魔女の住処
ローディングゲートからスラグ弾をチューブマガジンに滑り込ませ、喉の奥からこみ上げる悪態を必死に噛み潰す。
軍人だった父がよく口にしていた事だ。困難な局面でこそ、指揮官は弱音を吐いてはならない。指揮官の絶望は恐ろしい速度で部下へと伝播して、士気を著しく低下させてしまう。
戦う意思のない軍隊が勝利した試しはない。だからこそ指揮官たる者、気丈に振る舞わなければならないのだ。
ちらりとロザリーの方を振り向いた。幸い彼女は表情はそのままだ……胸の内では孤立無援の状況に先の見えない不安を感じているのだろうが。
しかしそれが顔に出ていないのならば、彼女もまだ折れてはいないという事に他ならない。少なくとも今は、だが。
「……」
息を殺し、音を立てないよう細心の注意を払いながら、今の置かれた状況を整理する。
支援なし、通信手段なし、退路なし。
残弾はまだあるが心許ない。ゾンビ相手に一戦交えてもいいが、補給の見込みがない以上は無用な戦闘は避けるべきだろう。
しっ、とロザリーに止まるよう促し、巨大な樹の根の影に 隠れる。
ずん、ずん……と響く地鳴りのような足音。聴いたこともない重量感のそれ。まるで伝説にのみ存在する巨人族のようだ。
いったいどんな化け物が、と好奇心を刺激されるが、身を乗り出して目視確認したくなる衝動をぐっと堪えた。今はとにかく見つからない事を第一にするべきであり、好奇心を優先して発見されるような事があってはならない。
最愛の妹を伴っているならば尚更である。
ずん、ずん……と足音が近付いてくる。
心臓の鼓動が高鳴り、血管が張り裂けそうになった。緊張のあまり高圧ポンプと化した心臓が、水圧カッターみたいな勢いで血流を加速させやがる。
ベキベキッ、と枝が折れる。
『キィィィィィィ!』
断末魔。
おそらく鹿だろう。こんなゾンビだらけの森でまだ生きている鹿がいるとは。
ぐちゃぐちゃと肉をミンチにするような湿った音。ぼたっ、と泥の上に身体を引きちぎられた鹿の生首が落ちてきて、ロザリーが声にならない悲鳴を上げそうになった。
咄嗟に妹の口を塞いで抱き寄せる。まだ痙攣していた鹿の生首がじっとこちらを見つめてきて、口が恨み言の一つでも言い残したがっているようにパクパクしている。
しかし次の瞬間、じゅるりと伸びてきた腐肉の触手みたいな何かが、イソギンチャクの如く鹿の生首を絡めとり、霧の立ち込める森の中へと引きずり込んだ。
ずん、ずん……と足音が遠ざかっていく。
鼻孔を刺し穿つ強烈な腐臭。
ミルクのような白さの霧が充満する森の中に、巨大な人影の後ろ姿が浮かび上がった。
それは獲物を探し求めるかのように、目測で2mはあろうかというサイズの頭をキョロキョロさせながら、森の中へと消えていく。
「なんだ今のは」
巨人……?
あんな魔物いたか、と頭に詰め込んだ知識を参照する。目測だが10m以上はあった。いくらトロールでもあそこまでは大きくなることはない。永い年月を経て成長した長寿個体『エルダー』と呼ばれる個体でもだ。
それにあの腐肉みたいな触手と強烈な腐臭。どちらもトロールが持たないものだ。
もしやあの巨人はゾンビの成れの果てなのではあるまいか。
しかしゾンビがあんなに巨大化するなんて……となかなか現実を受け止められない。
だが幻を見たわけでもない。俺たちは正気だ。
いずれにせよ、あの「巨人」とラウルたちが遭遇しない事を祈るしかない。手持ちの火力であれと戦うのはさすがに自殺行為が過ぎるというものだ。
腐臭も、そしてアノマリーの気配も遥か背後に遠ざかると、いよいよ森は深さを増していった。姥捨ての森、と名付けられ、口減らしのために子や老人を捨てる場所となって久しいのだろうが、しかしさすがにこんな深いところまで人を捨てに来たり、捨てられた子や老人が来る事はなかったらしい。
人の気配は無く、先ほどまでの禍々しい空気と打って変わって静寂に満ちた大自然が広がっていた。
腐葉土の匂い、樹の匂い、水の匂いに花の匂い。
緑と枝の天蓋から差し込む木漏れ日を浴び、慎ましくも咲き誇る花たち。
それらの香りに異臭が混じったのは、風向きが変わってからだった。
異臭、と表現したが悪臭というわけではない。むしろ甘ったるくていい香りで、子供たちならば簡単に引き寄せられてしまうであろう。
バターとチョコレートの香り。
「これ……」
「お菓子……よね?」
こんな深い森の中で?
『エンゲルの魔女』の住処として恐れられている森の中で?
誰かがこんな殺伐とした森の奥深くでスイーツバイキングでもかましているのだろうか、と思いたくなるほど甘ったるい匂いだった。カロリーが気になるレベルの砂糖にカカオの香りがする。
警戒しながら巨大な樹の根を越え、倒木を迂回し、やっとの事で奥へと進んだ俺とロザリー。
苔に覆われた樹の根をよじ登ったロザリーは、俺より先にそれを目にして凍りついた。
どうした、と妹に問いかけ、しかし俺も同じく凍りつく。
「兄さん、あれ……」
「……なんだよ、あれ」
視界の先に鎮座していたのは、【お菓子の家】だった。
比喩表現などではない、マジだ。
壁はイチゴチョコでコーティングされたクッキーで出来ており、窓は透き通った飴で構築されている。屋根板は板チョコになっていて、煙突はクリームを塗りたくられたドルツ伝統のバウムクーヘンだ。
家だけじゃない。柵もチョコレートで出来ているし、庭の芝生や花壇の花もよく見ると飴細工になっている事が分かる。
戦後のハイパーインフレに喘ぐドルツではまずお目にかかれないような、とんでもない代物だった。
「……」
ぐう、とロザリーの腹が鳴る。
彼女も空腹なのだ。
無理もない。俺たち竜人は高い身体能力を誇るが、対価として1日に凄まじい量のカロリーを消費する。だから食べる量は竜人の比ではなく、発熱量も多くなるため竜人は皆平熱が38℃なのだ。
しかし……しかしである。
なぜこんな場所に?
甘い香りに食欲を刺激されながらも冷静に考える。こんな森の中にお菓子の家があるなんておかしい。絶対におかしい。
姥捨ての森だの魔女が出る森だの言われている場所の深奥に、ででんと鎮座する謎のお菓子の家。いったい誰が何の目的で用意したのか、衛生的に大丈夫なのか。色々と疑問がこみ上げてくる。
「ロザリー、周囲を警戒しr」
「もはっは(わかった)」
「ってうぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
牧場とかにさ、いるじゃん。牛さん。カウベルをカラコロ鳴らしながらもっさもっさと牧草を食べてる牛さん。肉牛でも乳牛でもいい。
あんな感じだった。ウチの妹今あんな感じだった。
お菓子の家の周りに生えてる草……おそらくは飴細工か何かなんだろうが、それを口一杯に詰め込んでモグモグしながら親指を立てている。
「おまっ、バカ! 吐き出しなさい! ぺっぺしなさい早く!」
「もごごー!」
「何でお前は小さい頃からなんでもかんでも口に入れるんだ!?」
いやまあ、幼少の頃におままごとでガチの泥団子を食べ始めた時に比べればまだ可愛い方だろうが……いやそうでもないか。安全かどうかもわからんもの食べてる時点でだいぶアウトだよ馬鹿野郎。
やめなさいやめなさい、とロザリーを止めて、ウィンチェスターM1897を構えて周囲を警戒する。
先ほどから脳裏に嫌な予感が―――というか、危惧している事がある。
―――このお菓子の家は魔女のものなのでは?
あり得ない話ではない。
魔女は森の奥に棲む―――旧くから言われていた伝承とは一応符合している。
それに今のドルツの荒れ具合を考慮すれば、こんな家を建てられるだけのお菓子を用意するのがどれだけ困難なのかは言うまでもあるまい。
「おいひい」
「お前はもう少し警戒しろ」
ついにはクッキーの壁を齧り始めるロザリー。ずびし、と妹の頭をチョップしてから引き離すと、窓の中を警戒しながら覗き込んでみた。
家がそうであるように、家の中も美味しそうなお菓子で出来ていた。床も壁も天井も、家具もそうだ。テーブルはビスケットで出来ていて、クローゼットはよく見るとビターチョコだ。
しかし住人の姿が見当たらない。
留守なのか、それともどこかに潜んでいるのでは―――。
ガチャ、とビスケットで出来ているドアが開く。多分、人生でこんなに死ぬほどドキリとした経験は後にも先にもないだろう(あってたまるか)。
半ば反射で銃口を向けるが、その先に居た人物の姿を見て思わず息を呑んだ。
一流の職人が仕上げた白銀の織物のような、さらさらと流れる長い銀髪。
肌は雪のように―――というよりも、色素という概念が存在しないかのように真っ白で透き通り、迂闊に触れたら崩れてしまいそうな危うさすら醸し出している。
顔立ちは人形のように整っていて、口許には柔和な笑みが浮かんでいた。それは相手を誘惑するだとか、そういうものではなく、まるで背伸びして自分が大人だと主張する子供を微笑ましく見守るかのような、「母性」すら感じられる。
思わず見とれてしまう美貌と母性。
しかしそれに身を委ねてしまうにはあまりにも危険な記号がある。
―――彼女が身に纏う魔女の服。
黒いローブにも見えるそれ。紫色のアクセントで彩られたケープがあり、頭には尖った魔女の帽子がある。
まさかこの女が【エンゲルの魔女】なのか。
敵意がない事を伝えるために、銃を下ろして手を挙げた。あくまでも目的は調査であって、魔女を排除することではない。まあ相手が敵対的ならば射殺許可も下りているからやるしかないのだが。
ロザリーにも銃を下ろすよう目配せする。敵対せずに済むならそれに越したことはないのだ。
「……あらあら、ずいぶんと珍しいお客さんねぇ」
流暢な竜人語だった。
背筋が凍る―――瞳の形状を偽装する特殊コンタクトに、角を隠すための帽子をかぶっているのだ。竜人としての外見的特徴はすべて隠匿してあるはずなのに、なぜ見抜かれた?
「さあ、どうぞ中へ。温かい食事を用意してるわ。外は危ないから」
さあ、と促され、ロザリーと目配せをしてから警戒しつつ言われた通りにする。
これからどうなるのか―――不定形の不安が、胸の中で渦巻いていた。




