第389章魔魚と失われたゴブリン文明
フィルードは、相手がついに折れたことを見て取ると、わずかに放っていた威圧の気配を引っ込めた。
恐怖だけで従わせるのは簡単だ。だが、それでは真実には辿り着けない。
この部族が持つ「秘密」を引き出すには、追い詰めすぎない方がいい。
(……ここまで来て、無意味な殺し合いをする気はない)
そう判断したフィルードは、顎で「案内しろ」と合図した。
ゴブリンの首領は「ウー……」と低く唸りながら頷き、先頭に立って歩き出す。
一行はその後を追い、谷の奥へと進んでいった。
右へ、左へ。
狭い岩道をいくつも抜け、やがて崖壁の陰に隠れるようにして、極めて小さな洞窟が姿を現した。
洞口は驚くほど狭い。
大ゴブリンですら、身体を横にしなければ通れないほどだ。
まして鎧を着込んだフィルードたちでは、そのまま入るのは到底不可能だった。
「……なるほど。隠し通路か」
フィルードは小さく呟いた。
そして背負っていた上位長槍を取り出すと、躊躇なく洞口に叩きつけた。
ドゴォンッ!
岩が砕け、破片が飛び散る。
数度打ち込むと、洞口は人間でも通れるほどまで広がった。
(力こそ正義……とは言わないが、こういう時は便利だ)
軽く槍を振って粉塵を払うと、フィルードは先に立って洞窟へ足を踏み入れた。
そして――
中に入った瞬間、全員が思わず息を呑んだ。
洞窟の内部は、外から想像できないほど広大だった。
天井からは無数の鍾乳石が垂れ下がり、岩壁には石筍が林立している。
自然が何万年もかけて作り上げた地下世界だ。
(これは……)
フィルードの目が細くなる。
彼はすぐに理解した。
(間違いない……地下暗河だ)
自分の領地にも存在する、あの地下水脈。
だが、ここは規模が桁違いだった。
洞窟の奥へと進むにつれ、湿った冷気が濃くなる。
やがて、耳にかすかな水音が届き始めた。
さらに進むと――
ついに、地下暗河が姿を現した。
水量は驚くほど豊富で、幅も広い。
この一帯は流れが緩やかで、深く静かな水域になっている。
フィルードは河辺に立ち、松明を掲げた。
揺れる炎の光が水面を照らす。
すると――
「……魚か」
水中には、かなりの数の魚が泳いでいた。
しかも、人影を恐れる様子もなく、河岸のすぐ近くを悠然と泳いでいる。
手を伸ばせば掴めそうな距離だ。
(なるほど……)
フィルードは納得した。
ゴブリンたちが大量の魚を持っていた理由。
すべて、この地下河から取っていたのだ。
その時、ゴブリン首領が水中を指差した。
「ウー……ウー……!」
どうやら説明しているらしい。
――魚はここから取っている。
そんな意味だろう。
フィルードは無言で相手を見た。
(……俺を馬鹿だと思っているのか)
その程度の事実は、最初からわかっている。
本当に知りたいのは――
なぜ、この魚が存在するのかだ。
フィルードは目を閉じた。
精神を集中し、周囲の魔力を探る。
洞窟内をゆっくり歩きながら、何度も位置を変えて感知を試みた。
だが――
特別な魔力反応は見つからない。
(……違うのか?)
そう思いかけた、その瞬間。
水中で、わずかな魔力の動きを感じた。
フィルードは目を開き、水面を凝視する。
すると――
指ほどの長さの白い細魚が、シュッと泳ぎ去った。
その瞬間。
フィルードの口元がわずかに歪む。
(……やはりな)
あの魚。
確かに魔力を帯びていた。
しかも、少なくとも初級見習い級。
(魚が魔力を持つ……)
普通ではあり得ない。
つまり――
この地下河には、必ず魔力源が存在する。
フィルードは完全に確信した。
だが、ゴブリンからこれ以上の情報を引き出すのは難しい。
言葉が通じないからだ。
そこで彼は洞窟の内部をさらに探索することにした。
少し進んだところで――
「……これは」
岩壁に描かれた大量の壁画を発見した。
フィルードは松明を近づけ、じっくりと観察する。
壁画はかなりの数があり、しかも順序立てて描かれている。
最初の絵。
そこには多くの大ゴブリンが描かれていた。
周囲には無数の小ゴブリン。
皆で魚を捕っている。
背景は――
まさにこの地下暗河だ。
二枚目の壁画。
魚の収穫。
普通の魚もいるが、特に強調されているのは白い鱗の魚。
(……さっきの魔魚だ)
フィルードはすぐに理解した。
その後の壁画は、部族の発展を描いていた。
大量の大ゴブリン。
魚をむさぼり食うゴブリンたち。
しかし――
絵が進むにつれ、空と大地が黒く塗りつぶされていく。
そして、大ゴブリンの数が激減していく。
再び魚を捕る場面になる頃には、白鱗魚は明らかに減っていた。
さらに続く絵。
そこには――
ジャッカルマンとの戦争が描かれていた。
結果は敗北。
ゴブリンたちは谷へ逃げ込み、入り口を封鎖する。
それが、今の状況だ。
フィルードは腕を組んだ。
(なるほど……)
これで全体像が見えた。
昔、この地下河の魔魚によってゴブリン部族は急速に発展した。
しかし天地の魔力が低下し、魔魚が減少。
結果として――
文明は衰退した。
さらに壁画には、興味深い情報もあった。
この谷へ入れるゴブリンの数は厳格に制限されていたのだ。
余剰人口はすべて外へ追い出す。
そして追い出されたゴブリンは、この谷を見つけられない。
(……賢い)
フィルードは正直に感心した。
この判断があったからこそ、
この部族は何世代にもわたって生き延びたのだろう。
だが今回は――
(運が悪かったな)
レーガンたちに発見された時点で、終わりだった。
それから数日。
フィルードは洞窟のあちこちを徹底的に調べた。
しかし――
特別なものは見つからない。
(やはり……)
真の秘密は。
川の底にある。
だが問題がある。
今のフィルードの境界では、水中潜行は往復で最大十分程度。
しかも水中では魔力探知が著しく鈍る。
つまり――
広い河底を調べるには、時間が足りない。
さらに、魔力源がここにある保証もない。
上流から流れてきている可能性すらある。
(……効率が悪すぎる)
そこで彼は方針を変えた。
魔魚の巣を探す。
この魚が進化するには、大量の魔力が必要だ。
つまり魔力濃度の高い場所に集まるはず。
そこを調べればいい。
だが――
何日探しても、成果はなかった。
そして。
諦めかけた頃。
エレナから連絡が入った。
「北側、数十里先……水潭があります」
「魔力濃度が異常に高い」
フィルードの目が鋭く光る。
(来たか……)
彼は即座に移動した。
その水潭も洞窟内に存在していた。
空間は非常に広く、
水面は小さな湖のようだ。
フィルードは躊躇なく飛び込んだ。
水中に入った瞬間、すぐに理解する。
(……濃い)
この湖水。
普通の水源より明らかに魔力が多い。
しばらく泳いでいると、
白鱗魚が何匹も見つかった。
だが――
どれも小さい。
(幼魚か)
つまり、ここは繁殖地。
フィルードは湖内を泳ぎ回り、最も魔力濃度の高い場所を特定した。
そして水面へ浮上し、エレナを呼ぶ。
二人は同時に深呼吸した。
「行くぞ」
「はい」
次の瞬間。
二人は一気に潜った。
湖底へ。
深く、さらに深く。
十五メートル。
そして――
二十メートル。
ようやく湖底へ到達した。
水圧はすでに限界に近い。
(……上位超凡者でなければ)
(とっくに死んでいるな)
だが――
その瞬間。
フィルードの瞳が見開かれた。




