帰るべき場所
いったいどれだけ斬り捨てたか。
いったいどれだけ屠ったか。
いったいどれだけ砕いたか。
もう何も、分からない。
討伐数を数えるだけの余裕も何も、あったものではなかった。今となってはまるで、身体が脳からの命令を無視して自分の判断で動いているような、もしくは身体が自分のものではなくなってしまったかのようにすら感じた。
日頃の鍛錬の通りにバスタードソードを振るい、斬り捨て、打ち砕く。その剣の一薙ぎで氷の騎士が崩れ、両断され、粉砕されていった。
それでも姉との距離は、縮まらない。
乱れた呼吸を整え、踏み込んだ。
前へ、とにかく前へ。
あの時成し得なかった事を。
今日こそは、今こそは。
自分こそが姉を救うのだ。17年前の惨劇を繰り返さないように。大切な家族がもうこれ以上傷つかないように。
氷の騎士の放った矢が肩に深々と突き刺さった。ドッ、と肉を刺し穿つ鋭い痛みに、思い切り突き飛ばされたかのような衝撃。冷たく侵食する痛みに覇を食いしばって耐えながら刺さった矢をへし折り、今しがた矢を放った氷の騎士に向かって大剣を投げ放つ。
剣を振り下ろしてきた氷の騎士の斬撃を躱し、拳を叩き込んで顔面を粉砕。紅茶の中の角砂糖のように崩れゆく残骸を踏み台にして大きく跳躍、騎士たちの隊列を越えてエリスの傍らへと舞い降りる。
さむいよう、さむいよう、と繰り返しながら凍えるエリスの小さな身体。
凍える彼女を包み込むように、そっと優しく抱きしめた。
『姉さん』
ぶるぶると震える身体は芯まですっかり冷え切っていた。まるで氷で出来ているかのようで、思わずエミリアも目を細めてしまう。
1人でこんな、冷たい想いをしていたのだ―――姉の背負った、その小さな背中には重すぎる宿痾。とても人間の力で解決できるものではないのではないか、とすら思ってしまったが、しかしエミリアは諦めない。
壁が高いならば、粉砕するなりよじ登るなり、迂回するなり手段を探せばいい。人生も同じだ。どうしようもない問題にだって、必ず抜け道が存在するものなのだ。
だからきっと、次こそはきっと―――エリスが己の力に、そして孤独に苦しまないように。
それがエミリアの覚悟だった。
『―――いっしょに帰ろう、姉さん』
ぎゅっと、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
後方から追い付いてきた氷の騎士たちが、容赦なくエミリアの背中を斬りつける。メイスで殴り、蹴とばし、矢で穿つ。けれどもそれらの攻撃を一身に浴びながら、エミリアは微動だにしない。
幼き日のエリスを力強く抱きしめながら、石像のようにその場を動かない。背中を斬りつけられても、穿たれても、歯を食いしばるばかりで逃げようとすらしない。
抱きしめていた姉の身体から、冷気が消えた。
唐突に生じた確かな温もり。それはエリスを起点に放射状に広がっていくなり、エミリアを虐げていた氷の騎士たちをたちまち溶かし、蒸発させ、水蒸気へと還元していく。
いつの間にかエミリアの腕の中にあった小さな身体は―――彼女のよく見知った、あの世間知らずな姉の姿へと戻っていた。
目元を涙でぐっしょりと濡らし、無垢な子供のようにエミリアにしがみつくエリス。うん、うん……と涙で声を震わせ、何度も何度も頷く彼女を前にして堪え切れず、エミリアの紅い瞳からも大粒の涙がこぼれ落ちた。
蒼く輝く稲妻が、次元裂傷を真っ向からぶち抜いたのはキャノピー越しに見えた。
ズメイ砲の余波が放つ強烈な電磁波に機体のシステムが一瞬ダウンしかけるが、すぐさま機体のAIがシステムを復旧。がくん、と力尽きたように脱力した機体が再び制御を取り戻す。
戦闘に参加した60隻以上の空中艦から一斉に放たれたズメイ砲の束―――あれでいったいツァーリ・ボンバ何発分の威力になるんだろう、と思いながら空中に刻まれた蒼い光の残滓を追い、次元裂傷へと視線を向ける。
あの次元裂傷に膨大なエネルギーを投入すれば吸い込まれた物体が出てくるかもしれない、というのは理屈を聞いてもいまいちピンとこなかったが、要するに空っぽのコップに水を溜めていく過程を想像すれば分かりやすいものだった。
何も入っていないコップにちょろちょろと水を注いでいけば、水は跳ねずにやがて器を満たすだろう。しかしもし仮に、水道の蛇口を一気に全開にして大量の水をコップに叩き込めばどうなるか。圧力の赴くままにコップの底を殴りつけた水が跳ねに跳ね、周囲は水で瞬く間にびしょ濡れになってしまう。
つまりはそういう事だ―――器の底を殴って外に出てくる水、それがもしかしたらエミリアさんとエリスさんかもしれない。それがこの作戦の理屈であり、参加した全員が賭けた可能性であった。
あれだけの量のエネルギーを投入された次元裂傷。
ブラックホールの如く光すらも捻じ曲げていたそれに変化が生じたのは、それからすぐの事だった。
脈打つかのような振動が迸ったかと思いきや、ごぼ、と次元裂傷の表面に純白の泡のようなものが浮かんでくる。
段々と面積を増していく泡の中―――やがてそこから”異物”が吐き出されてくる。
超巨大時計塔『クロムウェル』の天井の一部、どこかの荷重を支えていたと思われる鉄骨やレンガの欠片たち。次元裂傷発生の際に吸い込まれ、異次元空間へと取り込まれたはずのそれが吐き出されて、ロンディニウムの市街地へと降り注ぎ始めたのである。
それを皮切りに、次々に様々な物体が吐き出され始めた。地表から吸い上げられた自動車に二階建てのバス、墜落した空中艦の残骸、クロムウェルの文字盤……時折それに混じって死体も吐き出されてきたが、どこにもエミリアさんやエリスさんの姿は見当たらない。
どこだ、どこだ……目を走らせつつAIにも走査を厳命。機体に搭載されたAIと高精度センサーが凄まじい速度と精度でスキャンしていくが、しかしエミリアさんとエリスさんらしき姿はどこにも見えない。
《フェンリル、何か見えたか?》
頭上を旋回するのはユリウス兄貴のバイラクタルだった。向こうも機体に搭載されたカメラを熱探知や魔力探知に切り替えて探してくれているのだろうが……聞いてくるという事は収穫無し、か。
「何も見えない。何も……」
《拙いぞ……見ろ》
「ああ、クソ……」
次元裂傷は、段々と萎み始めていた。
当たり前だが、60隻以上の空中艦からフルパワーのズメイ砲を一斉に叩き込まれたのである。フルサイズのズメイ砲のフルパワーでツァーリ・ボンバ300万発分の威力になるそれを一気にぶち込まれたのだから、いかに大食いな次元裂傷でもキャパオーバーするのは当然と言えた。
ひとまず、ロンディニウムの街が異次元の底に沈むという最悪の未来は回避できた。大局的に見れば大勝利と言える結果であろう。
でも、それだけじゃあダメなのだ。
パズルのピースの中心、力也の隣に並んで立つべき2人の女性がまだ帰ってきていない。エミリアさんとエリスさん、2人が無事に帰ってきてはじめて「勝利」と断言できるのである。
戻って来い、戻って来い……!
段々と収束していく次元裂傷。もう最大時の半分以下の面積にまで縮小したそれに焦燥感を覚えながら見守っていたその時だった。
どくん、とひときわ大きく自分自身の鼓動が聴こえた。それと同時に胸の内側が膨らんで、鉄の匂いがする熱い何かが肺の奥から気管を逆流してくる感覚。ああこれダメなやつだ、と何となく悟った頃には、酸素マスクの内側に自分の血を吹き付けていた。
身体から力が抜ける―――両目がやたらとチカチカして、眼球に不必要な刺激が連鎖する。
病み上がりに無茶したのが祟ったのだろうか。またしても身体が重くなり、視界が霞んで音も何も聴こえなくなっていく。せっかく取り戻した視力と聴力が再び遠退いて、自分と世界を繋ぐ要素の2つが急激に薄れていくのを感じる。
《……フェンリル、どうした? フェンリル、機体を立て直せ……聞いているのかフェンリル! ラウル!!》
通信越しに聴こえるユリウスの声。
ああ、今となってはこの喧しい声ですら愛おしい……。
掠れ、薄れ、闇に沈みゆく視界の中。
”それ”だけは、はっきりと見えた。
クロムウェルの頂上部―――次元裂傷から吐き出された瓦礫に紛れて、確かに蒼い髪の女性が2人、さっきまでヘンリックたちと戦っていたフロアに投げ出されていったのが。
《アイスマンよりソーキル、エリスさんとエミリアさんの無事を確認! クロムウェルだ!》
《確認しました。それよりアイスマン、フェンリルの様子が……》
《ああ、クソ……あの馬鹿野郎無茶しやがって。傷口が開いたのか? ラウル、ラウル! 返事をしろラウル!》
やべえな、コレ……何も聴こえなくなってきた。
ロザリーとの約束、破っちゃうかもな……。
戦闘を生き延びた巡洋艦『ムニン』がクロムウェル頂上部へ接舷していくのを確認してから、クラルテはラウルの情報を最優先で確認し始めた。
バイタルはまだある。しかし呼吸は浅く、心拍数も減少傾向にあった。いつ意識を喪失してもおかしくない状態―――そうなれば緊急脱出も何もあったものではない。機体と運命を共にするしかないのだ。
「アイスマン、とにかくフェンリルに声をかけ続けてください」
《わかってる! ラウル、おいラウル、しっかりしろ! 分かるか、俺の言葉が聴こえるか!? 聴こえてたら頼む、何か返事をくれ……翼を振ってもいい、何でもいいんだ!》
「フェンリル……いいえ、ラウルさん、聴こえますか? 聴こえますか、応答を」
《―――》
《ああクソ、クソ! アイスマンよりソーキル、ラウル機の高度が下がり始めてる!》
「ラウルさん、ラウルさん、聴こえますか? 応答してください。応答してください」
《ラウル、しっかりしてくれ……ふざけんなよお前、人の妹を、ロザリーを置いていくつもりか? 帰ってくるって約束してるんだろ? 婚約してるんだろ!? だったら約束を守れ、責任を果たせ! 聞いてるのか!?》
―――視覚と聴覚の喪失。
それでいて、突破口を開くためとはいえ無茶な機動を繰り返した事による身体への多大な負荷。それらのツケが一斉に牙を剥いたのだ。
いったいどうすれば。
このまま見ている事しかできないのか?
どうすればいい、と”マザー”に指示を仰ごうとしたクラルテ。しかしその思念も、勢いよく扉を開けて被弾した艦橋へと踏み込んできたロザリーに断ち切られてしまう。
一般回線でのやり取りだったから彼女にも聴こえていたのだろう。事情を把握するまでも無く通信手の席までずんずんとやってきたロザリーは、クラルテからヘッドセットをひったくるように取ると、それを自分の耳に装着しポケットの中からスマホを引っ張り出す。
ロザリーのものではない。
出撃前、ラウルが彼女に預けていったスマホだった。
ケーブルを端子に繋ぎ、艦の通信システムとスマホを繋ぐロザリー。「何を」というクラルテの問いに「見てて」と短く返したロザリーは、ラウルのスマホのパスワード(なぜ把握しているのか)をさも当然のように入力してスリープモードとロックを解除、音楽再生アプリの中からとある曲を選択して流し始める。
一般回線に、刺激的なエレキギターとドラムの音が響き渡った。
続くギターの前奏。かき鳴らされていたそれらが一瞬だけ静まり返り、男性のボーカルがイーランド語で歌詞を紡ぐ。
「ロザリーさん、この歌は……?」
「……ラウルがお気に入りって言ってた曲よ。これならきっと……お願い、これを目印に帰ってきて」
今はただ、信じる事しかできない。
少しでも可能性があるならば―――それに縋るしかないのだ。
さあ、エンジンに火を入れてくれ。
許可は下りた、飛び立とう。
火薬の匂いも銃声も、何も届かぬ空の果て―――。
全ての音が途絶え、意識もそろそろ手放してしまっていいかなと思っていたところに、しかしその歌詞は確かに聴こえた。
最初は幻聴かと思った。あるいは走馬灯なのだろうか。今までの経験をもう一度追体験するという走馬灯の一環で、お気に入りの楽曲が聴こえてきたとでもいうのだろうか。
しかし現実というのはゾッとするほどスピリチュアルとは無縁で、ただただ淡々とした事実が連なるだけの味気ない世界である。
その歌声は、機体の通信システムから聴こえてきた。どうやら一般回線で、人のお気に入りの曲を爆音で流しているMC気取りの奴がいるらしい。
……ああ、きっとロザリーだな。
そういや出撃前、俺のスマホを預けてたんだっけ。それを艦の通信システムにでも繋いだのか。
口元に笑みを浮かべた。俺の好きな曲を流せば、それを目印に帰ってきてくれるかもしれないという魂胆なのだろう。
ああ、大正解だ。
はっきり聴こえるよ、ロザリー。
ノイズのしないクリアな方向へ。歌声がより綺麗に聴こえる方向へ。
「……フェンリルよりどこかの誰か。良い趣味してやがるな」
《ラウル!》
《良かった……ラウルさん、艦の位置は分かりますか? 着艦を》
「……了解」
視界はぼやけてるが、音楽のおかげで帰るべき場所が分かる。
操縦桿を倒して機体を緩やかに旋回。やがてキャノピーの向こう側に、黒煙を濛々と吹き上げながらもこっちに艦尾を向けて航行する1隻のソーキル級の姿が見えてくる。
相対速度を合わせつつ機体を艦底部へと移動させる。昔の水上艦の如く、喫水線を真っ赤に塗られたそれが左右に開いたかと思いきや、機体を収納するためのクレーンアームが伸びてくる。
アームの真下に機体を移動、相対速度を合わせたところでアームが稼働した。大きく開いたマニピュレータが降下、機体の背を掴んでそのまま格納庫へ引き込んでいく。
懐かしい匂いがする。
この感覚は忘れもしない……東京から岩手の実家に帰省した時のような、あの感覚だ。
今の俺にとっては、この艦が帰るべき場所。
キャノピーを開けるよりも先に、誰かが外側から緊急開放用のスイッチを押したらしい。
開いていくキャノピーの向こう側から顔を覗かせたのは、未だに視界がぼやけてこそいたが、誰だかはすぐに分かった。
「ラウル……!」
「ははは……ただいま、ちゃんと帰って来たよ」
ちょっと危なかったけど、と言葉を紡いだところで、熱くて柔らかい唇が口を塞いだ。




