第53話:人間という名の重荷
街の門の少し先で私は立ち尽くしていた。
ミリアさんが私の背中に回した腕には、先ほどまでの冷たい死の静寂とは対極にある、ひどく熱い生の震えが伝わっている。
私は小さく息を吐き、静かに彼女の腕を解いて少しだけ距離を取った。
「……王国軍は、もう来ません」
努めて感情を排した声で、私は告げた。
ハーストに向かっていた数万の軍勢は、今やこの世界には存在しない。死という概念に収束させ、灰の残滓さえ残さずに消し去った。
私の言葉を聞いたミリアさんの表情は、驚きに染まることはなかった。
ただ、まるで最初からそうなることを予期していたかのように、彼女はすべてを理解したような切ない瞳で私を見つめる。
「わかってます。でも……アインさんが、すべてを抱え込む必要はないんですよ」
ミリアさんはそう言って、少しだけ悲しそうな顔を見せた。
私のしたことは、誰かに共有できるようなことではない。数万の命を塗り潰し、その重みを一人で背負う、それは当然のことだ。しかし彼女は、言葉の裏側にある孤独という痛みを通じて感じ取っているのかもしれない。
私は、彼女が差し向けてくれるその慈愛が、今の私にはあまりにも眩しく、そして酷く遠いものに感じられた。
(抱え込む必要はない、か)
そうかもしれない。だが、もし私がこの死の概念を放さなければ、それは私という個体そのものが消失することを意味する。
「私には、これしかできません。……これは、ただの事象でしかありません」
私は自分の手を見つめる。そこには何もついていないはずなのに、数多の命を滅ぼしたという感触だけが、重く指先に残っていた。ミリアさんの悲しげな顔を見るのが耐えられず、私は再び視線を彼女の肩越しへと逸らした。
温もりを返そうとすればするほど、彼女の生を私の死が汚してしまうのではないかという恐怖が、喉の奥を締め付けていた。
ミリアさんは体を放すと、一度も逸らすことなく私の瞳をじっと見つめた。その静かな、それでいて底なしに強い眼差しに射抜かれ、私は言葉を失う。
「アインさん。あなたが死そのものであることは理解しています」
彼女の口から紡がれたその言葉は、拒絶ではなく、むしろ私という存在を丸ごと受け入れようとする宣告のようだった。
「ですが、それ以前に私にとってあなたはアインさんなんです」
ミリアさんは私の手を引き寄せ、自分の胸元へと重ねさせる。彼女の鼓動が、掌を通じて伝わってくる。それは冷たい静寂とは違う、不規則で、脆くて、愛おしい生のリズム。
「面倒くさがりで、自信家で、それでいて優しいアインさんなんです」
その言葉を聞いた瞬間、私の内側で凍りついていた何かが、痛みを伴って溶け始める。彼女が並べた私の欠点は、かつての私が確かに背負っていた「人間という名の愛すべき重荷」そのものだった。
「帰りましょう。……帰って美味しいご飯を一緒に食べるんです」
ミリアさんは私の手を握ったまま、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべる。その表情には、私の抱える得体の知れない闇を恐れる色は欠片もない。
「帰りましょう。……帰って美味しいご飯を一緒に食べるんです」
彼女がそう口にした途端、今まで私を支配していた死の静寂が、まるで砂上の楼閣のように崩れ去った。
途端に、胃の腑の底から、鋭く、そして確かな痛みを伴う渇望がせり上がってくる。数日間、存在すら忘れていたはずの生命の要求が、まるで堰を切ったように私という器を侵食した。
――グゥゥ……。
先ほどまでの静寂とは、不釣り合いなほど無防備な音が響く。
それは間違いなく、私のお腹が鳴った音だった。
概念などではなく、ただの空腹。
私は呆然として、自分の腹部を見下ろす。あれほど無機質に感じられた身体が、今は熱を帯び、生々しいまでの空腹感に悶えている。
ミリアさんはその音を聞くと、驚くどころか、むしろ安堵したように目元を細めて小さく笑った。
「……ふふ、やっぱり、お腹空いてたんですね」
彼女のそのあどけない反応に、私は自分がどれほど滑稽な状態であったかを思い知らされる。同時に、身体を焼き焦がすようなこの空腹こそが、私がまだこの世界に属している何よりの証拠なのだと理解し、私は自嘲気味に口角を上げた。
胃の腑が鳴るという、あまりに人間らしい事象に私は当惑していた。
そういえば、まだ終わっていない。街の防衛について頭を抱え、今もどこかで焦燥しているはずのガルボさんの顔が脳裏をよぎる。
「……ごはんと言えば。ガルボさんに報告は……」
彼は街を預かる者として、王国軍の動向に神経を尖らせているはずだ。王国軍が消えてなくなった以上、彼のもとへ向かい、脅威が去ったことを伝えなければならない。それが今の私に残された役割のようにも思えた。
しかし、私の懸念を遮るように、ミリアさんは少し困ったように微笑んで首を振る。
「衛兵さんにお願いしておきましょう。まずはご飯を食べて、ゆっくり眠ってください」
彼女はそう言うと、門の傍らで不安げに槍を握りしめていた衛兵を迷いのない動作で呼び寄せた。短く一言二言、何かを告げる。衛兵は私の姿を確認し、安堵と困惑が入り混じった表情で深く頷くと、足早に街の奥へと駆けていった。
私の意思など関係ないと言わんばかりの、迷いのないリードだ。
ミリアさんはそのまま、私の手をしっかりと引き始める。
「さあ、行きましょう。アインさん」
引かれるままに歩き出す。彼女の手のひらの熱が、私の冷え切った指先へと伝わり、まるで侵食するように身体の奥まで届いていく。
あんなにも無機質に感じられた世界が、今は彼女の歩幅に合わせるように、温かな温度を伴って通り過ぎていく。
ただ空腹を満たし、眠る。
そんな当たり前の営みが、今の私には峡谷の死を塗りつぶすよりも、ずっと困難で、そしてずっと尊いことのように思えた。
帰り道、ミリアさんは何も聞かなかった。
私が何を見て、どのような力を行使して戻ってきたのか。そんな問いは一つも口にせず、ただ楽しそうに献立や、街で起きた些細な出来事を語りながら、私の手を引いて歩いた。
その声を聞いていると、視界の隅にこびりついていた灰色の風景が、次第に本当の色を取り戻していく。
家に入ると、すぐに温かな食事が用意された。
湯気を立てる皿を前にして、私はまたしても自分の腹が大きく鳴るのを聞く。無機質な概念でしかなかったはずの私が、これほどまでに執着するほどの空腹を覚えていることに、微かな安らぎを感じる。
一口、スープを口に含んだ。
舌に伝わる温度、野菜の甘み、塩気の輪郭。その一つ一つが、私という器を人として再構築していく。
美味い、と思った。
かつてはただの栄養摂取に過ぎなかった行為が、今は私を「ここ」に繋ぎ止めるための儀式のようだった。
「……よかった」
向かい側に座るミリアさんが、本当に嬉しそうに呟く。彼女が私を見つめる眼差しには、救済などという大層な意味はなく、ただ大切な人が食事をしているという日常の肯定だけがあった。
食事を終え、私は自分の寝台に腰を下ろす。
どれほどの時間が過ぎたのか、外の闇は深まっていた。峡谷で感じたあの冷たく広大な死の気配は、今はこの部屋の壁の外で、大人しく息を潜めている。
寝台に横たわると、身体が重力に素直に従い、深く沈み込んでいく。
これまで意識することのなかった瞼の重みが、ようやく訪れた。
「おやすみなさい、アインさん」
部屋の灯りを落とすミリアさんの背中を見ながら、私はゆっくりと瞳を閉じる。
眠りに落ちることは、死に近い現象だと考えていた。しかし、今こうして感じる微睡みは、そんな恐ろしいものではない。明日という不確定な未来を夢見るための、穏やかな準備に過ぎなかった。
暗闇の中で、ミリアさんの柔らかな気配を感じる。
私はもう、概念に戻る必要はない。ただの人間として、明日また目覚めればいい。
そう思って息を吐き出すと、意識は穏やかに、そして深い静寂の底へと沈んでいった。




