第27話 公爵令嬢は星の夜に潰される
アリスさんはなにも言わない。
クラリッサが庭園を見て綺麗だと伝えても、短い答えが返ってきただけで、そのあと、何も言わない。
それがアリスさんだと知っているのに、クラリッサはなぜか不安を覚えた。
ちらりとその横顔を見る。アリスさんはこちらを見ない。
ずっと庭園を見つめている。
まるでクラリッサの存在を無視しているようにも感じられて、どうしていいのか分からない。
(……わたくし、なにか怒らせるようなことを?)
でも今日はここで初めて顔を合わせただけだ。
なにもしていないはず。
バクバクと心臓が嫌な音を立てる。喉が苦しい。
ふと、ローテーブルに水差しとグラスが置かれていることに気づいた。
(飲んでもいいのかしら?)
クラリッサは逆さに置かれているグラスに手を伸ばして、水差しから水を注ぐ。
カランコロンと水差しの中の氷がぶつかる音。
透明な水がゆらゆらとグラスへと移る。
「……ん」
冷たい水が心地よくて、つい声が漏れた。
アリスさんの顔がこちらを向いたのに、すぐに逸らされてしまう。
(うう……なんですの。どうしたら……)
「アリスさん!!」
クラリッサは我慢できなくなった。
怒らせたのかもしれないけれど、他に方法を知らない。
「こっちを見てください!!」
謝るにしたって理由が分からなければ、謝りようがないのだ。
クラリッサはとにかくアリスさんと話したかった。
* * *
いつだってまっすぐで。
だからこそアリステアを困らせる。
睨むようにアリステアを見つめてくるローズピンクの瞳。
少し暗いこのテラスでは、その色味は分からない。けれど、アリステアはもうすでに知っている。
暗がりでも、たとえ彼女が目の前にいなくても、その色はすぐに脳裏に浮かぶ。
「……見てください」
「……分かった」
諦めてアリステアは彼女と向き合う。
水に濡れた唇がすぐに目について、逸らしたくなるが、それを彼女が許さない。
「怒っていますか?」
「……いや、別に」
「わたくしには怒っているようにしか感じられません」
「……それは……すまない」
謝るしかできない。彼女はなにひとつ悪くない。
「……謝るということは、心当たりが?」
変なところで勘が良くて、ため息をつきたくなる。
「単なる八つ当たりだ」
「理由を訊いても?」
「ダメだ」
アリステアは即答した。言えるわけがない。
「……では、もう一度確認します」
「ああ」
「怒ってません?」
「そう言ってる」
「わたくしと一緒にいるのは嫌ですか?」
「……」
アリステアはすぐに返事ができなかった。
彼女の望む答えを返せなかった。
「……アリスさん」
「ちがう。そうではなくて」
アリステアは焦った。
彼女を傷つけたいわけではないのだ。
だが、時間は戻せない。
泣きそうに歪んだ、それでいて、無理やり微笑んだ顔が目の前にある。
「わたくし」
「違う」
彼女の唇が微かに震えているのが、暗がりでも分かる。
腕を伸ばして、抱きしめて、全てを伝えられたらどれほどに楽だろう。
だが、アリステアにできるのは否定の言葉を伝えるだけ。
それだって真実のすべてではない。聡い彼女はそれを感じ取ってしまうのだ。
(もう無理だ)
アリステアは諦めた。
彼女を。すべてを。
「アリスさん」
「すまない」
彼女の瞳が見開かれて、そして。
「いいえ、わたくしの方こそ、申し訳ありません」
すっと、彼女は立ち上がった。
そして、鮮やかな一礼を見せる。
「お邪魔いたしましたわ」
アリステアは、ただ見送ることしかできなかった。
* * *
「アリステア」
アーサー殿下がようやく姿を現した。
彼女が消えてからだいぶ時間が経っていた。
「……どうした?」
アリステアの顔を見て、どんな表情も浮かべていないはずなのに、アーサー殿下は訝しげに眉を寄せた。
「別に」
「……クラリッサに会ったのか?」
「ええ。こちらで」
「そうか」
アーサー殿下はそれ以上追及してくることはなく、立ち上がりもしないアリステアを責めもしなかった。ただ、向かいのソファに座った。
「待たせたな」
「いえ。ゆっくりできて、ちょうど良かったです」
「はは、そうか。なら、次も君のために貸し出すが?」
「……恐れ多いことを」
「相変わらず思ってもいないことを、サラっと言うね」
「大抵の人間は、そういうものだと思いますけどね」
「それを僕に向けて、匂わせながら言うのは、君ぐらいだよ」
「……左様ですか」
楽しそうなアーサー殿下の声に、重かった心が何故か少しだけ楽になる。
どうやら自分はアーサー殿下に対してさほど気負いを感じていないのだと、アリステアは気づいた。
「で、本題だが」
「はい」
おそらく時間がないのだろう。
星の夜は、外交の夜会でもある。
忙しい中、アリステアと話す時間を無理やり捻出したと思われる。
アーサー殿下はハイカラーシャツの首元を緩めた。
その様子に、アリステアは水差しの水をグラスへと注ぎ、アーサー殿下の前に置いた。
「……君、意外と気が利くね」
「ありがとうございます」
「あぁ、君といると仕事を忘れそうになる」
いまいち意味が分からない。
「アリステア」
「はい」
「なんか変なことに巻き込まれていない?」
「は?」
唐突な話題にアリステアは不敬にも声を漏らしてしまった。
「危険なことに近づいたなぁとか」
「……全然心当たりがありません」
「そうか……」
アーサー殿下が脚を組み直し、腕を組んで考え込んでいる。
「……俺は、いえ、私は何かに巻き込まれていると?」
「ん~」
「……公爵令嬢と会わない方が良いのでしょうか?」
「へ? ああ、あのサロンのデート」
(……確実にアーサー殿下にまで報告されているし、そもそもデートではない)
「ん~、影がついているからクラリッサのことは気にしなくていいよ」
「ですが」
アリステアのせいで彼女を危険に晒すのは違うだろう。
それに、彼女自身がアリステアと会いたくないと思っているかもしれない。
「というか、しばらく今まで通りにしてもらわないと困る」
「え?」
「だから今まで通り、予定では来週か? クラリッサとのデート」
アリステアは「予定では」と把握されていたことを気にしつつも、アーサー殿下に告げる。
「いえ、それは彼女の方が来たがらないでしょう?」
「……なんで?」
アーサー殿下が目を丸くしているが、アリステアはさすがに言いづらい。
言いづらいが。
殿下が戯れでアリステアの前にいるわけではないと聞かされたばかりだ。仕方なく口を開く。
「先ほど、彼女を傷つけました」
アーサー殿下の眉が寄る。
「……意味わかんないんだけど?」
「……」
「とりあえず、話してもらわないと」
「……」
「あのね、僕暇じゃないんだよ?」
それを言われるとその通りで、アリステアは渋々事情を説明する羽目になる。
「……一緒にいるのは嫌かと訊かれ」
「え? 嫌だと答えたのか?」
「……」
「なんで?」
「……身分が釣り合いません」
吐き出した言葉が、そのままアリステアの心を突いた。
* * *
こちらからしてみれば、ものすごくむず痒い話をアーサーは聞かされた。
(というか……アリステア、自己評価低いな)
確かに伯爵家の三男と、筆頭公爵家の令嬢とでは、釣り合わないと言えば釣り合わない。だが、それこそやりようはいくらでもある。伯爵家三男はそのギリギリにある。
ましてアリステアは優秀。アーサー自身も目を掛けている。
(……本人にその認識はないみたいだけど)
『友人』と敢えて周囲に言い触らしても、アリステアにその気がない。まぁだからこそアーサーは彼を『友人』と気軽に言えるのだが。
(なんだかこっちの一方通行みたいになってるな)
本当のところは『友人』ではないが、かなり気に入っているのだ。
(まぁ、クラリッサとアリステアの意味不明なもだもだは置いといて)
人の恋愛に顔を出す趣味は、なくはないが、今重要ではない。
問題は、アリステアに謎の監視がついていて、ペンフォード家も含めて見張られている。
これは、クラリッサを護衛する影が、たまたま気づいたのだ。それをそのまま放置するわけにもいかず、調査させたところ、彼の上司エドガー・クロフォードの一家も監視されていることが分かった。
(資料室か……)
大した仕事はしていない……という言い方は悪いが、王立図書館の紛失書を調べるだけの仕事だと聞いている。
「そういうわけで、公爵令嬢は私とはもう会いたくないかと」
(あー、アリステア、ほんと不器用だな)
可愛いとさえアーサーは思う。
「でもそれだと困るから」
「……」
「クラリッサには伯母上を通じて、僕の方から伝えておくね」
「いえ……それは」
「二人とも仕事だと思えばいいだけでは?」
「……」
「ね?」
黙るアリステアにアーサーはにこやかに微笑んで見せた。
* * *
クラリッサは泣きそうになるのを必死にこらえていた。
テラスを出てすぐにお兄様に遭遇して、エスコートしてもらって、そして踊り続けた。誰と踊っているのかなんてどうでも良かった。淑女らしさも、もう頭にはなかった。すべてを忘れたかった。なにもかも、忘れたかった。
(アリスさん、アリスさん、アリスさん)
それなのにずっと頭の中をアリスさんが駆け回る。
何が悪かったのか分からない。どうしたら良かったのかも分からない。
礼法も、淑女らしさも、なんの役にも立たない。
(どうして? もう一緒にいれないの?)
すまないと謝られた。その意味は?
クラリッサの心は悲鳴を上げていた。




