第393章 迫り来る嵐と大春耕
使者は深く頷き、最後に細かな条件をいくつか確認すると、ケンタウロスの使節団は静かに去っていった。
フィルードはその背中をじっと見送りながら、無意識に眉を寄せた。
――嫌な気配だ。
今回の来訪は、単なる外交交渉ではない。
むしろ、北方に漂い始めた危機の前触れのようなものだった。
もし本当に北方の寒冷化が進んでいるなら、問題は食糧だけでは済まない。
草原が痩せれば、青草さえ不足する。
そうなれば――。
「……連中は必ず南に降りてくる」
新生王国にとって、それは致命的だ。
今回、フィルードが追加で五百万ポンドの食糧を与えたのも、決して慈悲などではない。
単純な話だ。
――今は刺激するべきではない。
草原の狂人たちが本気で略奪を始めれば、こちらも無傷では済まない。
今の王国はまだ発展途上だ。
だが、あと数年。
あと数年の時間さえ稼げれば――。
(その時は、ケンタウロスなど脅威ですらなくなる)
フィルードは静かに息を吐いた。
問題はケンタウロスだけではない。
ボアマンの動きも読めない。
さらに南には人族の王国、そしてドワーフの勢力。
――完全な四面楚歌だ。
今の段階で新しい敵を作る余裕はない。
だが同時に、ケンタウロスと本当の意味で友好を結ぶつもりもなかった。
草原の民の流儀など、嫌というほど知っている。
利益がある時は兄弟。
利益がなくなれば――ただの獲物だ。
今回だってそうだ。
協力した直後に牙を剥いてきた。
もし自分が少しでも弱腰を見せていたら――
あの場で狼の群れのように襲い掛かってきただろう。
(……だからこそ、油断は禁物だ)
今回の食糧は、平和を買ったわけではない。
ただ、時間を買っただけだ。
そして今のフィルードにとって、何よりも価値のある資源は――時間だった。
この件を片付けた後、フィルードは峡谷領地へ戻った。
ここでは、王国の軍事力を根本から変える計画が進んでいる。
ドワーフと犬頭族が大量に加わったことで、領地の冶金技術は一気に飛躍した。
鎧や武器の生産速度はもちろん、青銅の大量生産も可能になった。
銅地金は次々と馬車で運び込まれ、峡谷の工房へと送られていく。
現在、獣人たちはまだ貨幣という概念を理解していない。
そのため通貨制度の導入は一旦保留していた。
すべての青銅は――
青銅砲の製造に使われている。
フィルードは野戦運用を前提に、すべて小型砲に統一した。
砲身重量は約二百ポンド。
底座を含めても二百四十ポンド程度。
砲身は後部を厚く、前部を細くする独特の設計になっている。
火薬の爆発圧力に耐えるための構造だ。
この形状は、フィルードが何度も試作を繰り返し完成させたものだった。
最大射程は二百~三百メートル。
ただし、百五十メートルを超えると精度は急激に落ちる。
それでも十分だった。
フィルードは各千人隊に二門ずつ配備する計画を立てている。
直属軍団の規模を考えると、必要な砲は合計二百門。
(これだけあれば十分だ)
もし将来、ドワーフの重装歩兵軍団と正面から衝突したとしても――。
青銅砲で隊列を叩き崩し、
その隙に近接戦闘へ持ち込む。
それだけで敵軍は崩壊する。
まさに破陣兵器だ。
この青銅砲は構造も比較的単純で、量産も難しくない。
問題はただ一つ。
――時間。
だが、それもいずれ解決する。
そして春。
王国全体は、かつてないほど忙しい季節を迎えていた。
今年の春耕は、昨年とは規模がまるで違う。
根薯の作付面積は――
千エーカー。
前年の倍だ。
フィルードは各領地に対し、特別な事情がない限り最低でも半分は栽培するよう命じていた。
さらに各部落にも守備官を通じて説得を行い、栽培を推進させた。
もし戦争で食糧不足が起きても、この根薯が王国の食糧庫を支える。
春の間、王国は慌ただしく動き続けた。
だが今年は大きな違いがある。
昨年の成功を経験したことで、部落の領主たちが非常に協力的だったのだ。
彼らは自ら町へ赴き、苗を購入し、積極的に植え付けを行った。
すでに成果を得た部落では――
さらに栽培規模を拡大している。
その報告を聞いた時、フィルードは小さく頷いた。
(人間も獣人も同じだ)
利益を見れば、自分から動く。
それでいい。
むしろそれこそが理想だ。
王国は、確実に成長していた。
だが――
そんな矢先、衝撃的な情報が届いた。
元ボアマン部落の獣皇が、突然急死したという。
そして後継者には末子が即位した。
報告を聞いた瞬間、フィルードの表情が固まった。
ボアマン獣皇はまだ壮年だった。
こんな死に方が自然なはずがない。
誰もが同じ疑問を抱いた。
――裏がある。
そしてこの事件は、重大な意味を持っていた。
フィルードが以前結んだ和平条約。
それは、前獣皇とのものだ。
つまり――
今この瞬間、その条約は無効になった。
ボアマンが奇襲してくる可能性は十分ある。
フィルードは舌打ちした。
(……最悪のタイミングだ)
今の王国は絶対に戦争を避けたい時期だ。
だが状況は、彼の望みとは逆に動いている。
フィルードは即座に命令を出した。
直属軍団一万名を辺境へ派遣。
さらに現地守備軍団へ警戒強化を指示した。
しかし――
事態はそれで終わらなかった。
今度はキプチャク国から国書が届いた。
フィルードは封を切り、内容を読んだ。
そして――
思わず言葉を失った。
国書の内容は、ほとんど罵倒だった。
フィルードの王国を正式な国家と認めない。
さらにドヴァ城を割譲せよと要求。
拒否すれば、近日中に大軍を派遣して攻撃する――
そう書かれていた。
それだけではない。
フィルードが獣人を大量に組織し、
人でも獣でもない王国を作ったことは、
人間世界への重大な脅威だ。
国書は何度もそう非難していた。
フィルードは手紙を閉じ、しばらく沈黙した。
(……妙だ)
つい最近まで、キプチャク国は穏やかな態度だった。
それがなぜ、急にここまで強硬になったのか。
長い沈黙の後――
フィルードはようやく答えに辿り着いた。
まず一つ。
キプチャク国は、フィルードの戦力を過小評価していた。
だが現実には――
彼はアモン王国から巨大な領土を奪い取っている。
さらに北方には広大な土地がある。
一年間の調査で、キプチャク国もそれを理解した。
加えて国内の反乱が奇跡的に鎮圧されたことも知った。
それらを総合して、彼らは気づいたのだ。
――自分たちは、とんでもない敵を育ててしまった。
しかもその敵は、アモン王国より強い。
そして侵略性も高い。
だからこそ今。
王国の基盤がまだ弱いこの瞬間に――
戦略的緩衝地帯を奪おうとしている。
フィルードの目が細くなった。
その時、ふと思い出した。
ボアマン獣皇の突然死。
(……まさか)
もしこの件にキプチャク国が関わっているとしたら――。
考えがそこに至った瞬間、フィルードは即座に決断した。
さらに直属軍団一万名を抽出。
ドヴァ城へ増援として派遣する。
静かに立ち上がりながら、フィルードは呟いた。
「……どうやら、嵐が来るらしいな」
だが。
その嵐を迎え撃つ準備は、すでに始まっている。




