第394章 迫り来る牙――ボアマン獣皇急死の余波
今のフィルードには、これ以上有効な手はなかった。
結局のところ――
静観するしかない。
(……あと数年だ)
もしあと数年の発展時間さえ与えられれば。
その時は、こちらから先に動く。
キプチャク国とボアマン王国。
この二つに対して先制攻撃を仕掛け、戦火を相手の領土へ押し返す。
だが今はまだ早い。
王国の基盤は成長しているとはいえ、決定的な差を作るには時間が足りない。
無理に戦えば、こちらも大きな損害を出す。
それだけは避けなければならない。
フィルードは思考を切り替え、すぐに新たな命令を出した。
エレナとメイヴを呼び出す。
二人には大鳥に乗って両国境を絶えず偵察させた。
空からなら、敵の動きは隠せない。
もし異変があれば、即座に帰還し報告する。
王国の空は、すでにフィルードの目そのものだった。
その予感は、やがて現実になった。
ボアマン国境地帯では、徐々に状況が変わり始めた。
最初は小さな変化だった。
だが確実に数が増えていく。
ボアマンに率いられた小規模な略奪隊が、頻繁に国境を越えて奇襲を仕掛けてくるようになったのだ。
さらに――。
ドヴァ城方面でも異変が起きた。
キプチャク国の哨戒隊が、突然増え始めたのである。
その報告を受けた瞬間、フィルードは静かに呟いた。
「……やはりな」
疑いは消えた。
ボアマンとキプチャク。
この二者は、確実につながっている。
つまり――。
王国規模の戦争が、再び迫っている。
(ならば、備えるだけだ)
フィルードは迷わなかった。
まず定獣城付近の守備軍団から、三分の二の兵力を抽出する。
そして後方へ移動させた。
定獣城は後方拠点だ。
牛頭城と耀獣城が突破されない限り、戦火がここまで届くことはない。
つまり今必要なのは、前線の強化だった。
さらにフィルードは、敵の主攻方向を予測していた。
――耀獣城。
そこは元々、ボアマンの土地だった。
奪われた土地を取り返す。
それが最も自然な行動だ。
一方、牛頭城は元からボアマンの領地ではない。
攻撃優先度は低い。
フィルードの視線は、次にレーガンの領地へ向いた。
彼が守る町は、ボアマン国境にかなり近い。
前線には一、二の町が挟まっているとはいえ――
もしボアマンが本気で攻めてきたら。
ここまで到達するのは決して難しくない。
だからこそ、フィルードは情報を流した。
「ボアマンが攻めてくる可能性がある」
この一言だけで、辺境全体の空気が一変した。
守備軍団は巡回を強化し、毎日周囲を警戒するようになった。
地元の獣人領主たちも敏感だった。
彼らは部落の住処をこっそり移動させ始めた。
守備軍団の営地に近い場所へと。
何かあれば、すぐに守備軍団に頼れるようにするためだ。
その中でも、特に警戒していたのが――
クルミの花領主だった。
彼は新しく手に入れた馬に乗り、毎日のように周囲を偵察している。
少しでもボアマンの気配を感じ取るためだ。
この馬は、近隣の城から高値で購入したものだった。
代価は――
羊百頭。
そして根薯干し一万ポンド。
それでも簡単には手に入らなかった。
レーガンが昔の上司に頼み込み、ようやく入手できたのだ。
王国内では深刻な馬不足が続いている。
領主クラスでさえ、簡単には手に入らない貴重品だった。
ある日。
レーガンは遠くの平原を見て、眉をひそめた。
砂煙。
しかも――異常に速い。
よく見ると、一頭の馬が猛烈な速度でこちらへ向かってくる。
乗っているのは――クルミの花領主だった。
レーガンは瞬時に異変を察した。
すぐに営寨の城壁へ駆け上がる。
やがてクルミの花は営寨の外まで駆け込み、馬を止めると叫んだ。
「レーガン守備官に伝えろ! 急ぎだ!」
その声に、城壁の上からレーガンが顔を出した。
「クルミの花領主、どうした?」
「そんなに慌てて」
クルミの花は荒い息を整えながら言った。
「ボアマンだ……!」
その言葉だけで、すべて理解できた。
しばらくして。
クルミの花領主は、部落の者たちと共に営寨へ現れた。
牛や羊の家畜を連れ。
さらに部下たちは、大きな荷物を背負っている。
その光景を見た瞬間、レーガンは呆然とした。
完全な避難だ。
クルミの花は少し気まずそうに笑った。
「レーガン兄弟」
「人間はまあいい。俺が連れて逃げ回ればいい」
「最悪、この辺りの山を一つ守ってゲリラ戦くらいはできる」
そこまで言うと、彼は荷物を指さした。
「でもな……問題はこれだ」
食糧だった。
大量の袋が積み上がっている。
「もし俺たちが全滅したら、この食糧はあいつらの物になる」
「それはさすがに悔しすぎる」
クルミの花は苦笑した。
「それに、こんな量を持って逃げるのも無理だ」
「だから……」
「一旦この食糧を守備軍団に預けたい」
「危機が去ったら取りに来る」
「どうだ?」
レーガンは一瞬たりとも迷わなかった。
「いいだろう」
すぐに兵士たちへ命令を出す。
クルミの花部落の食糧はすべて営寨の倉庫へ運び込まれた。
袋が次々と積み上がっていく。
そして――
その作業が終わった直後だった。
遠くから戦鼓のような足音が響いてきた。
敵が来た。
最初に現れたのは――
百名のボアマン。
全員が鉄甲を装備している。
その後ろには九百名の豚頭族。
多層の皮甲を着込み、整然と並んでいた。
一目で分かる。
これは略奪隊ではない。
――正規軍団だ。
営寨の前まで進み出たボアマンの将領が、周囲を見渡して眉をひそめた。
「この多種族の雑魚ども……」
「どうしてこんなに早く寨を築いている?」
彼は鼻で笑った。
「まるで穴を掘るネズミだな」
そして部下へ命じる。
「行って交渉しろ」
「食糧一万ポンド」
「羊千頭」
「牛十頭」
「それを差し出せば、我々は去る」
少し間を置き、冷たく言った。
「さもなくば強襲する」
「寨が落ちた日には――」
「生き物一匹残らず皆殺しだ」
その言葉を、敵側のジャッカルマンが大声で叫んだ。
寨の中でそれを聞いたレーガンの顔が険しくなる。
だが彼はすぐに部下へ命じた。
「怯むな」
新兵のジャッカルマンたちがうなずく。
レーガンは城壁の上から怒鳴り返した。
「裏切り者のボアマンども!」
「お前らの獣皇はついこの前、うちの陛下と契約を結んだばかりだ!」
「その老獣皇が死んだ途端に攻めてくるとは何だ!」
「恥も道義もないのか!」
そしてさらに声を張り上げる。
「それに――」
「お前らの獣皇の死、本当に自然だと思ってるのか?」
「食糧をよこせだと?」
レーガンは城壁を叩いた。
「絶対に渡さん!」
「欲しいなら、自分で取りに来い!」
その瞬間、ボアマン将領の顔が怒りで歪んだ。
「……よし」
彼は短く命じた。
「攻めろ」
すぐに兵士たちは周囲の森へ散り、木を切り始めた。
簡易攻城梯の製作だ。
守備軍団の木寨は高さ七~八メートル。
石の城壁よりは弱い。
やがて数十、いや百近い梯子が完成した。
そして――
ほとんど間を置かず。
獣人たちは梯子を担ぎ、一斉に突撃してきた。




