第19話 公爵令嬢は蕾の夜を歩く
目の前に差し出された、黒の燕尾服の腕。
クラリッサは思わずそれをまじまじと見てから、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、正装姿のアリスさん。
白のハイカラーのシャツに、灰黒色のベストと濃紺のクラヴァット。その組み合わせは、黒髪のアリスさんによく似合っている。前髪はいつものようにもっさりとしていて、目元は見えず、口は真一文字に結ばれている。
クラリッサは息が苦しくなった。
どうしてなのか分からない。
目の前の腕に、どうしてこんなにも動揺しているのか。
(差し出された腕は……エスコートという意味で……)
礼法の授業でソフィア様に講義した内容が頭の中で響く。
(これは……エスコート?)
不自然なまでに差し出された腕。
何も言わないけど、動かないのだから、きっとエスコートだと、クラリッサは理解した。
(エスコートを受けたら、さっと手を伸ばして)
イヴリン先生の授業でも、学園の授業でも、完璧にこなしたはずなのに、クラリッサの指先は震えて、腕がのろのろと動いている気がする。
(こ……こんなの、淑女の作法としては零点ですわ)
それでもなんとか黒の燕尾服の腕の上に、クラリッサの指先が届く。
(この後は……お互いに歩幅を合わせて……ってアリスさんの歩幅なんて知らないわ!!)
先ほどまで何人もの男性からダンスのたびにエスコートを受けていたことなど、クラリッサの頭にはない。相手が合わせて当然ぐらいの気持ちで、歩いていたことさえ思い出せない。
ちらりとアリスさんを見る。
こくりと頷かれて、クラリッサの心臓は口から飛び出すんじゃないかと思った。
(わ……分かりませんわ!!)
なにもかもが分からない。
正解が導き出せない。家庭教師失格。クラリッサの頭の中は大混乱したまま、アリスさんのエスコートで歩きはじめる。
「速すぎたら言ってくれ」
「え?」
何を言われているのかも分からない。というか、いつもより声が聞こえてくる位置が近い。高くて、でも近い。
しかも気配がする。すぐそばで。熱い。熱い。
頬が火照っている気がする。
「歩く速度の話だ」
「え……あ、はい」
なんとか頭にアリスさんの言葉を叩き込む。
(えっと、歩く速度。速度はどのくらいがちょうどいいんでしたっけ?)
礼法の教本に載っているはずの言葉さえ思い出せない。
すぐ近くから薫るアリスさんの匂い。
(あれ? ……アリスさんっていつもこんな匂いでしたっけ?)
今ほどの距離ではないが、たまに近づくことはあったはず。でも、その時にこんな……
(そうだわ! これはサマーホワイトの木の香り)
慣れ親しんだ爽やかな木の香りが、アリスさんからする。
思わず嗅ぎたくなる衝動をクラリッサはぐっとこらえた。
と、同時にアリスさんが香水をつけているのだと思うと、なぜかくらくらした。
(お、大人の男性みたいですわ)
急激に自分が子供じみていないか不安になる。
エスコートひとつに動揺し、正しい歩幅も速度も思い出せず、挙句――
(ま、まともに会話してませんわ!!)
今さらながらそのことに気づいた。
だが、喉は何故か渇きを感じていて、綺麗な声が出せそうにない。
クラリッサは泣きたくなった。
淑女のなんたるかをあれほど学んだはずなのに。そして、それをソフィア様に教えるべきなのに。
(……これが、本番と練習とは違うということですのね)
思わずぎゅうっとアリスさんの腕を掴んでしまった。
「……どうした?」
アリスさんの足が止まる。
「あ……えっと」
「何か問題があったか?」
問題があったのはクラリッサであって、アリスさんではない。
だが誤解していそうな雰囲気に必死に頭を左右に振った。
ふっとアリスさんの口元が緩む。
笑われたのだとクラリッサは理解した。
恥ずかしくて堪らない。
思わず睨めば。
すっと視線が逸らされた。
ただし、目元は見えないのでおそらく、である。
「行こう」
「あ……はい」
「兄君が、ものすごい勢いこっちに来てるな」
「……」
そこで交代になってしまうと思うと、今度はクラリッサの方が足を止めた。
* * *
足を止めた彼女の手は、やはり震えているような気がした。
アリステアがエスコートをしている間、ずっと震えていて、途中で腕をぎゅっと掴まれた。何か問題があったのかと問えば、首を左右に振られた。
(くそ……っ!!)
彼女の耳元で銀の耳飾りが揺れる。自然と目が白い首筋へと吸い寄せられる。
すぐ近くで彼女の熱を感じて、アリステアに余裕などなかった。
早く終われと思いつつも、どこかでこのままでいたいと感じてしまう。
だが、向こうから彼女の兄君が凄い勢いでこちらに向かってきている。
もうすぐこの時間も終わる。そう思った時、彼女の足が何故か止まる。
不可解な動きにアリステアは声を掛けようとして、その手首に巻かれたリボンのような物が気になった。
花のように綺麗なのだが、公爵令嬢が身につけるものとしては、どこか違和感を覚えた。
「……それ」
「え?」
「どうして、それにしたんだ?」
デビューの令嬢に許される一輪の花。
胸元を飾る首飾りでもなく、耳元で揺れる耳飾りでもなく、そして豪華な腕輪でもない。
尋ねたアリステアに対して、彼女はバッと手首を庇うような動きをした。
(ん……?)
「あの、これは、別にもう平気なんですの、痛むとかそういうことでも全然なくて」
何が言いたいのか分からない。そもそも痛みとはなんなのだ?
彼女からは見えないだろうが、アリステアの眉間に皺が寄る。
「お父様やお兄様にうるさく騒がれると困りますし、たいしたことないのにアリスさんが……」
「俺?」
次の瞬間、彼女は固まった。
その顔には『しまった』と確実に書かれていた。
アリステアは考えた。
すぐ近くまで彼女の兄君が来ているのが見える。
先ほどまではさっさと回収しに来て欲しいと思っていたのに、今は違う。考えがまとまるまで時間が欲しい。
「違います。今のは間違いです」
必死に取り繕っているが、嘘が下手すぎる。
だが、あまりにも必死すぎて、これ以上彼女を追い詰めるのも違うと思った。
「そうか」
ひと言アリステアがそう返すと、明らかに安堵のため息を零した。
そして。
「アリスさんは全然関係無いですからね」
ローズピンクの瞳が強く訴えてくる。
(……俺のせいか)
アリステアは理解した。
そうなると心当たりは一つだけ。
にっこりと微笑む彼女を、自分は傷つけたのかと思うと愕然とする。
「それに、わたくしこの飾りとっても気に入ってるんですの」
それは嘘ではないのだろう。
嬉しそうに微笑み、手首を愛おしそうに撫でた。
その様子に、アリステアはぞくりとした。
喉が渇く。
異常なまでの渇きに声が出ない。
だが、それで良かったのだと思う。
「クラリッサ」
兄君が来た。
彼女を迎えに。
アリステアは公爵家の嫡男に一礼をする。
「……妹を連れてきてくれて礼を言う」
冷たく掛けられた言葉が、今のアリステアにはちょうどいい。
熱く昂りそうな気持ちがスッと沈んでいく。
「いえ、これで私は失礼します」
アリステアは敢えて彼女を見なかった。
「アリスさん!!」
声が追いかけてきても、振り返ることはしなかった。
* * *
アリスさんは振り返ってくださらなかった。
お礼ぐらい言いたかったのに。
「……お兄様、来るのが早いですわ」
「……どういう意味だ?」
お兄様の青い瞳が細められた。
「言葉通りの意味ですけれど?」
「……そんなに、あの男といたかったのか?」
お兄様は当たり前のことを聞いてくる。
「何を仰ってますの」
「そうだろう。そうだろう」
「そんなの当然に決まってます」
「は!?」
「……せっかく、アリスさんがエスコートしてくださったのに。お兄様は気が利きません」
「待て。クラリッサ、何を言っている!?」
「……素敵でしたわ、アリスさんのエスコート」
「どこがだ!? あんなもっさりとしていて、可愛いクラリッサをエスコートする資格なぞどこにも」
「それに比べて……わたくしときたら……」
震えて、全然淑女らしくなくて。
クラリッサは己の至らなさを後悔する。
(ソフィア様と一緒に、わたくしも一から学び直さなくては)
次の『星の夜』の時に、もしまた運よくアリスさんにエスコートしてもらえることがあったなら。
(その時は、完璧な淑女として、アリスさんにエスコートしていただくわ)
ふんわりと薫るサマーホワイトの香水に動揺なんてしない。
(アリスさんが大人の男性なら、わたくしは大人の女性になってみせますわ)
クラリッサは強く誓った。




