第387章 谷に潜む進化種――大ゴブリンという異常
ゴブリンたちの巣窟は、山そのものに築かれていた。
山肌には、無数の洞穴が穿たれている。
まるで蟻の巣のように、至る所に黒い穴が口を開けていた。
(……これは)
(予想より、はるかに規模が大きいな)
レーガンは静かに目を細めた。
明らかに、かなりの数のゴブリンがここに住んでいる。
そして今――
その小柄なゴブリンたちは、山の中腹に防御陣を築いていた。
雑ではあるが、隊列らしきものを組んでいる。
全員が槍を握っていた。
木製の槍だ。
粗末ではあるが、殺傷力は十分にある。
だが、レーガンが最も驚いたのはそこではない。
(多すぎる……)
ざっと見積もって――
四百、いや五百近い。
レーガンも、隣にいるクルミの花領主も、この規模は予想していなかった。
普通なら。
これほど大きなゴブリン集団が存在すれば、周囲に何かしらの痕跡が残る。
略奪。
狩り。
人や家畜の被害。
しかし――
(今まで何年も気づかれていない?)
(それはおかしい)
レーガンは冷静に状況を整理した。
目の前にいる防衛部隊だけで五百前後。
しかもこれは青壮年の戦力だけだ。
もし後方にいる老弱や子供を含めれば――
(総数は……)
(軽く千、いや二千近い)
普通なら、この規模のゴブリンを養うことなど不可能だ。
しかも。
この谷の外では、大規模なゴブリン活動の痕跡は一切見つかっていない。
レーガンとクルミの花は顔を見合わせた。
言葉にしなくても分かる。
(ここには絶対に秘密がある)
(でなければ説明がつかない)
そして、もう一つの異常。
ゴブリンたちが武器を持って抵抗していることだ。
これもまた予想外だった。
焦りを感じた二人は、すぐに軍へ命令を出した。
「前進――」
その時だった。
山の上から、
「ウー……ウー……」
低く急いたような音が響いた。
次の瞬間。
ゴブリンの群れの中から――
一体、明らかに体格の違う個体が現れた。
レーガンの目が鋭くなる。
(……大きい)
そのゴブリンは、身長がほぼ一六〇センチ近い。
普通のゴブリンより、頭一つ以上大きい。
一般的なゴブリンはせいぜい一二〇センチ程度。
痩せた個体は一メートルにも満たない。
明らかに異質な存在だった。
しかし、驚きはそれだけでは終わらなかった。
さらに――
次々と。
同じように体格の大きいゴブリンが姿を現した。
一体。二体。三体。
そして最終的に――
六体。
レーガンは思わず目を見開いた。
「……新しい獣人種族か?」
隣で、クルミの花が低く呟いた。
「……まさか」
その声は明らかに重かった。
「大ゴブリンか……」
眉を深く寄せる。
「厄介だな」
レーガンは聞き返した。
「大ゴブリン?」
クルミの花は小さく息を吐いた。
「つまり向こうには――」
「六人の超凡者がいる」
レーガンの眉がわずかに動く。
「しかも」
クルミの花は山の上の一体を指さした。
「あの中央の奴」
「見習い中級超凡者だ」
そして苦く笑った。
「正直に言う」
「今の戦力じゃ、俺たちでは勝てない」
「勝ったとしても……」
視線を戦士たちへ向ける。
「こちらの損害は壊滅的だ」
そして即座に結論を出した。
「撤退だ」
「一度引いて、上に報告した方がいい」
レーガンは少し驚いた。
「大ゴブリンとは何です?」
「ゴブリンにも大小があるんですか?」
「それに……」
山を見ながら言う。
「大きい個体は全員超凡者なんですか?」
クルミの花は頷いた。
「そうだ」
「あいつらは全員超凡者だ」
そして谷を見渡した。
「この場所は異常だ」
ゆっくり説明を続ける。
「普通のゴブリンは知能が低い」
「せいぜい飼い犬レベルだ」
「ほとんどは本能で動く」
だが――
「稀に変異種が生まれる」
「生まれた時から知能が高い個体だ」
「そいつらは成長すると――」
「進化する」
レーガンは興味深く聞いていた。
「ただし」
クルミの花は空を見上げた。
「今の時代は天地の魔力が枯渇している」
「自然進化はほぼ起こらない」
「だから大抵は外部の力だ」
そして谷を指した。
「だからここが怪しい」
「この谷の中に――」
「魔力源があるはずだ」
でなければ。
一度にこれほどの大ゴブリンが生まれるはずがない。
「大ゴブリンになると知能も上がる」
「少なくとも普通の獣人並みだ」
さらに。
「寿命も長い」
「普通のゴブリンは十数年で死ぬが――」
「あいつらは数十年生きる」
そして苦笑した。
「俺も実物は初めてだ」
「部落の古老から聞いただけだった」
山を見上げる。
「まさか……」
「一度に六体も見るとはな」
レーガンはゆっくり頷いた。
「では」
「一旦撤退しましょう」
「これは我々の手に負える相手ではありません」
二人が撤退を決めた――
その直後だった。
山の上から、小さなゴブリンたちが降りてきた。
数十体。
彼らは籠を担いでいる。
(……?)
レーガンは思わず足を止めた。
籠が近づくにつれ、中身が見えてきた。
それは――
魚だった。
籠いっぱいの魚。
レーガンとクルミの花は思わず顔を見合わせた。
(何のつもりだ?)
籠を置くと、小さなゴブリンたちは慌てて逃げ帰った。
レーガンは魚を見下ろす。
(……これは)
(友好の意思表示か?)
相手には明らかに対抗できる戦力がある。
それなのに。
戦わず、贈り物を送ってきた。
(つまり)
(あの大ゴブリンたちは状況を理解している)
(俺たちの背後に勢力があることも)
知能はかなり高い。
だが――
レーガンには別の疑問が浮かんだ。
(魚?)
この周辺には大きな川も湖もない。
それなのに、これだけの魚。
しかもこの谷には川すら見当たらない。
(……どこから取った?)
どう考えても説明がつかなかった。
レーガンは山の上の大ゴブリンへ軽く頭を下げた。
そして魚の籠を担ぎ上げる。
「撤退する」
軍は谷を離れた。
時間を無駄にせず、すぐに営地へ戻る。
到着すると同時に、レーガンは馬へ飛び乗った。
(急がなければ)
この情報は重要すぎる。
フィルードへ報告だ。
レーガンは全速力で町へ向かった。
――それから三日後。
レーガンの報告はフィルードの元へ届いた。
これほど早く届いた理由は一つ。
王国で整備していた伝書鳥システムが、ようやく機能し始めたからだ。
この仕組みを作るのに、ほぼ二年かかった。
フィルードは専任の担当者を置き、大規模な選別を行った。
前世の鳩のような帰巣本能を持つ鳥を探し出し、
帰巣能力の高い個体だけを残して繁殖させる。
方向感覚の悪い個体は――
すべてスープか焼き鳥になった。
遠くへ飛んでも戻ってくる個体だけを残したのだ。
まだ第一世代。
精度は低い。
しかし方向性は正しい。
時間が経てば、さらに性能は上がるはずだった。
精度の低さを補うため、フィルードは一つのルールを決めていた。
伝令は必ず五羽同時に放つ。
一羽でも二羽でも戻れば、情報は届く。
そして今回――
見事に成功した。
報告を受けたフィルードは、すぐ行動した。
「エレナ」
「行くぞ」
二人はすぐ出発した。
数時間後には、レーガンの守備営地に到着する。
物音を聞いたレーガンが、急いで外へ飛び出した。
そして――
片膝をついて跪く。
「属下」
「陛下にお目にかかれました」
フィルードは笑って彼を立たせた。
「レーガン守備官」
「よくやった」
肩に手を置く。
「お前が守備官になってから」
「王国は多くの利益を得ている」
そして満足そうに頷いた。
「本当に将来有望な若者だ」
「しっかりやれ」
「ここはまだ出発点に過ぎない」
「将来は宮廷に入り――」
「王国全体の計画を担う人材になれ」
レーガンの顔が赤くなった。
再び深く礼をする。
「属下、謹んでお受けいたします」
「陛下のご厚情に感謝申し上げます」
「必ず王国のために尽くします」
フィルードは軽く彼の肩を叩いた。
「今回来たのは」
「お前が報告した大ゴブリンの件だ」
出発前に、彼は獣人の長老たちから詳しく話を聞いていた。
「この生物の情報が少し分かった」
長老たちの多くも実物は見たことがない。
それほど稀少な存在だ。
だが伝承によると――
大ゴブリンはたいてい、
「魔薬か魔石を誤食して進化した個体」
だと言われている。




