千年寝てましたが、二度寝はさせてもらえません
棺の中というのは、思ったより退屈しないものであるらしい。
その棺の主に、名はない。とうの昔に落とした。落とした場所も覚えていない。覚えているのは、自分が吸血鬼であるということと、もう何百年も血を吸っていないということだけだ。
血の代わりの糧は、人の念である。
祈り、恨み、退屈、欲。石の棺を越えて勝手に流れ込んでくるそれらのうち、優しさと純粋さだけをより分けて、舐める。それで足りる。溢れたぶんの残飯処理で、千年やってこられた。省エネにも程がある。
そして現在。棺は、極東の島国の博物館に展示されている。
輸送票には整理番号。ガラスケースの中で、昼は人の子が額をつけて覗いてくる。
――こわーい。
――よゆーで見れるんだけど。
――ミイラじゃん。ウケる。
浅い。あまりにも浅い。深く憎む者もいなければ、本気で祈る者もいない。かつては村ひとつが夜通し祈って恐れた相手が、今や「ウケる」である。千年の風雪、ここに極まれり。
ちなみに一番の上客は夜警の男だ。
――眠い。腹が減った。明日は娘の誕生日だ。
こういう念が一番甘い。本人が甘さに気づいていないぶんだけ甘い。棺は一口だけ貰い、残りは律儀に返す。男は棺の前を通るたび、理由もなく背筋を伸ばし、通り過ぎてから小さく欠伸をする。良い客である。末永く健康でいてほしい。
――そんな安定経営の日々に、異物が混じった。
視線である。
念には本来、形がない。ないはずのものが、その日だけは目の形をしていた。黒く、深く、こちらを見ている。すべてを知っている者の見方だった。
翌日も来た。その次も来た。
三日目の夜、棺の主は数百年ぶりに窓の外のカラスを借りて、外へ出た。断っておくが、脱走ではない。市場調査である。
視線の主は、少女だった。
古本屋の棚を端から端まで眺め、人込みを誰にもぶつからず抜け、街路樹の前で長いこと立ち止まる。買わない。話さない。誰も彼女を見ていない。
そして――何も、漏れてこない。
喜びも退屈も、一滴も。人はそこにいるだけで念が滲むものだ。滲まない人間を、千年でただの一人も知らなかった。
四日目。少女は建物の屋上に立った。
風で裾が鳴っている。少女は手すりの向こうに爪先を掛け、それから、電線の上のカラスを一度だけ見た。
――おい。
落ちた。
考えるより先にカラスの体が裂けていた。黒い羽が夜気を打ち、影は人の丈を取り戻して落下の線に割り込む。胸に受け止めた体は、あの棺よりも軽かった。
少女は落ちながら笑っていた。
「目覚めたのね」
「…………」
釣られたのである。千年物が、身投げの振りひとつで釣られた。
地に降りて羽を畳み、影はこの国の男が着る黒い上下の姿を取った。少女は驚かない。驚くという反応をどこかに置き忘れてきた顔で、下から見上げてくる。
「私はリラ」
名乗りは短かった。長いのは、次の言葉だった。
「王の名のもとに汝に命じる。僕となり我に仕えよ」
「断る」
即答だった。千年も生きていれば、面倒事の匂いは初手で分かる。
だが少女は引かなかった。夜風が髪を持ち上げ、あのふたつの目が真下から影を射抜く。
「思い出しなさい。あなたの血統を」
――まぁいい。どうでもいい。
何百年、そうやってすべてを聞き流してきた。祈りも、恨みも、名も。
その夜、初めて、流れなかった。
……僕になった覚えはない、というのが本人の言い分である。ないのだが、影の足は翌日も、その少女の後ろを歩いていた。




