第52話:日常という名の幻影
帰り道の足取りは、羽のように軽かった。
峡谷に立ち込めていた鉛色の空気――あの数万の死の重なりは、今や私の内側に完全に溶け込んでいる。
――そういえば、奇妙だ。
峡谷へ向かうまでの数日間、そして今、街へと戻るこの道中も、私は一度として休息を取っていない。
山を越え、森を抜け、街道を休むことなく歩き続けているというのに、足には疲労の色一つなく、呼吸さえも乱れることはない。
ふと、空腹を覚えようと意識を向けてみる。しかし、胃の腑からは何の催促もない。喉の渇きも、身体の熱も、あるいは夜の寒さに対する震えさえも、私という器から綺麗さっぱり消え去っている。
どうやら私という存在は、栄養を摂取し、休息を必要とする「生命」という枷とは無関係の者だったらしい。今まで感じて居た食欲や、眠気、疲労といった概念は、人を模して造られた私がただ人のまねごとをしているだけだったのかもしれない。
あまりにも多くの死に触れすぎたせいか、自分の中で何かが希薄になっているように感じる。
ふと道端に咲く名もなき花に視線が止まる。かつてなら、ミリアさんのことを思い出し、摘み取って帰ろうと考えたかもしれない。だが、今の私にはその花が鮮やかな色を持っているようには思えない。
それはただの有機物。いずれ土に還り、消え去るだけの現象の一つでしかない。
私の内側で、あの時放った死の残滓が静かに渦巻いている。
それは通常の人が抱くべき死とは全くの別物だ。死とは終わりではなく、全ての存在が必ず到達するべき終着点。万物が等しく帰るべき場所。私という個体は、その絶対的な終着点へと世界を導くための、ただの概念へと戻っていく。
(あぁ、世界はこれほどまでに静かなのか)
彼方に他者の命の灯火が見える。
その光がどれほど強く輝いていても、私の目にはその全てが、今まさに消えかかっている刹那の現象として映る。生と死の境界が、私の中で溶けてなくなっていく。
生命の鼓動が、まるで遠い過去の記憶のようだ。自分の胸に手を当ててみても、そこに刻まれるべきはずの心音が、他人の時計の針のように無機質にしか感じられない。
彼らがどれほど必死に生きようとも、彼らはただ、死という完成形へ向かって歩いている途上の影に過ぎない。そして私もまた、その影を先導する存在でしかなかったのだ。
遠くにハーストの街の灯りが見えてきた。
あそこには、まだ温かい日常が息づいているはずだ。けれど、今の私には、その日常がまるで走馬灯のように、既に失われた過去の残像としてしか認識できない。飢えも乾きも感じないこの身体で、私は何を食べるというのだろう。何のために、明日を待つというのだろう。
(……まあ、いい)
私はただ、あの街という現象を維持するために戻るだけだ。
(何のために……?)
飢えも渇きも感じない私が、唯一感じているのは、自分という形が少しずつ、砂のように世界の中に散逸していくような空虚な感覚だけ。
私は一歩を踏み出した。その足跡は、まるで最初から存在しなかったかのように、夜の闇へと静かに溶け込んでいく。
かつての私なら帰る場所であったはずの街が、今の私には、大量の死を孕む墓地のように見えた。
街の門を前にして、私は立ち止まった。
ここから先へ進む意味が、霧の中の蜃気楼のように揺らいで見える。中に入れば、そこには滅びゆく者たちの温もりが溢れている。だが、今の私にそれを享受する資格があるのだろうか。
私はただの、終焉を呼び込む器。私の存在そのものが、この街の日常を内側から蝕む毒なのではないか。
灰色の静寂が、私の思考を鈍らせる。
――いっそ、このまま背を向けて、誰の視界にも入らない荒野へ消えてしまおうか。
その時だった。
「――アインさん!」
不意に、澄んだ鐘の音のような声が静寂を切り裂いた。
振り返ると、そこには街の門から飛び出してきたミリアさんの姿があった。彼女は私を見つけると、息を切らしながらも、まるで太陽そのものが駆けてくるかのように、真っ直ぐに私へと突き進んでくる。
「っ……、よかった、本当に……っ!」
私が反応するよりも早く、彼女の細い腕が私の身体に巻きついた。
温かい。
肩に押し付けられた彼女の額から、生身の人間だけが持つ熱が伝わってくる。
その瞬間だった。
私の視界を塗り潰していた鉛色の幕が、音を立てて引き裂かれる。
ミリアさんの髪の淡い黄金色。彼女の服の、使い込まれた布地のあたたかな色合い。焚き火から立ち上る炎の鮮烈な赤。失われていたはずの色彩が、彼女の抱擁を核にして、世界へとなだれ込んできた。
「アインさん、ずっと……ずっと待ってたんです。無事でよかった……っ!」
彼女の心臓の鼓動が、私の胸に直接響いてくる。それは無機質な時計の針の音ではなく、今ここで懸命に生を刻んでいる、確かな命の鼓動だった。
私は、自分の腕が震えていることに気づいた。
死という絶対的な完成形に飲み込まれかけていた意識が、彼女の温もりに引き戻される。色が戻った世界は、あまりに眩しい。その光に、私は思わず目を細めた。
(……戻ってきたのか)
砂のように散逸しかけていた私が、彼女という錨によって、再びこの世界へと繋ぎ止められている。
「……ミリア、さん」
私の声は、ひどく掠れていた。喉に溜まっていたのは死の静寂ではなく、かつての私自身の、不器用で、けれど確かにここに在るはずの感情だった。
私はゆっくりと、しかし彼女を壊さないように慎重に、ミリアさんの背中に手を回した。
この温もりを奪う権利など、誰にもない。それが例え、終焉をその身に宿した私自身であっても。




