第358章十五万崩壊――王国、潰走の夜明け
だが、当然ながら全員が脱出できたわけではない。
敵兵に押し潰され、包囲の中に取り残された者も少なくなかった。
そうなれば、あとは運を天に任せるしかない。
チェリルは突入前、繰り返し言い聞かせていた。
「絶対に密集するな。人の多いところへ入るな。包まれたら終わりだ」
夜襲は刃のようなものだ。
細く、鋭く、素早く。
鈍くなれば、逆に折られる。
俺は五万の獣人大軍を率い、松明を掲げて敵営から三、四里離れた場所に布陣していた。
すぐには動かない。
夜明けを待つ。
獣人の多くは夜目が利かない。無理に夜戦を仕掛ければ統制が崩れる。
――焦る必要はない。
敵はすでに内側から崩れている。
三十分ほどして、血に染まったチェリルが部下を連れて戻ってきた。
軍礼を取り、報告する。
「陛下、脱出に成功しました。ですが……五百名が未帰還です」
五百。
軽くはない。
「戦死、迷子、あるいは敵営に飲み込まれた者もいるでしょう。敵はあまりにも数が多く、押し合いへし合いで……避けきれませんでした」
俺は静かに頷いた。
「よくやった。十分だ」
五百で済んだのなら、上出来だ。
「下がって休め。夜明けと同時に総攻撃をかける。空腹のまま一晩中振り回された軍が、どれだけ戦えるか見せてもらおう」
チェリルは深く一礼し、部隊のもとへ戻った。
俺はすぐに伝令を呼ぶ。
「ダービー城へ急げ。ゾーンに一万の獣人守備軍団を残し、城を固めろ。残り二万を率いてダービー城と楓葉城の境界へ進出。敗走兵を狩れ」
さらに別の伝令へ。
「フランク子爵に伝えろ。夜明けと同時に出撃だ。今回は連合軍を一挙に叩き潰す」
二人が闇へ消える。
俺は山上に腰を下ろし、下方の敵営を見下ろした。
十五万規模の軍が混乱すると、あれほどの地獄絵図になるのか。
悲鳴が連鎖し、松明が倒れ、陣形は瓦解。
敗走兵が営外へ溢れ出す。
騒音はほぼ一晩中続いた。
夜明け前、ようやく混乱は沈静化し始める。
その間にも、暗夜小隊の生き残りがぽつぽつと戻ってきた。
――削り切ったな。
ちょうどその時、俺は五万の獣人連合軍を率いて、ゆっくりと前進を開始した。
同時に、フランク城でも轟音が響く。
「ドン!」
城門が開いた。
長期の投石戦で城壁は瀕死。俺の計算では、あと数日で陥落してもおかしくなかった。
フランクもカルトンも、内心は震えていただろう。
だが昨夜の夜襲。
あれが彼らの命綱になった。
一万を超える兵が城門から出撃する。
俺の軍はゆっくりと敵営を包囲していく。
中は地獄だ。
あちこちで負傷兵がうめき、地面には三万以上が倒れている。
大半は負傷者。
一部は死亡。
踏み潰されて死んだ者も多い。
残りは恐怖に駆られ、互いに殴り合い斬り合った結果の傷。
混乱下では致命傷は意外に少ない。槍による刺突が最も致命的だ。
半晩の混乱で、無傷の兵ですら膝をついている。
精鋭部隊は五、六里先へ退き、再編成を試みているらしい。
だが遅い。
俺の軍は営地を完全に囲んだ。
逃げようとする者は次々に捕縛。
営内へ突入すると、空腹で目を血走らせた兵士たちは武器と鎧を投げ捨て、我先にと降伏した。
拍子抜けするほど容易い。
簡易集計で、残兵は八万以上。
農奴兵も正規兵も混在。
タロン王国の援軍も相当数含まれている。
全員を縛り上げ、数千の兵で監視。
俺は即座に主力を率い、撤退方向へ追撃を開始した。
その頃。
十数里先。
エドモンは地面に座り込み、憔悴しきった顔をしていた。
周囲には王国内の貴族、そしてタロン王国の将たち。
エドモンが虚ろな声で言う。
「北征は完全に失敗だ……時間がない。フィルードの賊がすぐに追ってくる」
拳を震わせる。
「あのドワーフはミノタウロス王庭まで進軍したと言っていたではないか。なぜ援軍に来なかった?なぜ奴はあれほどの軍を出せた?峡谷領地にあんな戦力を隠していたとは……!」
ようやく理解したのだろう。
自分が踊らされていたことを。
「もう言い訳は不要だ。今は策を出せ」
幕舎の空気が重く沈む。
タロン王国の客将、ショウカ侯爵が口を開いた。
「陛下。もはや打つ手はありません」
冷静な声。
「十五万は今や五、六万の敗残兵。正面決戦は不可能。長期の食糧不足で衰弱し、昨夜の混乱で体力は限界です」
事実を並べる。
「最善は即時撤退。楓葉城管轄の子爵領まで下がる。一日とかかりません。全員は無理でも、一部は逃げ切れます」
そして本音を出す。
「我がタロン王国は支援のために出兵しました。殿は貴国に務めていただきたい。我らは先に退きます。数万を連れ帰らねば、我が国王陛下に顔向けできません」
幕舎が騒然となる。
ウェインはやつれ、白髪が目立つ。
この敗戦で散々罵倒されたのだろう。
だが王族の一人が反論する。
「殿など不可能だ。我々にその力はない。軍を分散し、各自で子爵城へ逃げるべきだ。速度を上げれば一部は助かる。あとは運だ」
ショウカが言い返そうとした瞬間、エドモンが手を上げて制した。
「その通りだ」
力なく言い切る。
「いまの我らに、盟友を守る力など残っていない」
――終わったな。
俺は遠くでその動きを予測しながら、静かに馬を進める。
王国。
十五万の大軍。
その敗北は、もう確定している。
あとは、どれだけ刈り取れるかだ。




