第2話 公爵令嬢は契約した
「アリステア!!」
勤務初日から一日みっちり仕事をし、定時で上がったアリステアを、母が家で待ち構えていた。
(……バレたか)
バレないわけはない。家名を名乗るなと言ったところで、ソフィアが名乗らせるだろうことは予測していた。それでもアリステアは悪あがきをしたのだ。
「貴方、ブランデルウッド公爵令嬢がいらっしゃると、どうして言わなかったの!!」
伯爵夫人として、いや、ペンフォード伯爵家としてきちんと迎えるべき家柄の令嬢を単なる家庭教師として家に入れることになったのだ。母の怒りはもっともである。
「家庭教師として来たわけですし」
「……そもそも、どうして貴方が公爵令嬢を紹介するのです?」
自室へと戻るアリステアを母は逃がす気はないらしく、追いかけてきた。しかも、執事がさり気なくアリステアの行く手を阻むようにして回り込み、足を止めるしかなくなる。
(……こうやって変に詮索されるから、言いたくなかったんだ)
「学友だからです」
「……が、学友?」
「同じ学園に通っていたことぐらいご存知でしょう?」
決して嘘ではない。というか、紛れもない事実だ。
「確かにそうでしょうけど……」
母はそこで勢いが弱まった。これで片付いたと執事を追い越し、先へと進もうとしたアリステアだったが。
「でも、クラリッサ先生はお兄さまのことをアリスさんと呼んだわ」
とんだ伏兵が現れた。
いつからそこにいたのか、ソフィアがにっこりと笑っている。
思わず舌打ちをすると、母には睨まれ、ソフィアにはふふんと鼻を鳴らされる。
悔し紛れにソフィアの鼻をつまんでやった。
「痛い!!」
「アリステア!!」
アリステアは大きくため息を吐いてから、母に公爵令嬢の事情を説明する。
「彼女は本気で家庭教師になろうとしています」
母が不思議そうに首を軽く傾けた。その隣では、ソフィアがうんうんと頷いている。すでに公爵令嬢と共鳴し合っているらしい。
「つまり、公爵令嬢であることを理由に拒絶されることも、雇用されることも望んでいません」
もちろん、理由はそれだけではない。今みたいに騒ぎになるから言いたくなかったというのが、何よりも大きな理由だ。だがそれを伝える必要はない。
「……で、ソフィが先生と呼んでいるということは?」
「ええ、もちろん採用させていただいたわ」
「そうですか」
「……契約も結んだわ」
「は? まさか契約書を交わしたという意味では……」
「ええ、そういう意味よ」
アリステアは眩暈がした。
普通はその場で契約しない。一度持ち帰るのが通例だ。その場で署名をするなど愚か者のすることだ。
「あの馬鹿……」
「……」
「アリ兄さま、口が悪いですわ」
「……あとで、その書面を見せてください」
「いいけれど……」
母が何かを言いたげだが、これ以上頭痛の種を増やしてほしくない。
アリステアは今度こそ自室へと逃げようとした。
だが――
「アリステア」
今度は父がのっそりと母たちの後ろから現れた。
その目が『ちょっと来い』と言っている。
アリステアはため息を吐いて、すでに背中を見せている父の後に続いた。
* * *
「……何故、言わなかった」
父の執務室で、また同じ質問を受ける。
うんざりしながら答えようとしたのだが、先に爆弾を落とされた。
「お前が何も言わないから、影にナイフを投げてしまっただろう」
「は?」
父は椅子に座りながら大きくため息を吐いている。その父の言葉を、すぐには理解できない。
「ナイフを?」
「そうだ」
「影に……」
「そうだ」
ひとつ、ひとつを確認し終えると、アリステアの背筋に汗が流れる。
あの公爵令嬢は筆頭公爵家の娘というだけではなく、母親が――つまり公爵夫人が現国王陛下の姉、元王女である。そのため王家の影がついている……らしい。公爵令嬢本人はそんなことは知らない様子だが。
父はその影にナイフを投げた、と言いたいのだろう。
「……そもそも、なんでナイフを投げたんですか?」
「気配がしたからに決まってるだろう」
(……影の気配が分かるって……おかしいでしょう?父上)
ペンフォード家は武官の家柄でもなんでもない。そんな訓練をアリステアとて受けた覚えはない。唖然としているアリステアを無視して、父は続ける。
「公爵令嬢が来ていると知っていれば、下手にナイフなんて投げなかった」
「……」
じっと黒い瞳がアリステアを見ている。さすがにアリステアもこれに対して言い訳をすることはできなかった。
「……申し訳ございません」
「ん。次からは気をつけるように。……感情だけで物事を判断するな」
「……はい」
母よりも優しく諭されたが、父の言葉は浅はかな行動をとったアリステアには、これ以上ないほど胸に刺さった。
* * *
同日、ブランデルウッド公爵家の応接間――
「クラリッサ……」
契約書を見せつつ、本日の顔合わせの内容をお母様とイヴリン先生に報告していた。
ところが、途中でお母様が手を上げ、話を止められる。イヴリン先生も険しい表情をしていた。
「あの……?」
どうして二人ともそんな顔をしているのか。きちんと採用されたのに、なぜ?
「クラリッサ様」
イヴリン先生の声はクラリッサを窘めるときのそれだった。
「はい」
「まず、こういった契約はその場では結びません」
「え?」
「伯爵夫人に確認されませんでしたか?」
「……はい、何度も『いいのですか?』『持ち帰られるのでは?』と訊かれました」
「そうでしょうね。この間、わたくしもそのように説明したはずです」
「あ……」
クラリッサは思い出した。が、もうすでに手遅れだ。
「それから」
イヴリン先生の講義が続く。
「教える内容は、淑女教育のみ、ではありませんでしたか?」
イヴリン先生の仰る通り、礼法など淑女が身につけるべき科目の家庭教師の予定だったので、コクリと頷く。
「ですが、こちらの契約書には、帝国語、数学、歴史、地理、政治学が含まれております」
「はい!」
クラリッサは得意げに頷いた。
「ソフィアさん……いえ、ソフィア様はとてもやる気のある生徒さんでして、学園の基礎課程も学びたいと」
「クラリッサ様、貴女にそれがお出来になって?」
「……も、もちろん、その可能性はありましたので、契約書にも記載の通り、一か月の試験雇用という形にしました」
「……クラリッサ様から提案されたんですね?」
「はい!」
王子妃になるための教養を身につけたい。学園に入る前から、学園で学ぶであろう知識を身につけたい。それが、ソフィア様の要望だった。
――ソフィア!! いくらなんでもクラリッサ様に頼りすぎです
――でも、わたくしの話をこんなに真剣に聞いてくださったのは、クラリッサ先生が初めてです!!
ソフィア様の熱量と信頼。それが嬉しくて、クラリッサは引き受けた。
伯爵夫人がとても心配そうにしていたけれど、どうしてもやりたかったのだ。
しかし、クラリッサを見るイヴリン先生の目は鋭いまま。
「無責任ではございません?」
「が……がんばります」
「これ、週三回では収まりませんわよ?」
「う……イ、イヴリン先生、一緒に考えてください……いえ、きちんと考えますので、助言をください」
はぁと、イヴリン先生と、そしてお母様のため息が重なった。
「お願いです!! わたくし、ソフィア様を素敵な淑女にしてさしあげたいのです」
「……淑女教育で十分ではございませんの?」
「ソフィア様がそれ以上を望んでいます」
「……」
「……クラリッサ」
お母様の目が厳しくなる。
でも、クラリッサは負けたくない。何のために家庭教師になったのか。遊びではない。クラリッサだって本気なのだ。
「わたくし、いい加減な気持ちで引き受けたわけじゃありません」
ソフィア様のキラキラの瞳。未来を見据えてまっすぐに輝くあの光を、クラリッサも一緒に掴みたい。
「ソフィア様と一緒に頑張りたいんです」
そう伝えると、お母様は息を呑み、そしてイヴリン先生は目を瞠った。
「あの……」
ぎゅうっと胸元で手を握りしめて、二人の答えを待つ。
「分かりましたわ。クラリッサ様」
イヴリン先生の瞳が柔らかく細められ、それから強い熱を見せる。
「わたくしが貴女を補佐します。ただし、甘えは許しません。家庭教師として徹底的に鍛え上げます」
とても力強い宣言に、クラリッサは嬉しくなった。




