第六.五話 俺はお兄ちゃんだぞ
主人公であってくれよ(羨望)
俺は十歳になった。
あの夜から二年。
頭の中へ響く謎の声とは、幾度も言葉を交わしてきた。
剣の構えが甘ければ叱られ、魔術式を間違えれば怒鳴られた。
何度、腹を立てて言い返したか分からない。
それでも、森から正体不明の力が押し寄せるたび、声は俺へ力を貸してくれた。
最初は一人で立っていることさえできなかった。
だが、声の指示に従って結界を張り続けるうち、少しずつ自分の力だけで防げるようになった。
同時に、俺は声を信用し始めていた。
もっとも、その正体は今も分からない。
尋ねても、声は『名乗る資格がない』と答えるだけだった。
森の調査も続けた。
力を感じた場所へ何度も足を運び、魔力の痕跡を探した。
しかし、何も見つからない。
人が潜んでいた跡も、魔物の巣もない。
正体不明の力が、誰によって、何のために放たれているのか。二年経っても分からなかった。
◇
ある日、屋敷の書庫で一冊の本を見つけた。
題名は『新七栄伝』。
三百年前、世界を襲った虚と七人の英雄の戦いを描いた物語だ。
ただし、俺が幼い頃から読んでいた『七栄伝』とは、内容が少し違っていた。
物語の途中、勇者が虚に見定まれ、裏切るのだ。
当初は七人の英雄と共に戦っていたが、やがて虚の力に魅入られ、世界を裏切った男。
八代目勇者は、虚を崇める邪神教団を率い、かつての仲間たちへ刃を向けたという。
その挿絵を見た瞬間、背筋が冷たくなった。
燃え上がる町。逃げ惑う人々。
黒く染まった剣を手に、その中心で笑う一人の男。
俺が何度も見てきた悪夢と、よく似ていた。
「なあ」
本を開いたまま、頭の中の声へ呼びかける。
「この話を知っているのか?」
いつもならすぐ返ってくる声が、そのときだけは沈黙した。
『……知っている』
ようやく返ってきた声は、ひどく重かった。
『お前が見ている悪夢の正体もな』
「教えてくれ」
本を握る手に力が入る。
「あんたは、何者なんだ」
長い沈黙のあと、声は答えた。
『かつて、俺は八代目勇者と呼ばれていた』
「八代目……勇者?」
『だが、虚に呑み込まれ、仲間も、守るべき人々も裏切った。今では、裏切りの英雄と呼ばれているらしいな』
「そんな……」
手元の本へ目を落とす。
邪神教団を率い、世界を滅ぼそうとした大罪人。
その男の声を、俺は二年前から聞き続けていた。
「そんな奴が、どうして俺の中にいるんだ」
『正確には、お前の中にいるわけではない。俺の意識は、世界の狭間に取り残されている』
「だったら、どうして俺にだけ声が聞こえる」
『お前が、俺の血を引いているからだろう』
意味を理解するまで、時間がかかった。
「馬鹿な。父さんは平民の出だと聞いている」
『俺には妻がいた。すべてが終わったときには死んだものと思っていたが……逃げ延びていたのだろう。その血が、お前まで続いている』
「俺が……裏切りの勇者の子孫?」
冗談じゃない。
俺が憧れたのは、人々を守った英雄たちだ。
世界を裏切り、罪のない人々を殺した大罪人じゃない。
「今まで、ずっと俺を騙していたのか」
『騙すつもりはなかった』
「なら、どうして黙っていた!」
『名乗る資格がないと言ったはずだ』
本を閉じ、棚へ押し込む。
それから俺は、声が何を話しかけてきても無視した。
◇
それから数日後の夜。
眠れずに窓の外を眺めていると、屋敷の壁を小さな影が伝っていた。
エヒトだった。
弟は音を立てずに地面へ降りると、周囲を見回し、そのまま森へ向かっていく。
「エヒト……?」
俺は剣をつかみ、急いであとを追った。
だが、森へ入ったところで姿を見失った。
気配も、足音も、魔力の痕跡さえ残っていない。
七歳の弟が、俺の追跡を完全に振り切ったのだ。
「どこへ行った……」
周囲を探ろうとした、そのときだった。
森の奥から、あの不快な力が広がった。
これまで屋敷を狙っていた、世界の理から外れたような力。
「嘘だろ……」
力が流れてくる方向は、エヒトが消えた方角と一致していた。
「どうして、エヒトが……」
『やはり、あの子だったか』
何日も無視していた声が、頭の中へ響いた。
「どういう意味だ」
『エヒトが生まれた夜、世界の境界が揺らいだ。それ以来、俺はこの近くに異質な力を感じていた』
「最初から、エヒトだと知っていたのか?」
『いや。普段のあの子からは、ほとんど何も感じない。何かが内側へ力を隠しているとしか思えないほどにな』
「なら、今の力は何なんだ」
『断定はできん』
「ふざけるな!」
森の奥へ叫ぶ。
「お前は、何か知っているんだろう!」
『落ち着け。最初に考えていた可能性は三つある』
声は、俺の怒鳴り声を受け止めたうえで続けた。
『一つ。森に潜む何者かが、お前を狙っている』
「俺を?」
『俺と繋がったお前を、邪神教団の残党が感知した可能性だ。エヒトは偶然、その何者かと接触しているのかもしれない』
しかし、俺たちは何度も森を調査した。
誰かが潜んでいる痕跡は見つからなかった。
『二つ。エヒトの中にある力が、本人の意思とは関係なく漏れ出している』
それなら、原因を取り除けばいい。
エヒトを苦しめている何かがいるなら、俺が倒せばいい。
『そして三つ――』
「エヒト自身が、あの力を使っている」
自分の口で言った。
声は否定しなかった。
「お前は、あの力をどう思う」
『断定はできない。だが、かつて俺を狂わせたものと似ている』
「じゃあ、エヒトが悪魔だとでも言いたいのか!」
『それも断定できん』
声は、冷静だった。
『仮にエヒトが最初から邪悪な存在なら、なぜ七年間も家族の中で暮らしている。世界を滅ぼしたいだけなら、成長を待つ必要などない』
胸の奥に絡みついていたものが、少しだけ緩んだ。
「なら、まだ全部、可能性でしかないんだな」
『ああ。今の段階ではな』
森の奥を睨む。
エヒトが何かを隠しているのは間違いない。
それでも、家族へ見せてきた笑顔まで偽物だったとは思えなかった。
「もし、エヒトの中に悪魔がいるなら――」
腰の剣を強く握る。
「俺がエヒトごと斬る」
『リヒト』
「違う。エヒトの中にいる悪魔だけをだ。そんな剣が今の俺にないなら、手に入れる」
声が息を呑んだ。
「あいつは俺の弟だ。何が潜んでいようと、俺が助ける」
『……もし、あの子が虚の英雄だったとしてもか』
「そのときは、俺が止める」
『情を捨てられるのか?』
「捨てない」
迷わず答えた。
「弟だから止める。弟だから、殺さずに連れ戻す」
『甘いな』
「あんたは、その甘さを捨てて後悔したんじゃないのか?」
声が黙った。
悪夢の中で、八代目勇者はすべてを壊していた。
けれど、今の声から感じるのは、怒りよりも深い後悔だった。
「八代目勇者。俺を鍛えてくれ」
『俺を無視するのは、もう終わりか?』
「あんたを許したわけじゃない」
剣を抜き、暗い森へ刃を向ける。
「あんたの過去も、エヒトの力も、俺が自分で確かめる。そのために強くなる」
しばらくして、声が小さく笑った。
『いいだろう。だが、今までより厳しくなるぞ』
「望むところだ」
この夜、俺と八代目勇者は、初めて同じ目的を持った。
◇
それから五年が過ぎた。
馬車の窓から、遠ざかっていく家族を見つめる。
父さんと母さん、母さんに抱き上げられたジェニー。そして、その隣で大きく手を振っているエヒト。
やがて馬車が角を曲がり、四人の姿が見えなくなった。
『随分と嬉しそうだったな』
八代目勇者の声が響く。
「実際、楽しみではある。学園には、屋敷にない魔術書もあるからな」
『それだけか?』
「まさか」
荷物の中には、森の異変を記録した手帳を入れてある。
邪神教団。八代目勇者の本当の歴史。
エヒトが隠している力。
そのすべてを調べるには、屋敷の書庫だけでは足りない。
ゴルゴン学園には、王国最大級の書庫がある。
三百年前の記録や、根源と虚に関する研究も保管されているはずだ。
そして、王国中から才能ある生徒と教師が集まる。
より多くの魔術を学び、より強い人間と戦える。
「学園で一番になる」
エヒトへ告げた言葉は、見栄でも冗談でもない。
三年後、エヒトが学園へ来るまでに、弟より前へ立てる強さを手に入れる。
『本当に、あの子を守り切れると思っているのか?』
「守るさ」
森の力がエヒトを狙っているなら、俺が防ぐ。
エヒトの中に潜んでいるなら、俺が斬り離す。
そして、もしエヒト自身が世界の敵になろうとしているのなら――。
「そのときも、俺が止める」
殺すためではない。
連れ戻すために。
「何があっても、あいつより前に立てる兄でいる。そのために、俺は強くなるんだ」
馬車は、王都へ向かって走り続ける。
主人公にしか見えない兄上。
だが、しかしこの物語は中二病が主人公(絶望)




