紅い月が昇る夜に
『父なる祖国よ、母なる大地よ。汝が危機に瀕する時、誓って我は降り立ち共に戦わん』
ミカエル・パヴリチェンコ、キリウ大公ノンナⅠ世の戴冠式の場で発言
鳩尾に、冷水が溜まるかのような冷たい感触が沈殿していく。
じんわりと、足の裏に生じる湿った感触。心なしか息が上がり、心拍数が上がっていく感覚。本能が「今すぐ逃げろ」と声高に叫んでいるような気がして、しかし人間としての理性が、ここに戦うべき戦士としてやってきた使命感がそれをきっぱりと否定する。
息が上がっているのは、このすぐ上で生じている寒冷化現象と、その根源たる魔力的エントロピーの死熱化によるものではない。
緊張しているのだ、畏れているのだ。この先に待ち受ける強敵との戦いを。以前に完敗を喫した猛者との邂逅を。
正直、今すぐ帰りたい。自分の部屋にある毛布にくるまって、安物のスナック菓子をパクつきながら、カーテンを閉め切った部屋の中でFPSに興じ無駄な時間を過ごす……そんな堕落しきった、しかし幸せに満ちた休暇を送る事が出来たらいったいどれだけ幸せだろう? 自分の殻に閉じこもり、自分の見たいものだけを見て過ごせたらどれだけ心地よい事だろう?
ああ、最高だ。
それに炭酸飲料と、チーズたっぷりのピザがあればなおの事良い。
が、その権利を享受するのは全てが終わってからだ。
今の俺は―――戦うべき男としてここに来た。
世界を救う、なんて御大層な事は出来なくても……せめて、せめてその一翼を担う事が出来ればそれでいい。
……いいや、違う。
救うのだ、世界を。
争いを何度も繰り返し、38000年という永きに渡る暦の中で26回も文明を滅亡に導いた、愚昧極まる人間たちの世界であろうとも。
そんなヘドロに満ちた世界の中でも、必死に生きている人々がいる。希望を芽吹かせ、それを未来に繋げようとしている人々がいる。だからそんな世界を救うのだ。人々が全力で生きるこの世界を。いつかは変わってくれるかもしれない、人間たちの世界を。
そのためにも、俺はあいつを……ヘンリックを、止める。
息を吐き、決意を固めて階段を登り切った。
超巨大時計塔『クロムウェル』、最上階。
そこはまるで、灯台の最上部を彷彿とさせる空間だった。頭上には巨大な鐘が凍り付いた状態で鎮座しており、壁面には大穴が穿たれている。かつてそこには文字盤があったのだろう、とすぐに理解できたのは、内側に吹き飛ばされる形で崩壊した金属製の残骸の中に、巨大な時計の針の一部と思われる残骸も混じっていたからだ。
その広間の中央部。
大樹を彷彿とさせる装置が、そこにあった。
根元には無数のケーブルが樹の根さながらに放射状に延びており、幹に相当する部位にはアナログなタコメータやオシロスコープっぽいモニターが所狭しと並んでいる。さながらレトロフューチャーを題材した映画の世界、マッドサイエンティストの研究室を思わせる凶器に満ちた空間、というのが俺の抱いた感想だった。
そこに、あまりにも痛ましい光景さえ広がっていなければ素直にそう思えただろう。
「……っ!」
システムの表面、生じた氷に半ば取り込まれる形で磔にされているのは、間違いない……俺に魔術を教えてくれた師でありペンドルトン家の才女、エリス・シンシア・ペンドルトンその人だった。磔にされている彼女の胸元は深紅の光を灯しており、そこからは強引に引きずり出されるかの如く暴力的な量の魔力が散布されている。
人間の、通常の魔術師の魔力放射ではああはならないだろう。おそらく、彼女を取り込んでいる装置が強引に魔力を汲み上げているのだ。
エリスさん、と前に踏み出そうとして、しかし俺は凍り付いた。
氷で覆われた広間の中には、死体がいくつも連なっていた。
剣で両断されたと思われる死体、全てインフェルノの兵士と見て間違いないだろう。装置のすぐ近くの方には首から上を吹き飛ばされ、元がどんな姿だったのか判別できないほど損傷した死体もある。
だがまあ、そんな事はどうでもいい。
それよりも目についたのは―――傷だらけになって床に倒れ伏す力也と、氷の広間に仁王立ちしながら、ボロボロになったエミリアさんの首を剛腕でギリギリと締め付けるヘンリックの姿だった。
「ヘンリック!!」
奴の名を呼びながら、MARS-Hの銃口を向けた。
爛々と輝く紅い瞳が、ぎろりとこちらに向けられる―――それだけで、死を覚悟した。身体中の細胞の1つ1つが己の最期を悟ってしまったかのような恐怖。絶対に勝てない天敵と遭遇してしまった草食動物の心境。蛇に睨まれた蛙。
けれども、以前とは違った。
その殺気に、威圧感に抗うだけの余裕が生じていたのだ。
確かに一瞬、気圧された。逃げだしてしまいそうになった。覚悟を決めずにここに居たら、思わず失禁してしまっていたに違いない。
確かに怖い―――勝てるのか、と言われればNOだ。少なくとも今の段階では。
けれども、だからと言って逃げるという選択肢はない。
どれだけボロボロになってもいい。とにかく足掻き、足掻いて、足掻き抜いて、限界まで食らいつく。カッコ悪くたっていい、泥臭くたっていい。周りからの評価なんてどうでもいいのだ。成すべきを成せば、それでいい。
そんな使命感が、そして括った鉄心の如き覚悟が、踏み止まる力をくれた。
脳裏に浮かぶのはエリスさんたちと過ごした毎日や、今頃祖国スパーニャの孤児院で平和な毎日を過ごしているであろうマチルダ先生と、必死に生きているであろう弟妹達の姿。ここでヘンリックの思い通りにすれば、そんな皆の未来すら拭い去られてしまう。
ヘンリックの理想、戦争の中で戦い続ける世界―――言い換えれば、それは人間社会における弱肉強食だ。誰もが戦い、強い者だけが生を享受できる世界。自然の摂理で言えば確かに正しいカタチなのかもしれない。
だが、この世界は秩序ある人間社会だ。そうあるべきではないと、弱者だろうと生きる事を肯定すべきだと、先人たちが長い暦の中で己の流血も顧みず、1つ1つ積み上げてきた秩序で成り立っているのだ。ヘンリックがやろうとしている事は、それを全て崩しリセットしてしまおうという暴挙に他ならない。
以前とは違う事を見抜いたのだろう、ヘンリックの口元に笑みが浮かんだ。
「……エミリアさんを離せ」
「ほう……お前がここに来たって事は、ジャックの奴はやっぱり負けたか。クックックッ……」
どさり、と解放され、床に崩れ落ちるエミリアさん。身体が微かに上下しているので息はあるようだ。力也の方も同様っぽいが……まさかペンドルトン家当主と倭国最強の剣士が2人がかりで挑んでもなお、ヘンリック1人を止められないとは。
これ、やっぱり俺がどうにかできる相手じゃねえよな……。
いや、しっかりしろ。ビビるな。
息を吐いた。
ヘンリックは傷だらけだった。真新しい刀傷に火傷の痕……2mの巨躯に刻まれたそれらの傷跡が、決して力也とエミリアさんを相手に圧倒したわけではないという事を雄弁に物語っている。
ヘンリックだって無傷ではないのだ……2人との連戦で消耗している今ならば、俺にも勝ちの目が見えてくる。
「いやぁ、強くなったなぁ娘よ!」
はっはっは、と両手を広げながら嬉しそうに言うヘンリックの胸元に、しかし7.62×51㎜NATO弾で返答する。
いきなり撃たれるとは思っていなかったのか、それともその程度で死ぬはずがないと確信があったのか。いずれにせよヘンリックは避けもせず、胸元に7.62㎜の弾痕を穿たれ、46グレインの装薬が織り成す殺傷力に身を貫かれる事を良しとした。
被弾の衝撃で微かに身体を揺らし、口の端から血を流すヘンリック。
それでも痛がる素振りすら見せない―――むしろ興奮のボルテージが限界まで高まっていくような、やけに生々しい熱狂がこっちにも伝わってきた。
「クックックッ……クハハハハハハハハハハハハ!!!」
ぎち、と筋肉が収縮する。
強烈な圧力で傷口を圧迫するヘンリック。やがて、その殺人的な締め付けに耐えかねた弾丸が、骨に激突しひしゃげた状態で傷口から吐き出され、キンッ……と甲高い金属音を響かせ、氷の床を転がった。
「いいな……いい、いいぞラウル。やはりお前を生かしておいて正解だった」
「何を」
「確かになァ……蟲島で出会った時はどうしようもない弱者、カス以外の何物でもなかったが……どうだ、この淀みのない澄み渡った殺気! 躊躇の無い機械じみた殺意! そしてそれを支える戦技! 俺の臨んだステージに片足だけとはいえ見事に突っ込んでるじゃあねえか!」
「俺はお前とは違う!」
「いいや違わないね! お前は俺だ!」
傷口に指を突っ込んで穿り回し、溢れ出た鮮血に塗れた指先に舌を這わせるヘンリック。熱く、鉄の臭いに満ちたそれを摂取してスイッチを入れたのか―――目つきが一気に鋭くなった。
「さあ、やろうか」
「……」
―――戦いに、言葉は不要。
既に対話で解決できる段階は越えている。こうなってしまったら力で相手を屈服させるしかない。
引き金を引こうと指に力を込めたのと、ヘンリックが身体を大きく沈み込ませて動いたのは同時だった。
腕の筋肉の動きと指、目線―――そういった細かい要素で発砲のタイミングを推し量ったのだろう。俺も時折やるが、ヘンリックのそれは精度が桁違いだった。”撃つ前に動く”事が出来ている辺り、この男は飛び道具を持つ相手との戦いに慣れている。
重厚で奴の動きを追い、発砲。しかし7.62×51㎜NATO弾はヘンリックの肉体を穿つ事なく、氷の壁に激突して跳弾。微細な氷の破片を周囲に撒き散らすだけで終わってしまう。
身体中の細胞に生じる寒気。
理屈で理解するよりも先に、本能が身体を突き動かした。
咄嗟に飛び退いた直後、俺のいた場所を氷の散弾が突き抜けていった。
ごう、と風を引き裂くばかりの勢いで迫ったそれ。二発目、三発目が立て続けに飛来し、スライディングで姿勢を低くしながらなんとかやり過ごす。
ヘンリックが氷の魔術を使ったわけでは―――ない。
氷を利用したのだ。床や壁を覆っている氷の塊、それを強靭極まる握力で削り取るなり、殴りつけて粉砕。それをこっちに氷の散弾として撃ち出しているのである。
回避に回避を重ねながら、隙を見て7.62×51㎜NATO弾で反撃。氷の散弾とフルサイズのライフル弾という、文明水準に差があり過ぎる飛び道具の応酬が続く。
氷の散弾が軽く頬を切り裂き、冷たい感触と温かく鉄臭い液体が迸る感触を覚える。
流れ弾をエリスさんに間違っても当てないよう、射線には細心の注意を払いつつ空になったマガジンを投棄。マグポーチから予備のマガジンを引っ張り出して装着、手慣れた動作でボルトリリースレバーをぶっ叩きボルトを前進、初弾を装填。
この時点でジリ貧になりそうな気配を、何となく察していた。
このまま飛び道具でのパイ投げ合戦に雪崩れ込めば、所持弾数に制限のあるこっちが不利になる。おまけに相手は俺よりも遥か格上の相手、戦いが長引けば長引くほど不利になるのはこっちの方だ。如何せんヘンリックという狂人を前に、互角に戦える手札があまりにも少なすぎる。
―――使うか、あれを。
『約束してくれ、ラウル』
ぎり、と歯を食いしばり、目を細める。
『この力は―――”絶対に使うな”』
頭の中でリフレインする、ミカエルの言葉。
魔術適性の低さ、それを覆す術は存在する。
しかしそれは紛れもない禁忌―――ミカエルの警告は、きっと正しいのだろう。
でも―――それでも。
この世界を、守れるのならば。
仲間たちと笑い合える日常を、守れるのならば。
戦いの中、狂気に満ちたヘンリックの目。
真っ赤な瞳に映る俺は―――笑っていた。
「―――”術式開放”」
幼少の頃、母から聞いた事がある。
満月の夜、森に近付いてはならないと。
新円の月が昇る夜、それは恐ろしい狼が支配する世界なのだと。
浮遊大陸アルカディア、エンジェルパレス上層部にある空中庭園。
グラスドームの遥か向こう側。無数の星々が瞬く暗黒の海原の遥か先にある、血のように紅い満月を見上げながら―――椅子に座ったミカエルは膝の上のハクビシンを撫で、口元に微かな笑みを浮かべた。
「そうかそうか……ラウル、君はやっぱり約束を破ってしまうんだね」
絶対に使うな、と念を押したはずの秘術。
総てはこれから起こる事―――タイムラインに、未だ揺らぎなし。
だが、それでいい。
そうなると分かっていたからこそ、未来は決して揺るがないからこそ、ミカエルはその秘術をラウルに教えたのだ。
推定2億年以上の人生経験の中、とあるミカエルの中の1人が見出した秘術を。
身体中の細胞が、一瞬ばかり死んだのではないかと思った。
そんな錯覚を思わず抱いてしまうほどに、目の前で生じた変化は劇的なものだった。
ついさっきまでは、必死に足掻く愛玩動物を相手にじゃれるだけの余裕があった。このラウルという相手には、自分の血を分けた仔にはどれだけの引き出しがあるのか。蟲島での決定的敗北から何を得、何を学んだのか。
今までに得た力の全てを見せてもらおう、という高みの見物を決め込むが如き余裕すらあった。
が、しかし。
己の不利を早くも悟ったのであろうラウルが切ってきたのは―――よりにもよってジョーカーのカードだったのである。
「お前……なんだ、そりゃあ」
ヘンリックの顔から、笑みが消えた。
戦いを楽しむ余裕など、もう無い。
目の前で生じた、あまりにも禍々しい魔力反応。
それはまるで―――何かの間違いだと思いたくなる代物だったのだから。
魔術適性EXランクの天才魔術師、エリス。
まるでそんな彼女が―――もう1人出現したかのような、そんなレベルの反応だったのである。
もはやラウルは、楽しんで戦える相手ではなくなった。
後顧の憂いを断つべく、確実に排除するべき敵―――ヘンリックの本能は、そう結論付けていた。
「何をした……何をしたんだ、お前は」
爛々と輝く、紅い光の尾を曳く瞳。
背後に穿たれた壁の大穴、その遥か向こうに浮かぶ血のように紅い満月を背に立つラウル。
その周囲に屹立するのは、まるで鮮血を凍らせたかの如き禍々しく、しかし美しい氷の結晶だった。
時計塔最上部、1200㎡の空間に―――【第二の寒冷化の発生源】が生じた瞬間であった。




