしておきたいのだろう。校長が君を特別に推薦した意味も、ようやく合点がいった」
「これはレティシア校長以外、誰も知らないです。秘密にしておいてください」
「僕は約束を守る。秘密にしたい理由も、なんとなくだが、想像がつく。それに、僕には噂話に興じるような間柄の友人がいない。安心してくれ」
冗談で私を笑わせようとしてくれたことはわかる。けれど、先生を笑うことは、私にはできない。
友人を作る時間がないくらい、研究に情熱を注いできた人生だったのだろう。妻に会いたいと願う一心で。
私が何も話さないでいると、ハルヴィス先生がぽつりとつぶやいた。
「僕は、君がうらやましい」
「うらやましい……ですか?」
「魔力に込められた『気持ち』を感じ取ることができる、と言っただろう」
「良いことなんてなかったです。悪意に満ちた魔力にあてられたときのことは、今でも思い出したくないです」
「そういうこともあるだろう。だが、悪いことばかりでもないはずだ」
ふと、リヒャルトとエリス先生の顔が脳裏をよぎった。焼却炉のシャベルに残されていた、あのエリス先生の煌くような感情。私は「誰かを想う気持ち」の残り香さえも、感じることができる。
「記憶というものは残酷だ。日々を重ねるうちに、どうしても記憶の輪郭が薄れていく。忘れたくない思い出がたくさんある。忘れたくないことを、忘れないように書きとめた。しかし、どんなに忘れたくないと願っても、擦り切れるほど読み返しても、その時の記憶が鮮明には思い出せない。やがて感情までも薄れていく」
先生はそこで言葉を区切り、私に視線を合わせて続けた。
「君は、皆が忘れてしまったこの世界の彩り豊かな『記憶』さえも、読み取ることができるのだろう。僕には、それが、たまらなくうらやましい」
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。まるで呪いのように、ただ「蓋」をすることばかり考えて生きてきた。けれど、ハルヴィス先生が言うように、この特異な体質にも何かの価値があるのかもしれない。
気持ちが軽くなった。こうして話してみれば、決して悪い人ではない。出来の悪い生徒である私を見放さずに丁寧に教えてくれる。研究者気質なところは苦手だけれど。
「そうだ。もうひとつ、君に聞いておきたいことがあった」
「何ですか?」
まっすぐな目で私の目を見据えた。慎重な声色だった。
「君の両親は、メディリェナの出身か?」
その名前を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
職員名簿に記されていた私の出生地。今まで一度も耳にしたことのなかった、謎の地名。
「先生はその場所を知っているのですか!?」
思わず大きな声が出てしまった。慌てて「ごめんなさい」と言うと、ハルヴィス先生はゆっくりと首を振った。
「場所か……。ヴェテロク連峰の先にあった国だとは聞いているが、場所までは詳しく知らない。だが、先立った妻の出身地だ。君が彼女によく似ているから、そう思った」
「似ている、ですか?」
「黒髪。光の加減で虹彩に青みが滲む目。やや青みがかった肌の色。縦長の耳。細く長い指先。どれもが高地の冷涼な地域に住むメディリェナ人の特徴だ。この国では滅多に見かけない」
淡々とした解説のような口調だったけれど、記憶を手繰り寄せるような、どこか懐かしさを含んだ声だった。ハルヴィス先生の視線の先は私ではなく、もっと遠くにある、過去を見つめているように感じた。
そうわかっていても、あまりにまっすぐな視線を向けられると、落ち着かない。私は照れ隠しに、軽口を返してみた。
「意外に、人のことをよく見ているのですね」
「妻と同じ特徴だから目についただけだ。親戚の子だと言われても違和感がない」
真顔でそう返されてしまうと、茶化すこともできない。
「私は、幼い頃にヴァンデルの孤児院に預けられて、養父母に引き取られました。生みの親のことは何もわからなくて、生まれた場所も、つい最近まで知らなかったです」
ハルヴィス先生は小さく「そうだったのか」とつぶやき、しばらく黙考した後に続けた。
「もし興味があるなら、妻が残したメディリェナの民話の本を、君に託そう」
「いいんですか!?」
思わず身を乗り出して、また大きな声を出してしまった。
ハルヴィス先生は静かに頷いた。
「ああ。僕が持っているよりも、同郷の君が持っていたほうがいい。妻ならきっと喜ぶはずだ」
図書室で手当たり次第に調べてみても、メディリェナに関する記述は見つけられなかった。地図にも載っていない。国史は長すぎて読めなかったけれど、目次にそれらしい章は見つからなかった。この国とは直接交流のない地域なのだろう。
まさかこんなところで、自分の出自に繋がる手がかりに出会えるなんて思わなかった。




