氷の都に背を向けて
「―――始まった」
クラリスの奏でるピアノの旋律。ショパンのノクターンOP.9-2の美しく、しかしどこか儚げなメロディーに酔いしれながら、ミカエルは膝の上で丸くなり寝息を立てるハクビシンの背中を優しく撫でた。
報告を聞かなくとも、AIを介して現地の状況を確認しなくとも総てが分かる。この世界で起こっている事象は全て、事前に観測したタイムライン通りに推移しているのだから。
今、ロンディニウムで何が起こっているのか。
エリスの身に何があったのか。
そしてこれから何が起こるのか。
総てがミカエルの、小さな掌の上の出来事だ。
「失礼します」
広間のドアが開くなり、黒いスーツに身を包んだミカエルの妻―――シェリルが音も無く広間へと足を踏み入れた。手には現地からの情報を大量に受信しているのであろうスマートフォンがある。ひっきりなしにバイブレーションを繰り返すそれを見るだけで、現地の混乱ぶりが伺えるというものだ。
踵を揃えて敬礼するなり、シェリルはそんな混沌の坩堝とも言えるスマートフォンには目もくれずに報告を始めた。
「緊急事態です。浮遊大陸ブリタニアの首都ロンディニウムにて急激な寒冷化現象が観測されました。既に多数の死者、負傷者が出ている模様です」
スマートフォンの画面をタップするシェリル。画面から溢れ出た光が空中で映像を形作る―――立体映像だ。協商連合のスマホには標準で搭載されている機能である。
膝の上のハクビシンを撫でながら、ミカエルは視線を立体映像へと向けた。立体投影された映像の中では、ロンディニウムの市街地が氷に呑まれていく様子が生々しく映し出されている。連日の雨で濡れた石畳が凍り付き、増水したムーア川の濁流も凍結。地下に埋設された水道管も凍結して破裂し、そこかしこに鋭角的な氷の華を咲かせ始める。
雹の降り注ぐ空では凍結した霧がダイヤモンドダストの如く煌めき、しかしその遥か頭上では動力を喪失した空中艦が墜落。建物を粉砕しながら市街地に墜落し、束の間の閃光を発している。
阿鼻叫喚の地獄、とはまさにこの事か。
潜入していた工作員からの映像は、今まさに凍り付いていくムーア川から、停泊中だったソーキルがラウルたちを回収し離水していったところで終わった。
「皇帝は避難したんだな?」
「はい、いち早く帝室専用艦で離脱した模様です」
なんともまあ、と口元に嘲笑を浮かべるミカエル。彼女の膝の上のハクビシンが目を覚まし、大きなあくびをしてからミカエルの指をぺろぺろと舐め始めた。
「ノブレス・オブリージュ……権力と富を持つ者の責務、なってないじゃあないか」
「そうですね」
「まあ、いずれにせよそろそろだろうなとは思っていたよ」
「すべてタイムライン通り、というわけですか」
「ああ」
クラリスのピアノの演奏が終わった。
そっと椅子から立ち上がるなり、ハクビシンにおやつのチェリーを与えながら頭を撫でているミカエルからアイコンタクトを受けるクラリス。それに頷いて応じるなり、夫であり主に代わってシェリルに命令を下した。
「代表からのご命令です。直ちに第11、12、13艦隊をブリタニアに派遣なさい。モニカ艦隊及びリーファ艦隊にも出撃命令を」
「……それだけの艦隊を動かせば侵略行為と受け取られるのでは?」
「心配ありません、その辺の世論工作は私が上手くやります」
第11~第13艦隊には、それぞれ無人型のソーキル級が各艦隊に20隻ずつ割り当てられている。
総勢60隻にも及ぶソーキル級強襲型空中巡洋艦の大艦隊―――しかもその全艦に、フルサイズのものより出力上限を絞っているとはいえ、小型のズメイ砲が搭載されている。
通常使用時の出力となる10%でさえ、使い方次第では”核の冬”をもたらしかねない決戦兵器。今の協商連合では全艦に標準装備されている普遍的な兵器とはいえ、一撃で浮遊大陸を破壊しかねないそれを搭載した艦を60隻も動員する事が外交的に何を意味するのか―――それが分からぬミカエルではあるまい、とシェリルは考える。
下手をすればヘンリックに『協商連合は浮遊大陸の平穏を脅かす武装集団である』と世論工作に使われかねない。インフェルノの認知戦に対応していかなければならない協商連合として、付け入る隙を与えかねない大規模な軍事行動は厳に慎むべしというのが、上層部の共通認識であった。
おまけにモニカ艦隊とリーファ艦隊の旗艦は、フルサイズのズメイ砲を搭載した『スラヴァ級空中戦艦』―――冗談抜きで、ブリタニアを滅ぼせるだけの戦力である。
「現時点で投入可能な【コマール級駆逐艦】の数は?」
「15番艦が現在艤装を……失礼、たった今作業が終了し就役したそうです」
「よろしい。では投入可能なコマール級を5隻ずつ第11から第13艦隊へ編入。艦隊を臨時編成としブリタニアへ」
「了解しました」
本当にいいのですね、と念を押すようにミカエルの方を見るシェリル。
結果を含めて総てを知るミカエルは自信に満ちた笑みを浮かべ、首を縦に振るのだった。
「……わかった」
スマホの画面をタップしてポケットに押し込むなり、ヴォイテクは疲れ切ったような顔で、しかし微かな希望を見出し安堵したような笑みを浮かべた。
「ペンドルトンの分家と使用人は全員無事だそうです。凍傷を負ったメイドが何人かいるようですが命に別状はないと」
「良かった……」
極限の状態の中で、しかし微かにもたらされた小さな希望。
少なくとも身内に犠牲者は居ない、という情報は、絶望の中で荒み乾ききったエミリアの心に一滴の水のように染み渡っていった。
しかしその程度で、絶望という渇きが癒えるかと言われれば当然NOである。
確かに分家の者たちや、毎日の生活を支えてくれている使用人たちに犠牲者が出なかったというのは不幸中の幸いであろう。
が、あの災禍の渦中にいるのは間違いなく……。
「エリス……っ」
だん、と艦橋の壁に拳を打ち付けて、悔しそうに力也が声を漏らした。
戦いと剣術にばかり明け暮れているダメ夫、と言われがちだが、ある意味でエリスを最も気にかけていたのはこの男だった気がする……エミリアはそう思う。
皆が腫れ物に触れるように、彼女との接し方に困惑している中で、力也だけが変に距離を置く事も無くグイグイ接していた。エリスもエリスで異国からやってきた花婿の話にはいつも興味津々で、2人でいる時の姉はいつも楽しそうだったとエミリアは記憶している。
彼女にとっては大切な姉であり、力也にとっては大切な妻。
それを、『インフェルノ』を名乗るテロ組織に利用されたのだ。それも17年前、意図せずに故郷を滅亡の淵に追いやったエリスの内に眠る力を利用するという、冒涜極まる方法で。
「……艦長」
「どうした」
「ロンディニウムを中心に発生した寒冷化現象の影響が徐々に拡大しつつあります」
「何だと?」
驚きながら駆け足になり、クラルテの席にあるモニターに食い入るように視線を向けたのはエミリアだった。複数のモニターに表示されるウィンドウの中では折れ線グラフや様々な数値が増減を繰り返しており、専門の教育を受けていないエミリアにとってはどれが何を意味しているのか全く分かったものではないが……しかし、ロンディニウムの地図にかぶせる形で表示されている紅いマップが段々と広がっている事だけは、はっきりと分かった。
「このままではブリタニア全土が……いえ、下手をすれば世界全域が魔力的エントロピーの死熱化の影響を受けます」
「……ルシフェル」
《応答のリクエストを確認》
艦に搭載されているAI『ルシフェル』のサブフレームに、俺は何となく問いかけてみた。
「もし仮に、このまま順調に寒冷化現象が進行した場合、世界全土が氷に閉ざされるまでの猶予は?」
《……計算が完了しました。気象条件を計算に入れない場合、【365日と15時間32分47秒】と推定》
AIは忖度しないし、話す意見に忌憚も無い。
ただ淡々と突きつけられる現実はどこまでも鋭利で、残酷だった。人の心など簡単にへし折ってしまうほどに。
ちらりと窓の外を見た。
現在、ソーキルはロンディニウムから75㎞離れた空域に待機している。既に凍てついた首都ロンディニウムは遥か彼方、という地点ではあるが、しかしこの辺の天気も雨から雪や雹に変わりつつあった。ガンガンと艦橋や甲板を、握り拳ほどはあろうかというサイズの雹が殴りつけてくる。
ここにあの寒冷化現象の影響が及ぶのも、時間の問題であろう。
「……エリスさんを止めなきゃ、第27文明が終わる」
「それだけじゃない」
葉巻に火を点けながら、ヴォイテクは低い声で淡々と告げた。
「俺たちの後に続くであろう第28文明も生まれるかどうか」
文明滅亡どころの話ではない―――この世界における、人類滅亡の瀬戸際だ。
文明を、命を、ヒトの営みを、記録を。その一切合切を途絶えさせてしまう特大の時限爆弾に、スイッチが入ってしまったのである。
「艦長、エンジェルパレスからです。現時点で出撃可能な全戦力をこちらに向かわせている、と」
「……そうかい」
分かり切っていたような、まるで思い描いていた展開が現実になったような、そんな何とも言えない感じの表情を浮かべながら、艦長の軍帽を目深に被って席に腰を下ろすヴォイテク。
きっとミカエルは、こうなる事も全部お見通しだったのだろう。
知ってて、何も言わなかった。
もっと早く情報を知らせておけば、防げた事なのに。
そう憤る一方で、仕方のない事だとも思っていた。
そうやってミカエルの予知能力に頼ってばかりでは、肝心な俺たちが育たない。代替不能な特定の個人に過度に依存する事がどれだけ危険なのか。そのリスクを弁えていない俺でもない。
総ては俺たちの不甲斐なさが招いた種だ。
それが滅びの芽を出そうとしているというのなら。
―――摘み取る責任は、俺たちにある。
腹を括りながら、仲間たちの顔を見渡した。
みんな、気持ちは1つだった。
「決まったようだな」
最悪な状況の中、艦橋に集まったギルドの仲間と来客3名の顔を見渡しながらヴォイテクは宣言した。
「これより本艦は協商連合艦隊と合流後、ロンディニウムへと突入。エリス救出作戦及び世界寒冷化阻止作戦を決行する!!!」
第十一章『広がる血脈』 完
第十二章『絶対零度の魔女』へ続く




