黒き深淵
どうでもいい話
ヴォイテクが暇潰しにソーキルを擬人化したイラストを艦内で描いていたら、どこからともなく「あら、可愛いじゃない。気に入ったわ」という女の声が聴こえたらしい。
光が、消えた。
音も何も、聴こえない。
どこなんだ、ここは。
何も分からない……何も見えないし、何も聴こえない。
やっぱりそうだ、ミカエルの言う通りだった。
あの力は、使うべきではなかったのだ。
《報告:患者の意識が戻りました》
『ラウル、ラウル!』
『意識レベル正常……まだ脈拍数が弱いか……エリクサーを静脈から投与します。ロザリーさん下がって』
『ラウル、私はここよ! ずっと、ずっとここに居るから……だから、だから……っ』
誰の声だろう……分からない。
でも、指先まで冷え切った手を温かい誰かの手が包み込んでくれているのが、何となく分かった。
ふわりと舞う花の香り―――カモミールっぽいな、とぼんやり考えて、やっとその温もりと香りの主がロザリーである事に気付いた。
ああ、そうか。
俺……帰ってきたのか。皆のところに。
ありがとう、俺は何処にも行かないよ―――そう返答するように、彼女の手をぎゅっと強く握った。
「なあソコロフよ」
「何です艦長」
「……俺ぁ現場に身を置いて長いけどよ」
「ええ」
「…………こんな光景、見た事ねえ」
味方艦と合流し、ロンディニウム市街地から一時退避したソーキルの艦橋。
視線を甲板に向けてみれば、ターレットリングから浮かび、しかしバーベットの一部が変形した事によって変な角度で固定されてしまっている大破した第二砲塔と、辛うじて使用可能な第一砲塔、そして左舷を中心に損傷した満身創痍の船体が目につく。
こんなにもソーキルが損傷したのは、割と真面目に天地戦争以来ではないだろうか―――この艦がまだ、少数建造に留まった”670型空中駆逐砲艦”のうちの1隻に過ぎなかった頃。世界が燃え上がり、殺し合いが熾烈を極めていたあの頃。
だからこそ、今回の仕事のヤバさを痛感できるというものだ。
しかしそんなものが目に入らなくなるくらい、目の前には”ヤバいもの”が広がっていた。
艦橋の窓の遥か向こう―――ロンディニウムの市街地が見えなくなるほどの距離を取ったにもかかわらず、しかし今なお燦然と輝き続ける超巨大時計塔『クロムウェル』の威容。
その尖塔が指し示す先。崩壊した頂点の上に、いつの間にかぽっかりと【黒い穴】が生じていたのである。
推定直径1㎞―――空に開いたというよりも空間に開いた下の如き大穴。その深淵を見透かす事は出来ず、雲の切れ間から降り注ぐ太陽の光すらも捻じ曲げて、暗黒の深淵を白銀の輪で縁取っている。
光の輪を纏う暗黒の大穴。
それは決して、地球上で観測される事はない―――いや、観測されてはならない天体現象。
そう、ブラックホールである。
しかし仮にもし、あれが本物なのだとしたら―――今頃ロンディニウムどころか、ソーキル含めた艦隊すらもあの重力の結節点に呑み込まれ、消滅してしまっている筈だ。いや、それだけではない。浮遊大陸ブリタニアすらも瞬く間に崩壊し、あの中に呑まれているのが道理というものである。
だというのに、周囲の物体を吸い込んでこそいるものの、生じる重力が浮遊大陸に影響を与えている様子はない。
メインモニターには最大望遠でのブラックホールもどきの映像が映し出されているが、目を凝らして視てみても何も分からない。今はただ、フィオナ博士の分析待ちだ。
艦橋の扉が開いた。
向こうから姿を現したのはフルールとクラルテの2人組だった。現役の巫女と元巫女のコンビとは珍しいな、と思いつつ「ラウルは?」と問いかけると、クラルテは安堵したような表情で報告した。
「ひとまず峠は越えました。視力と聴力の障害はおそらく一時的なものです……エリクサーの静脈注射を継続し安静にして、とにかく自身の魔力で損壊した身体を癒せばいずれは」
「……ご苦労だった」
冷静に処置できる人材というのは、そう多くはない。
戦時中もそうだった。100年も続いた戦争で医学の知識がある衛生兵すらも死に絶え、送られてくるのは1時間や2時間程度の医療講習を受けただけの、ヤブ医者同然の衛生兵たちだった。野戦病院で誤って血管を切り裂いてしまい負傷兵を死なせた衛生兵が、他の負傷兵たちにリンチされた現場ならば何度も見てきた。
そんな吹き溜まりのような世界の中で、しっかりと応急処置や治療を施せる人材というのはとにかく稀有だ。転生者を補佐する巫女ともなれば医療教育は必修科目なのかもしれないが……。
いずれにせよ、ラウルだ。
ミカエルは彼女に、いったい何を吹き込んだのか。
倭国の蟲島の一件からというもの、ラウルはヘンリックを超えるためになりふり構わなくなった、というのがヴォイテクの抱いた感想だった。とにかく己の力に出来る事ならば何でも貪欲に取り込み、あの男を今度こそ超えてみせようという執念すら感じられた。
だがしかし……手段を択ばず、己の命すら顧みないその姿は、餓狼といったい何が違うというのか?
危うい、と感じていたところにこれだ。
報告では一時とはいえ、あのヘンリックを圧倒したというラウルの新たな力。しかしそれが、魔術適性Eランクのラウルを強制的にSランク相当まで……いや、それ以上の適正レベルに引き上げるものだと分かっていれば、ヴォイテクだってこう言ったはずだ。
「それは絶対に使うな」と。
魔術適性とは、絶対に後天的な要素では変わらない。
もし仮に何らかの手段で適性を底上げする事が出来たとしても、それはあまりにも大き過ぎる対価を支払う事を意味している。
今ばかりは……ラウルにその力を教えたミカエルの存在が、しかしヴォイテクには天使ではなく悪魔に思えた。
悪魔とは、人に大きな力を与えるものだ。そして大き過ぎる対価を迫るものである。
(ミカ、お前は……っ)
「艦長、エンジェルパレスのフィオナ博士より入電!」
「回線繋げ」
通信に許可を下すなり、メインモニターに新しいウィンドウが開いた。薄暗い研究室の一角を背景に、モニターの灯りで照らし出された白髪の竜人女性……協商連合の誇る天才科学者、フィオナ・ハーヴェイ博士の姿が映し出される。
相変わらずの自称カフェイン中毒らしく、手元にはコーヒーの入ったタンブラーがあった。デフォルメされたミカエル君のイラストのある品である……協商連合創立の際、ヴォイテクがミカエルに無許可で販売した『ミカエルたんブラー』だ。
そんな無駄にプレミアがついた代物をなんで、と思わず突っ込みたくなったが、今はそれどころではない。
《ヴォイテク艦長、映像は拝見させていただきました》
「博士、あれはいったい?」
《端的に言わせていただくと、あれは【次元裂傷】です》
「次元……裂傷……?」
《はい。ブラックホールに似た姿をしていますが、あれほど凶悪ではありません》
聞いた事の無い言葉だった。
メインモニターのウィンドウに他の艦―――戦艦スラヴァのモニカ、戦艦定遠のリーファ、そして戦艦チェルノボーグのイルゼ艦長の顔が映し出され、作戦に参加する全ての艦長がモニター越しに参集する。
《次元裂傷とはその名の通り、空間の裂け目です。我々の存在する世界とは異なる別次元へと通じる”穴”で、周囲に存在する物質を片っ端から吸い込みます。これは重力によるものではなく、あくまでも負圧によって向こう側へと吸い込まれているためであり―――》
「分かりやすく言ってくれ」
《簡単に言うと”なんでも吸い込む異次元の穴”です》
最初からそう言え、とヴォイテクは心の中で悪態をついた。科学者とは優秀だが、しかし往々にして専門知識のない相手のレベルに合わせる事を怠りがちだ。
彼女も例外ではなかったらしい。
《分析によると、次元裂傷の規模はどんどん広がりつつあるようです》
「……寒冷化現象の方は?」
《依然として継続中。世界が氷に閉ざされるが先か、それとも物質があの次元の穴に呑み込まれるが先か―――》
どたどたと足音が近付いてくるのを、艦橋にいた乗員やくまさんハウスの面々は聞き逃さなかった。足音の重さからして男性、それだけ分かればいい。今この状況で、人一倍必死になるような人間はあの男しかいないのだから。
制止しようとする戦闘人形を殴り飛ばさんばかりの勢いで艦橋に踏み込んできたのは、速河力也その人だった。エリクサーを投与された事で傷は塞がっているのだろうが、しかし身体をよく見ると傷の塞がった痕が生々しく残っている。
「あの中に吸い込まれた人間を助ける方法は!?」
「君!」
「今は作戦行動中です! 部外者の戦闘区画への立ち入りは―――」
ホルスターに下げていたグロック40を引き抜きながら警告する戦闘人形の乗員たち。無理もない、彼らはAIによって制御されている。人間のような独立した、尚且つ柔軟な思考回路と比較すると、彼らの社会的な構造は女王を頂点とした昆虫社会に近いのだそうだ。
頂点に君臨するルシフェルのガイドラインに照らし合わせれば、確かに力也は部外者なのだろう。
構わん、と鷹揚に手で制すると、戦闘人形たちは銃をホルスターに戻し、力也に道を譲った。
ずんずんと艦橋の中に上がり込み、メインモニターを睨む力也。フィオナ博士はどこか懐かしそうな顔をしながら《あら、どこかで会ったかしら?》などと言ったが、しかし力也はその問いに応えない。
代わりに、槍のように鋭い言葉を投げ返した。
「エミリアとエリスを、あの中から救い出す方法はあるのか!?」
《……有史以来、次元裂傷に吸い込まれた人間が生還した事例はありません》
「そんな」
《戻れないのです。そもそも、我々の住むこの次元とあの裂傷の向こうに広がる次元は成立条件が前提から異なる。本来ならば決して交わる事の無い2つの次元、それが何かのきっかけで”衝突事故”を起こして生じるのがあの裂傷なのです》
おそらくは、エリスが招き寄せたものなのだろう―――誰もがそう思った。
適性EXランクという人智を超えた力。ヒトの尺度では推し量る事すら許されぬそれが暴走すれば、何が起こるか分からない。いや、むしろ17年前の暴走事故は都市が氷漬けになる程度で済んで幸運だったのだ。
《…………ただ、これは仮説ですが》
「言ってくれ、教えてくれ。何でもいい」
《次元裂傷が吸い込める物体の質量には上限があります。そこに、裂傷の許容量を超過するエネルギーを一気に撃ち込む事ができたのなら》
「その勢いで……エリスとエミリアが吐き出されるかもしれない?」
《あくまでも仮説です。仮に成功したとしても、2人が生きている保証はない》
「おまけにズメイ砲の射程距離まで肉薄しなけりゃならない……あの氷の大艦隊を掻い潜って」
成功するかどうか、不確定要素があまりにも多すぎる乾坤一擲の一手。
仮に成功したとしてもエミリアとエリスの2人が吐き出されて帰ってくる保証などどこにもない―――そしてその2人が、生きているかどうかという保証も。
何もかもが不確定の、おぼつかない前提で組まれた危険極まりないアスレチック。それを無事に上り切ったところで待ち受ける結果が望むものであるという確証はないのだ。
しかし力也に、迷いはなかった。
「―――艦長」
「何ですかな?」
「報酬は、十二分に支払う……どうか、俺の妻たちを……祖国を、救ってやってはくれないか」
「そうは言われましてもねぇ」
仲間たちの顔を見渡すヴォイテク。
誰も彼も、目を見れば分かる―――腹を括ったような、己の命をヴォイテクの決断に委ねるような、戦士特有の目だった。
「―――んじゃ、派手な花火でも撃ち上げにいきますか。ねえ、速河殿?」
どう、と傷ついたソーキルの船体が前に出た。
それに連動するように、無人型のソーキル級やコマール級、そして後方に控えていたチェルノボーグ級やスラヴァ級戦艦たち―――協商連合の誇る艦隊の全てが、一斉に前進し始める。
どの艦も、決して無傷ではなかった。
中には駆逐艦に曳航されながら、なおも戦おうとする無人型ソーキル級の姿さえある。
それでも撤退という選択を見せないのは、全員が腹を括ったからだ―――人間も、AIも。
今ここで逃げれば、世界は氷と闇に閉ざされる。それが滅ぶべくして滅ぶというのであれば、それが運命だというのならば甘んじて受け入れよう。しかし個人のくだらない野望のために手繰り寄せられた滅びの運命であるというのならば、それは抗って然るべきだ。誰だって運命に抗い、足掻く権利がある。
《ソーキル艦長ヴォイテクより、作戦に参加する全艦艇に告ぐ》
総ての艦に、その声が送り届けられた。
それは煙草をふかし、酒におぼれる彼の声ではなかった。
天地戦争終戦後、実に8年ぶりに覚悟を決めた―――戦士としての声だった。
《地獄でも見えるくらいでかい花火を撃ち上げに行くぞ、続け!》




