第359章 折れた背骨、奪われた王国の半身
「ショウカ侯爵……申し訳ないがな。どれだけ逃げ切れるかは、もはや天命に任せるしかあるまい」
エドモンは、そう言いながらも視線を逸らした。
――天命、か。
追い詰められた王が使う言葉にしては、あまりにも軽い。
「今は、相手の騎兵がまだ補給路を荒らすことに気を取られ、こちらへ向かっていないことを祈るしかない」
祈る、か。
すでに“戦う”ではなく、“祈る”段階に落ちている。王としての威厳は、昨夜の混乱とともに地に落ちていた。
拒絶の意を察したショウカ侯爵は、それ以上何も言わなかった。顔色は鉄のように青ざめ、唇は固く結ばれている。
――愚か者どもめ。
その視線の奥にあるのは、恐怖よりも諦観だった。
やがてエドモンは、震える幕舎の中で最後の命令を下す。
「全軍に通達しろ。持っている干し食糧の大半を今すぐ食べ尽くせ」
「以後、百人隊を一単位として、枫葉城管轄の子爵領へ向けて撤退する」
「今回は山脈と森林沿いを進め。ああいう地形なら、大規模な包囲は難しい」
理屈は間違っていない。
だが、問題は――それを実行できるだけの統制が、今の軍に残っているかどうかだ。
命令が伝わると同時に、崩壊した陣営は再び大混乱に陥った。
兵士たちは無数の小隊へと分断され、食糧を貪るように口へ詰め込み、急ぎ足で散っていく。
彼らも愚かではない。
――追いつかれたら終わりだ。
それが分かっているからこそ、武器も鎧も次々に投げ捨てた。重さは命取りになる。
一瞬でも遅れれば、味方すら置き去りにする。そんな空気が全体を支配していた。
だが、周囲を見渡せば、自分よりもさらに先を走る者がいる。
軽装どころか、素手同然で必死に駆ける兵たち。
「待て!」と叫ぶ声も、すぐに飲み込まれた。
やがてそれを見た者たちも次々に真似をし始め、隊列は完全に瓦解した。
――統制なき軍は、ただの群衆だ。
一方その頃。
フィルードは、逃走する敵軍の様子を静かに見下ろしていた。
……予想通りだ。
恐怖と空腹で限界に達した軍に、統率など残らない。
「全軍、急行軍だ」
短い命令。だがその声には確信が宿っていた。
フィルード配下の歩兵と、長距離走で競おうなど愚かしい。
彼の軍は、普段から過酷な訓練を重ねている。逃げるために走る兵と、勝つために鍛えられた兵では、根本が違う。
敵を探す必要すらない。
道には捨てられた槍、鎧、盾が延々と続いている。
――道標を自分で残してくれるとは、親切なことだ。
追いつかれた小隊は、抵抗らしい抵抗もできず次々に捕縛された。
縛り上げ、見張りを残し、さらに追撃。
一切の躊躇はない。
勝ち戦とは、こういうものだ。
同時刻。
ユリアン率いる騎兵三千余も、必死に南へと駆けていた。
今のユリアンは、髭も伸び放題で、鎧も泥と血にまみれている。
周囲の騎兵たちも同様だ。人間兵も、わずかに混じる獣人も、まるで乞食のような姿だった。
だが――目だけは死んでいない。
半日後、ようやくダービー城と枫葉城の境目に到達した。
そこには、すでに大量の敗残兵が押し寄せている。
ユリアンの目が鋭く細まった。
「全軍に告ぐ! 突撃だ!」
「散兵線、三人一組で突撃しろ!」
三千余の騎兵が、瞬時に散開する。
敗残兵たちはそれを見た瞬間、絶望に染まった。
「騎兵だ!」
悲鳴が連鎖する。
馬槍が閃き、列の中を切り裂いていく。逃げ場はない。
しばらくして、十分に恐怖が広がったと判断したユリアンは、大声で叫んだ。
「アモン王国およびタロン王国の兵士たちよ、よく聞け!」
「武器を捨て、頭を抱えてしゃがめ! そうすれば命は助ける!」
「従わぬ者は、ここを墓場にしてやる!」
三千の声が一斉に響き渡る。
十数里先まで届くほどの怒号。
やがて理解した敗残兵たちは、次々にしゃがみ込んだ。
地面に武器が転がる音が、雨のように響く。
それでも逃げる者はいた。
やがて地面は、しゃがみ込む兵で埋め尽くされる。足が痺れ、座り込む者も出始めた。
夕暮れ。
腹の鳴る音が、あちこちで響く。
そこへ、ダービー城から派遣された二万の獣人守備軍団が到着した。
ユリアンは思わず笑った。
――間に合ったな。
兵が増えたことで、秩序立った収容が可能となる。
さらに城から食糧が運ばれ、捕虜たちへ与えられた。
もっとも、全員を捕らえたわけではない。別方向から枫葉城へ逃げ込んだ者もいる。
だが、二日後。
ダービー城領内に敗残兵の姿は一人も残っていなかった。
捕まったか、逃げ切ったか。
最終的な清算。
再集合した五、六万のうち、本当に逃げ延びたのは――わずか一万。
エドモンは十五万で出陣し、十四万を失った。
この一戦で、アモン王国の背骨は折れた。
攻守は完全に逆転したのだ。
その後、フィルードは静かに戦果の清算を始める。
十五万を撃破。
以前、牛頭城で殲滅した兵も含めれば、アモン王国はすでに極度の衰弱状態にある。
――今なら、滅ぼせる。
だが北ではドワーフが暴れている。時間は限られている。
死者は約一万五千。
その多くは戦死ではなく、長期の飢餓による衰弱死。
攻城戦で倒れたのは四、五千程度。
負傷者は三万。重傷が七、八千。生き延びるかは運次第。
残りは軽傷、踏み潰し、同士討ち、火災。
そして――捕虜。
約十一万。
うち軽傷二万。健康体九万。
その九万の内訳は、農奴兵三万、タロン兵三万、アモン兵三万。
――実に均整が取れているな。
フィルードは淡々と報告を聞きながら、内心で計算する。
モニーク城で集めた六万の青壮年。
ホワイトメインを土匪に仕立て、強制連行した十万。
合計、ほぼ三十万。
さらに今回。
即戦力にはならない。だが、労働力にはなる。
ダービー城周辺の人口もまだ多い。
元々の領民を含めれば、彼の支配下にある人間は八十万から九十万規模。
青壮年は三分の一以上。
――戦争が終われば、俺の勢力は一段階跳ね上がる。
今回はアモン王国の二つの伯爵領を丸ごと飲み込んだに等しい。
九つしかない伯爵領のうち三分の一。
モニーク城もすでに手中。
王国は、半身を失った。
フィルードは決断する。
捕虜は全員、ダービー城に残す。
城壁修復に従事させる。
ここには食糧がある。
領地へ連れ帰れば、余計な消費が出る。
――資源は、最適配置する。
戦とは、剣だけではない。
兵站、人口、労働、時間。
すべてを掌握してこそ、真の勝者だ。
フィルードは静かに遠くを見た。
アモン王国。
もはや“敵国”ではない。
崩れゆく、獲物だ。




